第101話 百人の帰る場所
打ち込まれた木槍が、龍之介の肩口へ唸りを上げた。
龍之介は柄を立てて受け、踏み込んでくる柴田権六の足を見た。重い一撃に見せているが、腰は前へ流れていない。こちらが弾き返す力へ乗せ、槍を滑らせて喉元を取るつもりだ。
龍之介は押し返さず、受けた柄を斜めに傾けた。
権六の穂先が肩の脇を抜ける。その直後、石突に巻いた布が、龍之介の脇腹へ迫った。
「それも、承知しております!」
龍之介は半歩踏み込み、木槍の半ばを権六の柄へ絡めた。捻ると同時に下から跳ね上げる。両手で握られた槍が権六の胸元へ戻り、次の一突きが、その襟の手前で止まった。
庭を囲んだ者たちから、低い声が漏れた。
権六は穂先を見下ろし、ゆっくり息を吐いた。無理に押し入ろうとはせず、自分から槍を下げる。
「腕だけでは止められぬか。受けた時にも、足が残っておる。兵の前へ出て帰ってこられるのは、そのためよな」
「権六殿こそ、石突まで使われるとは。上へ気を取られていれば、腹を打たれておりました」
「戦で、穂先だけを見てくれる相手はおらぬからな」
権六は笑い、握っていた手を開いた。指の付け根が赤くなっている。龍之介も木槍を下げ、相手へ一礼した。
那古野へ与えられた屋敷で、まだ修繕の槌音がしていた。門をくぐってきた権六が庭の広さを見て、手合わせを願い出たのである。
東の備えについて話すため、信長が勘十郎を招いた日だった。権六はその供として来ており、龍之介の配下へ移るために訪ねたのではない。
縁に座っていた信長が、傍らの勘十郎へ顔を向けた。
「権六を相手にしても、押し倒せば済むとは思わぬらしい」
「途中で槍を引かせたのですな。手の内を残したまま受けておる。私の若衆にも見せておきたいが、同じつもりで真似をされては困ります」
勘十郎が言うと、権六は二人へ向き直った。
「足の置き方は学ばせられます。あの速さまで真似をさせるには、先に槍を落とした時の退き方を仕込まねばなりませぬ」
龍之介は、木槍を受け取りに来た又左へ渡した。槍の強さを見に来た者たちの目が、今は庭の向こうにも向いている。
門の外では、兵の足音が近づいていた。
◇
鳴海から最初に戻ってきたのは、四十五人だった。
全員を退いたのではない。信長の命で、道の分かれ目にいた末森の九十八人から五十人が鳴海へ移り、山口勢とともに東の陣へ入った。分かれ目には四十八人を残し、川筋の勝三郎の九十六人も持ち場を守っている。
末森から補われた一人は、すでに龍之介の隊へ着いていた。実働九十人の半分を那古野へ戻し、残る四十五人は城戸と梶原が率いて鳴海にいる。家の移りを済ませ、兵具を直した者から交代する手筈だった。
門を入る兵の中には、末森から那古野へ所属を変えた者もいる。龍之介の屋敷を初めて見る彼らは、すぐには土間へ上がらず、門の脇へ寄っていた。
源太がその間を通り、龍之介へ頭を下げた。
「山口殿の兵と、末森の五十人へ引き継いでまいりました。城戸殿からは、こちらの支度が整うまで、慌てて戻すなとのことです」
「承知した。まず鎧を外し、水を飲んでくれ。傷のある者は、槍より先にそちらを見せるように」
戦える兵にも、擦り傷や潰れた掌はある。数に入れたからといって、体まで傷のない者になるわけではなかった。
龍之介は門の前へ進み、立ったままの末森の兵たちを見た。
「家の者を、今すぐ呼び寄せろとは言わん。住む所は平手殿と話を進めている。残してきた者に知らせるため帰る時は、組頭へ申し出てくれ。交代を決める」
年嵩の兵が、腰の荷を下ろしかけた手を止めた。
「末森へ戻ったきりになると、疑われませぬか。あちらには、まだ母と弟がおります」
「大殿の許しをいただいて移ったのだ。家の者へ、それを自分で伝えてこい。戻る日を守れば、俺も持ち場を空けずに済む」
兵は頭を下げ、ようやく荷を地面へ置いた。
