第12話 林の目
末森から戻った翌日、那古野の空気はまた少し変わった。
龍之介を見る目から、単純な怯えだけが減っていた。
消えたわけではない。
人の心を読む化け物。
台所まで覗く流れ者。
そういう噂は、まだ城内の隅に残っている。
だが同時に、別の言い方も混じり始めていた。
荷の縄を見る男。
馬の水桶を見る男。
蔵番に頭を下げた妙な若者。
噂は消えない。
ただ、形が少しずつ変わる。
龍之介はそれを、朝の飯の盆で知った。
昨日までより、盆が少し近かった。
それだけだ。
だが、藤吉郎はにやりと笑った。
「近くなりましたね」
「何がだ」
「飯です」
藤吉郎は真顔で言う。
「飯が近づくということは、人も少し近づいております」
龍之介は椀を受け取りながら、小さく息を吐いた。
「お前は、本当に飯で世を測るな」
「飯は嘘をつきませぬ」
「人はつく」
「だから、飯を見るのです」
藤吉郎は当たり前のように答えた。
その横で又左が豪快に飯をかき込んでいる。
「今日の飯もうまいな」
台所の女たちは、少し笑った。
又左が普通に食う。
藤吉郎が余計なことを言う。
龍之介は静かに礼を言って食う。
ただそれだけのことが、噂を少しずつ削っていた。
信長の言った通りだった。
一度の言い訳より、三日の飯。
龍之介は、その言葉の重さを噛みしめた。
朝の後、龍之介は平手様に呼ばれた。
蔵の奥ではなく、広間の脇の小部屋だった。
そこには権六もいた。
机代わりの板の上に、簡素な書き付けが置かれている。
平手様は静かに言った。
「龍之介。お主の役を、少し形にする」
「形、でございますか」
「荷と道の見分役、という若の言葉だけでは、家中に伝わりにくい」
権六が腕を組んで言う。
「聞いた者が勝手に解釈する。台所を見張る役だの、家中を嗅ぎ回る役だのとな」
「はい」
すでにそうなりかけている。
龍之介にも分かった。
平手様は書き付けを指した。
「ゆえに、こうする。蔵、馬屋、台所、門で困りごとがあれば、まずそれぞれの頭が聞く。お主が勝手に命じるのではない。お主は見て、聞いて、気づいたことを我らへ上げる」
「私が直接変えるのではないのですね」
「当然じゃ」
平手様の声は厳しかった。
「お主はまだ家中の筋を知らぬ。いきなり物を動かせば、人の顔を潰す」
「承知しております」
「本当に承知せよ」
権六が低く言う。
「お前は見える。だが、見えたからといって、手を出せるわけではない」
龍之介は深く頭を下げた。
平手様は少し声を和らげた。
「ただし、見るなとは言わぬ。若は、お主の目を使うつもりでおられる。ならば、こちらも使える形にせねばならぬ」
「はい」
「今日から、お主は蔵番、馬屋頭、台所の年長、門番頭に一度ずつ挨拶する。命じるためではない。聞くためじゃ」
龍之介は頷いた。
挨拶。
たったそれだけ。
だが、それがなければ始まらない。
現代の感覚なら、役目を決め、仕組みを作り、帳面を整えればよいと思ってしまう。
だが、この時代の城には、名と顔と筋がある。
それを飛ばせば、道はかえって詰まる。
平手様がふと目を細めた。
「それと、もう一つ」
「はい」
「林佐渡守殿から、使いが来ておる」
龍之介は、一瞬言葉を失った。
林佐渡守秀貞。
信長の重臣。
そして、新五が連なる林の家の中心にいる人物。
権六の顔も険しい。
「新五のことにございますか」
龍之介が問うと、平手様は頷いた。
「おそらくな」
龍之介は胸の奥が冷えるのを感じた。
末森で新五が動いた。
藤吉郎を使い、弥助の母を保護し、道の耳を作り始めた。
その動きが、林の家の耳にも届いたのだろう。
新五は信長の近くにいる。
だが、林家の者でもある。
そこには、龍之介にはまだ見えきっていない重さがある。
平手様は静かに言った。
「お主は、余計なことを言うな」
「はい」
「だが、見ることは許す」
龍之介は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「若がそう言われた」
権六が渋い顔をする。
