第13話 鳴らぬ筒
林佐渡守の目が入ってから、那古野の中に小さな場が作られた。
評定というほど大げさなものではない。
蔵番。
馬屋頭。
台所の年長。
門番頭。
鍛冶場の者。
それぞれが、困っていることを一つずつ上げる。
そこに平手様が座り、権六が控え、新五が記す。
龍之介は、命じるためではなく、聞くためにその場にいた。
そして隅には、林の家から出された男もいる。
林佐渡守が寄こした目だ。
名を平八という。
無駄口は叩かないが、龍之介を見る目にはまだ硬さがあった。
信長は、その場にはいない。
少なくとも、最初はそういう形だった。
だが、龍之介には分かっていた。
この若者が、本当に聞く気なら、どこかで聞いている。
そう思わせる空気が、すでに那古野にはあった。
「では、まず蔵から」
平手様が静かに言った。
蔵番が頭を下げる。
「縄を一角だけ分けました。荷縄、馬に使う縄、陣で使う縄。それぞれ古いものを手前にしております」
「支障は」
「今のところは。むしろ、急に出せと言われた時は早うございます」
権六が龍之介を見る。
龍之介は頭を下げた。
「蔵番殿が教えてくださったおかげです」
蔵番は少し照れたように咳をした。
林平八は、その様子を黙って見ている。
次に馬屋頭が言った。
「飼葉は今のところ足りております。ただ、雨が続くと湿ります。それと、外から来る馬子に紛れる者を見分けるのは、我らだけでは難しい」
「どう難しい」
平手様が問う。
「本物の馬子でも口のうまい者はおります。逆に、無口な者が怪しいとも限りませぬ。ただ、馬の扱いに慣れぬ者は分かります」
藤吉郎が部屋の隅で小さく頷いた。
正式な場に座る身分ではない。
だが、新五の後ろに控える形で置かれている。
龍之介は馬屋頭へ言った。
「では、馬の扱いがおかしい者がいれば、名ではなく、何がおかしいかを新五殿へ上げる形でいかがでしょう。馬の歯を見ない。足を怖がる。手綱の持ち方が違う。そういうことだけでも」
馬屋頭は頷いた。
「それなら言えます」
林平八が口を開いた。
「しかし、それでは城へ出入りする者を疑って回るように見えぬか」
声は静かだが、鋭い。
龍之介はすぐに頭を下げた。
「疑うのではなく、馬が荒れぬよう見る、という形がよろしいかと。馬が荒れれば人も怪我をします。そこを防ぐために、馬屋の方々が気づいたことを上げていただく」
平八は黙った。
納得したのか、まだ見ているのかは分からない。
権六が低く言う。
「言い方を間違えれば、疑いになる。そこは気をつけろ」
「はい」
龍之介は頷いた。
次に、台所の年長の女が口を開いた。
「弥助の件がありましたので、下働きは怯えております。ですが、木戸を閉じれば薪や野菜が入れにくくなります」
平手様が問う。
「木戸は今どうしておる」
「音が鳴るように戻しました。開ければ分かります。ただ、夜は人手が薄うございます」
藤吉郎が小さく手を挙げかけ、新五に目で止められた。
龍之介はそれを見て、少しだけ口元を緩めそうになった。
藤吉郎は自分が知っている裏道を言いたいのだろう。
だが、ここは正式な場だ。
新五が代わりに言う。
「台所裏の木戸は、使う刻を決めてはいかがでしょう。開けるたびに誰か一人ではなく、二人で扱う。片方は台所、片方は外の荷を見る者」
台所の女が少し考えた。
「それなら、下働き一人が脅されても、すぐには開きませぬ」
平手様が頷く。
「よい。まずはそれで試す」
龍之介は、新五を見た。
静かだ。
だが、必要なところで言う。
林の目が入っているこの場で、新五は自分の立ち位置をよく分かって動いている。
又左なら、もっと大きく踏み込むだろう。
それはそれで必要だ。
しかし、今は新五の静かさが効いていた。
最後に、鍛冶場の男が口を開いた。
年配の、腕の太い男だった。
名は与吉。
刀鍛冶というより、城内の修繕や金具、槍の穂先、馬具の金物まで見る職人だという。
「困っていることを申せと言われましても、鍛冶場はいつも困っております」
与吉は苦い顔で言った。
又左がいれば笑ったかもしれない。
だが、この場では誰も笑わなかった。
平手様が静かに問う。
「何に困っておる」
「鉄です。炭です。人手です。それと、最近は火縄筒の直しまで回ってきます」
火縄筒。
その言葉に、龍之介の意識が鋭くなった。