寝起きする長屋の割り振りは、城で進めてもらっている。この屋敷へ百人を詰め込むわけにはいかないが、組頭が相談に来る場所と、使いが龍之介を訪ねる場所は、これからはここだった。
その土間へ、藤吉郎が飯を入れた桶を運び込んできた。
後ろには飯屋の者が二人ついている。桶の傍らには、直した草鞋と、縛り直した荷縄まで置かれた。
「平手様から、今日は戻る者が多いと伺いまして。飯は人数を聞いてから用意しました。草鞋は、鳴海へ出た時に破れたものを預かっていた分です」
藤吉郎は桶を置くと、先に着いた兵へ配り始めた。荷を抱えたままの者には、空けた隅を示して座らせている。
龍之介は、その手つきをしばらく見ていた。
◇
夕方の稽古場へ出た時にも、藤吉郎はついてきた。
兵の数へ勝手に加わったのではない。空いた桶を飯屋へ返してから、水を運ぶ役を申し出たのだ。
龍之介は又左へ木槍を預け、地面に置かれた縄の内側へ、戻った四十五人を集めた。庭へ来ていた信長と勘十郎も、権六を伴って見に来ている。
「敵が出たと思ってくれ。この縄の内に荷駄がある。前だけを見て槍を出せば、後ろから回られる」
実際の荷駄の代わりに、空の桶と俵を置いてあった。
龍之介は四十五人を三つに分けた。十五人が荷の周囲を守り、二十人が前へ出る。残る十人は控えとし、どこへ動かすかは、その時の組頭へ任せる。
各組の小旗を持つ者には、今までの合図を変えぬと念を押した。高く上げれば待機、横へ振れば移動、地面へ下ろせば伏せる。新しく作った『山』の旗は、隊が集まる目印である。
大きな旗が揺れただけで、皆が槍を下げて動いては困る。
「俺は、ここから先の指図をしない。源太、前の二十人を使え。孫七は荷の周りだ。矢田は控えを見てくれ」
源太が前へ出ると、又左が木槍を肩へ担いだ。数人の近臣を連れ、敵役として左右へ散っていく。
龍之介は信長の隣へ下がった。
又左の一突きを受けた兵が、思わず後ろへよろめく。源太は槍を揃えさせて押し返したが、又左はすぐには下がらず、わざと右へ寄っていった。
その背後を、近臣の一人が走る。
「そちらを追うな。右の端を繋げ!」
源太の声を聞きながら、龍之介は控えの十人を見た。矢田はすでに動こうとしていたが、源太の列が横へ伸びたため、前へ出る場所が塞がっている。
近臣が荷駄へ向かう。孫七の十五人が槍を向けたところへ、又左が踏み込んできた。
信長が、龍之介へ声をかけた。
「前へ出れば、一息で又左を止められるぞ」
「ここで私が止めれば、通れなかった十人が、なぜ動けなかったか分からぬままになります」
龍之介は踏み出しかけた足を留めた。
槍を取りに行くより、見ている方が腹に力を要った。与えられた武は、目の前の乱れを容易く押し潰せる。それで勝った隊を作っても、自分がほかを見ている間に、同じ所が破れる。
孫七が荷の位置を半歩ずらし、槍の列を内へ寄せた。
「矢田殿、北を空けます。こちらへ回してくだされ!」
控えの十人が荷の背後を通り、又左の横へ出た。源太も列を戻し、広がりすぎた兵を呼び寄せる。
又左が槍を引いた時、信長は手を上げた。
「そこまでだ。今の通り道を残して、もう一度やれ。敵を待たせてから相談するな」
龍之介は組頭たちとともに縄の内を歩き、荷を置く所と、兵が通る所を分け直した。
日が低くなる頃には、源太が右へ寄っても、控えが先にその後ろを通れるようになっていた。末森から来た兵も、指図を待つ相手を取り違えず、隣の組へ声を渡している。
権六が勘十郎へ、静かに言った。
「山本殿が槍を振るえば、これほど手間は掛かりませぬ。だが、百人を離して働かせるなら、この手間を省けぬのでしょう」
勘十郎は、兵が足で擦り消した地面の線を見ていた。
「館の若衆にも、見張りを代わる時、同じことが起きております。人を増やしただけでは、増えた分だけ通りにくくなる。戻ったら、権六にも見てもらいたい」
「承知いたしました」
信長は弟の言葉を聞いていたが、口を挟まなかった。