「若は、お前に見せる気だ。家中というものをな」
龍之介は何も言えなかった。
戦場より厄介なもの。
昨日、信秀が言ったことが胸に残っている。
名の重さ。
家の筋。
弟の名。
そして、林の目。
昼前、林佐渡守秀貞は那古野へ来た。
年長の武家らしい、重い落ち着きがあった。
声は荒くない。
だが、部屋に入っただけで、空気が少し硬くなる。
信長はいつものように、少し崩した姿勢で迎えた。
「佐渡」
「若様」
林佐渡守は深く頭を下げた。
形式は整っている。
だが、その声の奥には、ただの挨拶ではないものがある。
新五は部屋の端に控えていた。
いつもより表情が薄い。
又左は別の場所に下がらされている。
藤吉郎はいない。
龍之介は、平手様の後ろに控えた。
目立たぬ場所だ。
だが、見える。
信長が口を開く。
「新五のことか」
林佐渡守はわずかに眉を動かした。
「若様は、お早い」
「回りくどい話は嫌いだ」
「では、率直に申し上げます。新五を、得体の知れぬ働きに深く関わらせるのは、いかがなものかと存じます」
部屋の空気が一段重くなる。
信長は笑った。
「得体の知れぬ働きとは」
「道に耳を置く、台所を見る、城下の小者を使う。そういった話にございます」
「必要だからしている」
「必要であっても、家中の筋がございます」
林佐渡守の視線が、新五へ向いた。
「新五は、若様のお側におります。されど、林の者でもあります。軽く動かせば、林の名もまた動きます」
龍之介は、その言葉の重さを感じた。
林の名も動く。
信長が新五を使えば、それはただ若い者を使っただけでは済まない。
林家が信長の新しい働きに加わったようにも見える。
逆に、失敗すれば林の名にも傷がつく。
新五が慎重なのは、性格だけではない。
背中に家の名があるからだ。
信長は静かに言った。
「新五は使える」
「それは承知しております」
「ならば使う」
「若様」
林佐渡守の声が少し強くなった。
「使える者を使う。それは分かります。ですが、若様は近頃、早すぎます」
早すぎる。
その言葉に、龍之介は胸を突かれた。
信長は黙っている。
林佐渡守は続けた。
「戦に勝たれた。妙な流れ者を拾われた。清洲が騒ぐ。末森も見る。そこへさらに、台所、馬屋、道、城下の小者。次々と手を伸ばされる。家中の者は、追いつけませぬ」
信長の目が細くなる。
「追いつけぬ者に合わせて、歩みを遅くせよと」
「時には」
「遅くしている間に、清洲がこちらの台所へ手を入れた」
林佐渡守は、すぐには返さなかった。
信長は続ける。
「弥助という下働きの母が脅された。桶の底に札を貼らせようとした。飯の道が見られた。これは遅くしてよいことか」
「それは」
「新五は、その母を守るために動いた」
信長の声が低くなる。
「林の名に傷がついたか」
林佐渡守は黙った。
新五も黙っている。
龍之介は、信長の鋭さに息を呑んだ。
ただ押し切るのではない。
新五の働きが、林の名を汚したのではなく、守る側に立ったのだと示している。
だが、林佐渡守も簡単には引かなかった。
「若様。新五の働きを責めているのではございませぬ。問題は、その働きの形でございます」
「形」
「忍びでもなく、正式な目付でもなく、若様の近くの若者と流れ者と小者が、城の内外を見て回る。これでは、家中の者は疑われていると思います」
龍之介は、心の中で頷いた。
そこだ。
林佐渡守は反対しているだけではない。
家中がどう感じるかを言っている。
信長は、面倒そうに見えた。
だが、聞いている。
林佐渡守の言葉を切っていない。
平手様が静かに口を開いた。
「佐渡殿の懸念はもっともです」
信長が平手様を見る。
「爺」
「若。新しき働きは必要にございます。されど、古き筋を踏み越えれば、働きの前に人が乱れます」
権六も低く言った。
「私も同じにございます。清洲を見る目は要る。だが、家中に疑われれば、その目は内へ向きすぎます」
信長は、しばらく黙っていた。
龍之介は、呼吸を浅くした。
ここで自分が口を挟む場面ではない。