種子島。
鉄砲。
この時代には、もうある。
ただし、現代の感覚で思うような揃った武器ではない。
数も少なく、扱える者も限られ、湿りに弱く、筒ごとに癖も違うはずだ。
信長の声が、障子の向こうからした。
「火縄筒がどうした」
やはり聞いていた。
部屋の者たちが一斉にそちらを見る。
障子が開き、信長が姿を見せた。
「続けろ」
与吉は慌てて頭を下げた。
「はっ。筒はあるにはあります。ですが、鳴る筒と鳴らぬ筒がございます。火皿の具合、火縄の湿り、玉の合い方。いざ使う時になって、鳴らぬと言われても困ります」
信長の目が細くなる。
「鳴らぬ筒か」
「はい。見た目は筒でも、戦場で鳴らねばただの重い棒です」
龍之介は、その言葉を聞いて息を呑んだ。
ただの重い棒。
戦場で使えるかどうかは、持っている数ではなく、鳴る数で決まる。
信長が龍之介を見る。
「お前、何か言いたそうだな」
「はい」
「言え」
龍之介は慎重に言葉を選んだ。
「火縄筒は、数える時に二つに分けるべきかと存じます」
「二つ?」
「持っている筒の数と、戦場で鳴る筒の数です」
部屋が静まった。
与吉の目が龍之介へ向く。
龍之介は続けた。
「筒だけあっても、火縄が湿っていれば鳴りませぬ。玉が合わねば詰まります。火皿や口が悪ければ、火が移りませぬ。ならば、まず鳴る筒と鳴らぬ筒を分けるべきです」
与吉が頷いた。
「それは、そうです」
「さらに、同じ玉で使える筒をまとめる。玉袋に印をつける。火縄を湿らせぬよう、持ち出す前にどこで保つかを決める」
平八が眉をひそめる。
「流れ者が、火縄筒まで知るのか」
来た。
龍之介は頭を下げた。
「詳しくは知りませぬ。ただ、鳴らぬ武器は兵を殺します」
「兵を殺す?」
「鳴ると思って前へ出た筒が鳴らねば、その兵は逃げ遅れます。隣の兵も乱れます。敵はそこを見る。ならば、鳴らぬ筒を鳴るものとして数えるのは危うございます」
信長の目が鋭くなった。
与吉は腕を組み、唸る。
「言うことは分かります。だが、筒ごとの玉を分け、火縄の置き場を分け、人を決めるとなると手間です」
「手間を惜しんで戦場で鳴らぬ方が怖い」
信長が即座に言った。
与吉は頭を下げた。
「はっ」
平手様が静かに口を挟む。
「若。火縄筒はまだ数が限られております。大きく動かせば、また噂になります」
「分かっておる。だから大きくはやらぬ」
信長は龍之介へ向いた。
「まず何をする」
「鳴る筒を調べます」
「どうやって」
「実際に撃つのが一番ですが、音が出ます。噂にもなります」
「ならば」
「まずは鍛冶場で筒を見分ける。火皿、口、玉の合い方、火縄の乾き具合。鳴るかどうかではなく、鳴らぬ理由を潰します」
与吉が頷いた。
「それならできる。だが、玉の合い方までは、撃たぬと分からぬものもある」
「試し撃ちは必要です。ただし、一度に多くではなく、理由をつけて少しずつ」
藤吉郎が、ぽつりと言った。
「山で猪が出たことにすれば?」
全員の目が藤吉郎へ向いた。
藤吉郎は慌てて頭を下げる。
「すみませぬ」
信長は笑った。
「いや、悪くない」
権六が呆れた顔をする。
「若。猪でございますか」
「猪でも的でもよい。試し撃ちだと騒ぐより、獣を追うと言った方が目立たぬ時もある」
与吉が低く言う。
「ただ、筒を扱う者を決めねばなりませぬ。誰でも撃てるものではありませぬ」
信長は頷いた。
「そこだな」
龍之介は、少しだけ息を整えた。
ここで言えば、さらに話が広がる。
だが、言わねば意味がない。
「若様。火縄筒を持たせる者は、普段から触らせるべきです」
「普段から?」
「はい。戦の時だけ渡しても、火縄を扱えませぬ。詰め方も、構え方も、湿りの見方も分からない。ですが、畑の者を常に引き剥がせば、村が困ります」
信長の目が光る。
「では」
「少数でよいので、常に扱う者を選ぶ。百姓仕事から完全に離すかどうかは別として、筒を扱う日、手入れする日、撃つ日を決める。戦の時だけ集めるのではなく、普段から筒に慣れさせる」
部屋の空気が変わった。
権六の目が鋭くなる。
平手様も黙っている。
これは、ただ火縄筒の話ではない。
兵のあり方に触れている。
田畑から人を呼ぶ。
戦の時だけ集める。
それとは違う形の芽だ。
信長は、ゆっくりと言った。
「普段から戦う者を作る、か」
龍之介は頭を下げた。