◇
水を配り終えた藤吉郎が、空の桶を引き寄せた。
「始めは、荷を守る十五人にも、前へ出た方が楽そうに見えておりました。ですが、あそこを離れていたら、矢田様の通る所がなくなりますな」
「荷を固めて置きすぎても、同じことになる。運ぶ者の都合だけで、兵の通る所は決められん」
龍之介が答えると、藤吉郎は縄の内側を見直した。自分の知る荷運びと、今日見た槍の動きを、頭の中で重ねているようだった。
信長が、桶を持ち上げようとする藤吉郎を呼び止めた。
「鳴海へ行った時には、馬借について働いたそうだな。次は龍之介の荷について行け。兵が戦う間も、米を受け取り、運ぶ者が要る」
藤吉郎は桶を下ろし、膝をついた。
「お役をいただけるのでしたら、励みます。ただ、兵を差配したことはございませぬ。馬借にも、私の言うことだけで動いてもらえるとは思えません」
「兵の指図は龍之介と組頭に聞け。お前は、届いた荷と足りぬ物を確かめろ。勝手に村へ取り立てには行くな。平手にも、俺から申しておく」
龍之介は信長へ一礼し、藤吉郎を見た。
「まずは受け取る役からだ。米を運んできた者を、どこで休ませるかも見てくれ。戦う九十人には加えないが、隊の働きにはなる」
藤吉郎は両手をつき、今度は龍之介へ頭を下げた。
飯屋で人を見ていた目が、少しだけ上がる。その視線は、自分がこれからついていく槍の列へ向いていた。
◇
屋敷へ戻る前に、龍之介は留吉のいる部屋を訪ねた。
左腕の傷は塞がりつつあったが、上へ持ち上げようとすると、まだ顔が強張る。留吉は右手で衣を整え、立ち上がろうとした。
「座っていてくれ。今日は、笛のことを聞きに来た」
龍之介は、その隣へ腰を下ろした。ほかの負傷者にも伝えてきた、新しい屋敷と隊の話をする。
留吉は黙って聞いた後、枕元から笛を取り出した。
「鳴海へは、まだ連れていっていただけませぬか。歩くだけなら、もう困りません。皆が戻るたび、ここにいる自分だけが、前のままに思えてしまいます」
「槍の列へ戻すのは、腕を庇わずに動けてからだ。だが、合図を知っているお前にしか、頼みにくいことがある」
龍之介は、稽古場で起きたことを伝えた。
「末森から来た者にも、笛で退く間合いを覚えてもらう。明日、那古野で休む者を少しずつ回すから、ここで聞かせてやってくれ。お前が走る役ではない」
留吉は笛を見つめ、指で表面を撫でた。
「吹いた後、組で戻るところまで、見てもよろしゅうございますか。音だけ覚えても、遠くへ走りすぎる者がおりそうです」
「庭へ腰掛けを出そう。疲れたら、途中でもやめてよい。ここから鳴海の働きへ繋げられるようにする」
留吉の肩から、ようやく力が抜けた。
龍之介は笛を握る右手を見て、隣に立つ者へ戦場を任せることと、傷ついた者を置き去りにしないことを、同じ隊で果たさねばならぬと思った。
◇
翌朝、屋敷の門に『山』の旗が立った。
昨日戻った四十五人のうち、二十人は家への知らせと休息に充て、二十五人が龍之介とともに鳴海へ向かう。休む者は五人ずつ留吉のもとで合図を確かめる。鳴海の四十五人とは、到着してから交代を決める手筈だった。
新しい旗の下には、藤吉郎もいた。
槍は持たず、平手から受け取った米の引き渡しの書付を懐へ収めている。まず鳴海で受け取る者に会い、誰から何を預かるかを覚える仕事だった。
又左が門の脇から、旗の留め紐を引いた。縫い上がった布が朝の風を受け、黒い字を広げる。
「槍も荷も、帰る先が同じになったな。ここへ戻す時には、門の外まで列を作らせるなよ」
「中で足を止めずに済むよう、片づけておく。又左も、次に来る時は飯を食っていってくれ」
龍之介は笑って答え、門を出た。
背後で笛が鳴った。留吉が庭で、休む兵たちへ最初の合図を聞かせている。
鳴海へ向かう旗の後ろで、屋敷へ戻る五人が門をくぐった。留吉の声が、その一人一人を迎えていた。