だが、信長がふいにこちらを見た。
「龍之介」
やはり来た。
龍之介は頭を下げた。
「はい」
「お前はどう見る」
部屋の視線が一斉に集まる。
林佐渡守の目も向いた。
重い。
ここで言葉を誤れば、龍之介は林家を敵にする。
信長へ都合のよいことだけ言えば、平手様と権六に見限られる。
黙れば、使えぬ。
龍之介は、ゆっくり顔を上げた。
「佐渡様の仰せは、もっともにございます」
信長の目が少し動く。
林佐渡守は黙っている。
「私は流れ者です。家中の筋も、林の御家の重みも、まだ知りませぬ。その私が、台所、馬屋、蔵、道を見るとなれば、疑われて当然にございます」
龍之介は続けた。
「ですが、若様の仰せもまた、もっともにございます。清洲か否かはまだ断じませぬが、那古野の台所へ手が入りました。これは放置できませぬ」
「では、どうする」
信長が問う。
「目を二つに分けます」
「二つ?」
「一つは、外からの手を見る目。これは新五殿や藤吉郎のように、道や井戸、馬屋の声を拾える者が要ります。ただし、勝手に家中を探るものではないと明らかにします」
龍之介は林佐渡守へ向いた。
「もう一つは、家中に対して開いた目にございます。蔵番、馬屋頭、台所の年長、門番頭。それぞれの困りごとを、正式に聞く場を作る。誰かを疑うのではなく、困りごとを上げる場です」
平手様の目が細くなる。
龍之介はさらに言った。
「そこへ、私が直接命じるのではなく、平手様か権六様を通します。必要なら、林佐渡守様にも聞いていただく。そうすれば、新しい働きが、若様と流れ者だけのものではなく、家中の中に置かれます」
部屋が静まり返った。
龍之介は内心で汗をかいていた。
これは危ない。
林佐渡守を巻き込む提案だ。
だが、巻き込まなければ、林家の疑いは残る。
信長が、ふっと笑った。
「佐渡。どうだ」
林佐渡守はすぐには答えなかった。
龍之介を見ている。
その目には、値踏みがあった。
嫌悪だけではない。
龍之介は頭を下げたまま、動かなかった。
やがて、林佐渡守が言った。
「流れ者にしては、家中の面子を気にする」
「気にせねば、すぐ足を取られます」
「誰に教わった」
「昨日から、皆様に叱られております」
平手様が小さく咳をした。
権六は鼻を鳴らす。
信長は笑った。
林佐渡守の口元も、ほんのわずかに緩んだ。
「よろしい」
林佐渡守は信長へ向き直った。
「若様。困りごとを上げる場を作るなら、林からも一人出しましょう。ただし、内を疑う場ではなく、詰まりを直す場として」
「よい」
信長は即答した。
「新五は」
「新五は若様のお側に。されど、動きは私にも聞こえるようにしていただきたい」
「新五」
信長が呼ぶ。
「はっ」
「聞いたな」
「はい」
「お前はわしの側にいる。だが、林の名も背負っている。面倒だな」
「はい。面倒にございます」
新五は淡々と答えた。
信長は笑った。
「ならば、その面倒ごと使え」
「承知しました」
龍之介は、新五の横顔を見た。
表情は変わらない。
だが、ほんの少しだけ息が深くなったように見えた。
林の家と信長の間で、道が一本通った。
細い。
危うい。
だが、切れずに済んだ。
林佐渡守が下がった後、信長はしばらく黙っていた。
部屋には、平手様、権六、新五、龍之介だけが残された。
信長が口を開く。
「龍之介」
「はい」
「お前、佐渡を巻き込んだな」
「申し訳ございませぬ」
「謝るな。面白い」
信長は笑っていた。
だが、目は鋭い。
「家中の古い筋を敵にするのではなく、働きの中へ入れる。悪くない」
平手様が静かに言った。
「若。悪くはありませぬが、難しくなりました」
「分かっておる」
権六が腕を組む。
「これで、荷と道の見分は若だけのものではなくなります。林の目も入る」
「それでよい」
信長は言った。
「わしだけのものにすれば、わしが怪しまれる。家中のものにすれば、清洲の噂を削れる」
龍之介は、信長を見た。
この男は、本当に早い。
林佐渡守の反発すら、形を変える材料にする。
だが、それは危険でもある。