「大きくやれば、村も家中も乱れます。ですので、まずは数人から。筒を持つ者ではなく、筒を鳴らせる者を作ります」
信長は笑った。
楽しげで、危うい笑みだった。
「よい」
平手様がすぐに言った。
「若、大きくなされませぬよう」
「分かっておる。今は芽だ」
権六も言う。
「筒ばかり見れば、槍が疎かになります」
「それも分かっておる」
信長は龍之介を見た。
「お前も、鉄砲ばかり見るな。槍も道も蔵もある」
「承知しております」
藤吉郎が小声で呟いた。
「飯もあります」
又左がいれば笑っただろう。
信長は少しだけ口元を上げた。
「そうだ。飯もある」
場の空気がわずかに緩む。
しかし、龍之介は緩みきれなかった。
火縄筒。
普段から扱う者。
鳴る筒と鳴らぬ筒。
それは、今後の戦を変える。
だが、変えれば敵も動く。
清洲がそれを知れば、当然探る。
今川や美濃へ届けば、さらに大きな目が向く。
小さな改善では済まなくなる。
信長はそれを分かっているのだろう。
分かっていて、なお面白がっている。
鍛冶場の見分は、すぐに始まった。
大げさに運び出すことはしない。
与吉が普段の修繕の名目で、筒を一本ずつ見る。
龍之介は横で見た。
火皿。
口。
筒の中。
玉。
火縄。
火薬の扱い。
現代の知識はある。
だが、この時代の現物は違う。
鉄の匂い。
炭の熱。
職人の手。
油と煤。
それらを前にすれば、頭だけの知識がいかに頼りないか分かる。
「これは玉が小さい」
与吉が言った。
玉を筒口に当てて見せる。
「隙が大きい。撃てても力が逃げる」
「では、その玉は別の筒へ」
「合うかもしれませんな」
龍之介は頷いた。
「玉袋に印を」
「印?」
「同じ口に合う玉を、同じ印の袋へ入れる。戦場で取り違えぬように」
与吉は少し考えた。
「袋に色をつけるか、紐を変えるか」
「紐なら暗くても手で分かります」
与吉が目を細めた。
「なるほど。色は見えぬ時がある」
平八が後ろから見ていた。
林の目だ。
与吉は龍之介だけでなく、平八にも聞こえるように言った。
「これは悪くない。筒の直しというより、持ち出しの間違いを減らす話です」
平八は頷いた。
「佐渡守様へも、そう伝える」
龍之介は内心で息を吐いた。
今の一言は大きい。
林側が、これは流れ者の怪しい火縄遊びではなく、持ち出しの間違いを減らす働きだと見た。
それなら、家中に通りやすい。
藤吉郎が、横から火縄を見ていた。
「これは湿ると使えませぬか」
「使えぬ」
与吉が答える。
「湿った火縄は、火が移らぬ」
「では、火縄を持つ者が転ぶと困りますね」
「当たり前だ」
「雨の日はもっと困りますね」
「当たり前だ」
「当たり前の困りごとは、先に分けた方がよろしいのでは」
与吉が藤吉郎を見る。
「小僧、何が言いたい」
「火縄を全部同じところへ置くと、一つ濡れた時に全部濡れます。二つか三つに分けたら、一つ助かるかもしれませぬ」
龍之介は藤吉郎を見た。
まただ。
この少年は、感覚で大事なところを突く。
与吉も少し黙った。
「……それも、悪くない」
藤吉郎は嬉しそうに笑った。
「飯は増えますか」
「増えぬ」
新五が即座に言った。
藤吉郎は残念そうに肩を落とした。
その場に、少し笑いが生まれた。
鍛冶場の者たちも笑った。
龍之介はその笑いを聞きながら、思った。
これだ。
変えるなら、こういう形がいい。
上から押しつけるのではない。
現場の困りごとから始める。
与吉が納得し、平八が見て、藤吉郎が小さな知恵を出す。
それなら、流れ者一人の怪しい知恵ではなく、那古野の中の働きになる。
その日の夕暮れ、信長は鍛冶場に来た。
火の赤が、信長の顔を照らしている。
与吉が、見分けた筒を三つに分けていた。
すぐに鳴りそうな筒。
直せば鳴る筒。
今は戦に出すべきでない筒。
信長は、それを見て満足げに頷いた。
「思ったより、鳴らぬ筒があるな」
与吉が頭を下げる。
「申し訳ございませぬ」
「責めておらぬ。戦場で知るよりよい」
信長は龍之介へ向く。
「持っている数と、鳴る数は違う。これは覚えておく」
「はい」
「与吉」
「はっ」
「鳴る筒を増やせ。だが、数を外へ漏らすな」
「心得ました」
「新五、藤吉郎」
「はい」
「鍛冶場へ出入りする者を見る。鉄、炭、火縄、玉。誰が何を聞きたがるか拾え」
「承知しました」
藤吉郎も頭を下げる。
「又左は」
又左はいつの間にか鍛冶場の入口にいた。
「若、私は」
「お前は筒に近づきすぎるな。すぐ撃ちたがる」
「そんなことは」
言いかけて、又左は黙った。
信長が笑う。
「図星か」
「少しだけ」
「ならば、まず槍を振れ。筒は鳴るまでに間がある。槍は待ってくれぬ」
又左は不満そうだったが、頷いた。
「はっ」
信長は龍之介へ顔を向けた。
「お前はどう思う」
「火縄筒だけで戦うのは危うございます」
「なぜ」
「鳴らぬ時があります。雨、風、湿り、手間、弾、火薬。ですが、鳴ると敵の足を止めます。ならば、筒は槍を助けるものとして、まず使うべきかと」
又左が少し顔を上げた。
「槍を助ける?」
「はい。敵の足を止めたところへ槍が入る。あるいは、敵が筒を嫌って乱れたところを槍で押す。筒だけ、槍だけではなく、合わせます」
信長の目が光る。
「合わせるか」
権六が低く言った。
「それなら分かります。筒に頼りきるよりはよい」
又左も、少し納得したようだった。
「敵が音に怯んだところへ入るなら、面白い」
「お前はすぐ入ろうとする」
新五が言う。
「入るのが槍だ」
「戻ることも覚えろ」
二人のやり取りに、信長が笑った。
龍之介は、その笑いを聞きながら思った。
火縄筒は、まだ小さな芽だ。
これだけで天下が変わるわけではない。
だが、鳴らぬ筒を鳴る筒にし、扱う者を少しずつ慣れさせ、槍と合わせれば、戦場の形は変わる。
そして、それを清洲が知れば、また別の噂になる。
織田三郎が火縄筒を集めている。
流れ者が怪しい筒を直している。
那古野が戦支度をしている。
そうなる前に、形を整えなければならない。
信長も同じことを考えていたのだろう。
「爺」
信長は平手様へ言った。
「これはまだ、若い者の稽古と修繕だ。大きな話にはするな」
「承知しております」
「佐渡にも、火縄筒の数を増やす話ではなく、鳴らぬ筒を戦場へ出さぬ話として伝えろ」
「その方が通りましょう」
信長は頷く。
「清洲には、まだ音を聞かせるな」
その声は低かった。
鍛冶場の火が、ぱちりと爆ぜた。
その夜、清洲へ向かう道で、一人の男が足を止めた。
那古野の鍛冶場で、火縄筒の修繕が増えた。
鉄と炭の出入りを見ている者がいる。
小僧が鍛冶場へ出入りしている。
そんな小さな噂を抱えて、男は闇の中を歩いていた。
だが、その後ろを、別の影が見ていた。
藤吉郎の知り合いの薪拾いの少年だ。
少年は追わない。
ただ、男がどの辻で曲がったかだけを見る。
そして、翌朝には井戸端で藤吉郎へ伝える。
その約束の代わりに、握り飯半分。
那古野の耳は、まだ小さい。
だが、確かに道へ伸び始めていた。
龍之介は、夜の庭で木槍を握っていた。
又左が向かいに立っている。
今日の稽古は短い。
だが、欠かさない。
火縄筒を見た日でも、槍を忘れてはならない。
又左が言う。
「筒が鳴れば、槍の出番が減ると思ったが」
「減りませぬ」
「ならよい」
「むしろ、筒が鳴った後に槍が要ります」
又左は笑った。
「なら、俺の出番だ」
「はい」
「お前もだ」
龍之介は木槍を構えた。
強く握りすぎない。
折らない。
相手を壊さない。
だが、弱くしすぎない。
その間を探す。
又左が踏み込んだ。
龍之介は受ける。
前より少しだけ、力を流せた。
又左の槍が横へ弾かれすぎず、互いの間合いが残る。
又左の目が光った。
「今のはよい」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。次は崩す」
又左が笑う。
龍之介も、少しだけ笑った。
遠くの鍛冶場では、まだ火が残っている。
蔵では縄が分けられた。
馬屋では飼葉の置き方が少し変わった。
台所では木戸の扱いが決まった。
井戸端には藤吉郎の耳があり、新五の目がある。
林の目も入った。
清洲の影も伸びている。
そして、火縄筒という新しい音が、まだ鳴らぬまま那古野の奥に置かれた。
龍之介は槍を構え直した。
戦場は、また一つ形を変えようとしている。
だが、焦るな。
大きくしすぎるな。
鳴らぬ筒を鳴る筒にするように、自分自身もまた、使える形へ整えなければならない。
又左が踏み込む。
龍之介は息を吐き、木槍を合わせた。
乾いた音が、那古野の夜に響いた。
第13話─了