巻き込んだ者が増えれば、意見も増える。
口も増える。
遅くもなる。
それでも、孤立するよりはいい。
新五が静かに言った。
「若。藤吉郎はどうします」
「使う」
「林の目が入れば、あの小僧を嫌がる者も出ます」
「ならば、なおさら使い方を決める」
信長は少し考えた。
「藤吉郎は新五の下だ。だが、正式な者ではない。飯と小遣い程度で使う。名はまだ与えぬ」
「承知しました」
龍之介は、その言葉にわずかに安堵した。
藤吉郎に早く名を与えすぎれば、また目立つ。
今はまだ中村の藤吉郎でよい。
井戸端と馬屋と台所を走り回る小僧。
その軽さが、武器になる。
信長は龍之介へ目を向けた。
「お前は、今日からさらに面倒だぞ」
「はい」
「蔵、馬屋、台所、門。そこに林の目も入る。見えたものを言う時、相手の顔も見ろ」
「承知しました」
「それと、佐渡の前で余計な未来を見たような顔をするな」
龍之介の背筋が伸びた。
「顔に出ておりましたか」
「少しな」
信長は笑った。
「お前は、知っている名を聞いた時に目が変わる。気をつけろ」
龍之介は息を呑んだ。
見られている。
信長は、龍之介が何を知っているかまでは知らない。
だが、何かを知っている者の反応を見ている。
「心得ます」
「ならよい」
信長は立ち上がった。
「さて、飯だ」
権六が眉を寄せる。
「若、先ほどまで林佐渡守殿と」
「難しい話をしたから腹が減った」
新五が小さく息を吐いた。
平手様は諦めた顔をした。
龍之介は、少し笑いそうになった。
信長は重い話を、飯で一度切る。
それもまた、この若者の強さなのかもしれない。
その夕方、藤吉郎は新五から話を聞かされていた。
「つまり、私はまだ正式な者ではないのですね」
「そうだ」
「飯は」
「出る」
「なら、よろしいです」
藤吉郎は即答した。
又左が横から笑う。
「お前は本当に飯で納得するな」
「飯が出ぬ話は、たいてい危ない話です」
「飯が出ても危ない話はあるぞ」
「なら、多めに欲しいです」
又左が腹を抱えて笑った。
新五は呆れている。
龍之介は、その様子を少し離れて見ていた。
林佐渡守との話が終わり、ひとまず道はつながった。
だが、安心はできない。
林の目が入る。
それは守りでもあり、監視でもある。
新五の立場も、これまでより重くなった。
龍之介自身も、ただ信長に拾われた異物ではいられない。
家中の筋の中に、少しずつ組み込まれ始めている。
それは安全でもあり、危険でもあった。
遠くで、馬が鳴いた。
蔵の方では、縄を分ける声がする。
台所からは飯の匂いが流れてくる。
門では、出入りの者を確かめる声。
その一つ一つが、前よりはっきり聞こえる。
那古野が、少しずつ形を変えている。
小さな耳が増えた。
だが、耳が増えれば、聞こえすぎることもある。
龍之介は手を開いた。
力を入れすぎるな。
だが、緩めすぎるな。
人を駒にするな。
だが、人の動きを見失うな。
それは、槍を振るうより難しい。
藤吉郎がこちらへ走ってきた。
「龍之介殿」
「何だ」
「新五様が、明日から井戸と馬屋と門の順に回ると言いました」
「そうか」
「飯の時間はどうなりますか」
「そこは自分で考えろ」
藤吉郎は真剣に悩み始めた。
龍之介は小さく笑った。
その背後で、新五が言った。
「藤吉郎。飯の心配より、道を覚えろ」
「道を覚えれば、飯へ早く戻れます」
「……それで覚えるなら、まあよい」
又左がまた笑った。
龍之介は、夕暮れの那古野を見た。
清洲の影。
末森の目。
林の筋。
信長の速さ。
勘十郎の名。
まだ、どれも遠くはない。
むしろ、すべてが少しずつ近づいている。
戦場の橋は、一度見抜けばよかった。
だが、家中の橋は、毎日形を変える。
誰かの面子。
誰かの飯。
誰かの名。
誰かの恐れ。
それらが絡み、一本の細い橋になる。
踏み外せば、人が落ちる。
龍之介は、沈む陽を見ながら思った。
ここから先は、槍だけでは進めない。
だが、槍を忘れても進めない。
信長の乱世は、静かに、しかし確かに形を変え始めていた。
第12話─了




