第100話 山本の旗を立てよ
林の奥で斧の音が響き始めたのは、尾根の戦が終わって半刻ほど経ってからだった。
龍之介は水桶を兵へ渡し、東へ耳を向けた。木を倒しているにしては、同じ場所を打つ音が長く続いている。やがて音が止むと、枝葉を引きずる響きが道を伝わってきた。
見張りに出ていた孫七が、草の間から戻った。
「奥の道へ木を引き出しております。こちらへ向けて槍を並べている者も見えましたが、荷は東へ動いておりますな」
龍之介は尾根と林の間に立ち、道を見た。敵はまだ二百近い兵を残しているはずだった。追われれば戦える人数だが、崩れた組を揃え直して、もう一度あの斜面へ向かわせるのは難しい。
道を塞ぐ木は、そのための時間を稼ぐものだろう。
信長が、龍之介の隣へ来た。
「退くつもりなら、こちらが荷を奪いに来ると思っておろう。木の向こうへ兵を置いたのも、そのためか」
「はい。ただ、全員を林へ追い込めば、退く兵も槍を取ります。東へ出る道を空けておけば、荷を運ぶ者と戦う者を同じ所へ戻さずに済みます」
「ここを取れば、鳴海の東に兵を置く支度から、やり直させられるな」
龍之介は頷いた。米が残っているかどうかだけではない。馬を繋ぐ場所も、水を汲む道も、夜を越す兵の囲いも、敵は一度整えたものを手放すことになる。
信長は林へ入ることを許したが、深追いは禁じた。
「荷を捨てても、東へ退く者は追うな。左馬助の領内で敵に使わせぬ場所を増やす。それでよい」
龍之介は城戸を呼び、陣を守る兵と動く兵を分けた。
戦える八十九人のうち、三十人を連れていく。残る五十九人は城戸が率い、尾根から道の口までを守る。山口九郎二郎教吉は、動ける三十五人から二十人を選び、小坂主馬を道案内につけた。
龍之介は教吉と、林の縁で向き合った。
「南の細道から、水場の手前までお願いしたい。奥へは回らず、荷を焼こうと戻る者だけを止めていただけますか」
「承知しました。水場へ出れば、村へ抜ける道も見えます。逃げる敵を追って、そちらを空けぬようにいたします」
教吉は戦で汚れた槍を持ち直した。死者を城へ送り出したばかりの顔に、浮ついた喜びはない。それでも、朝には奪われるかと案じていた林へ、自分たちから入る足取りは確かだった。
◇
林の中には、まだ炊いた飯の匂いが残っていた。
枝に掛けられた縄、踏み荒らされた下草、消しきらぬ竈の火。龍之介はそれらを横目で確かめながら、槍の穂先を低くして進んだ。
三十人を細い道へ一列に並べてはいない。孫七が道脇から前を見て、源太の兵は幹の間へ広がっていた。梶原は後ろをまとめ、龍之介が止まれば、隣の組にもその足が伝わるようにしている。
折れた枝の向こうで、盾が動いた。
「弓だ、幹へ寄れ!」
孫七の声とほとんど同時に、矢が道を走った。龍之介は体を沈め、傍らの幹へ肩を寄せる。背後で盾を打つ音がしたが、倒れる声はなかった。
道には二本の木が斜めに重ねられていた。その向こうで二十人余りが槍を構え、後ろには藁を積んだ小屋が見える。
敵は木を越える兵を待っている。正面から片づければ、枝に足を取られたところへ槍が届いた。
龍之介は孫七へ目を向け、右脇の細い幹を示した。
「盾の上へ射ろ。顔を伏せさせればよい。源太、俺についてこい。梶原は道を塞いだまま、前を押さえろ」
孫七の弓が鳴った。
敵の盾が上へ傾いた時、龍之介は道を外れた。木の根を踏み越え、二本の幹の間を抜ける。槍を回す広さはないが、穂先を前へ向けたままなら通れた。
横から出てきた武者が、太刀を振り下ろした。
龍之介は槍の柄で受け流し、そのまま石突を男の顎へ突き上げた。仰向けに倒れる体を越え、重ねた木の内側へ踏み込む。
盾を捨てた敵が槍を突いたが、龍之介の穂先が先にその胸を貫いた。引き抜きながら肩を入れ、隣の盾持ちへ男の体を押しつける。
「横を取った。源太、組で入れ!」
源太たちが木の脇を抜けると、梶原の兵も正面から槍を出した。敵は三十人を倒木の前へ留めるはずが、囲いの内側で二方から押されることになった。
奥へ逃げる者を、龍之介は追わなかった。
小屋へ走った一人が、竈から引き抜いた薪を藁へ投げ込む。火が広がる前に、龍之介は足元の盾を拾い上げた。燃え始めた藁を盾ごと押し出し、土の見えている所へ叩きつける。
小屋の脇では、源太が火をつけた男の槍を弾き、東の道へ押し退けていた。
「火を踏み消せ。小屋へは、煙を確かめてから入れ!」
兵たちが草鞋で火を潰す間に、龍之介は槍を拾って奥を見た。教吉の側からも鬨が聞こえたが、長くは続かない。やがて南の木立の間へ、山口の旗が現れた。
小坂が槍先を下げずに近づいてくる。
「水場を押さえました。敵は東へ抜けております。荷駄を戻す動きはありませぬ」
龍之介は空を見上げた。梢の上へ煙は上がっていない。
林を守っていた敵の声も、もう遠ざかっていた。
◇
陣の跡には、運びきれなかった物が残されていた。
小屋の中に米俵が八つ。ほかに縄、飼葉、折れた槍と、荷を載せるための板がある。米は湿りも焼けも確かめ、食べられるものだけを鳴海へ送ることにした。
だが、龍之介の足を止めたのは、さらに東の空き地だった。
削った丸太が、まだ土の上へ並んでいる。幹の間には馬を繋ぐ長い縄が張られ、竈の周りには、朝に見た兵が皆座れるほどの場所が空けられていた。積み上げられた柴の量を見ても、一晩だけの支度ではなかった。
信長が彦右衛門を伴って入り、丸太の端を足で押した。
「ここを陣にして、次の兵を待つつもりだったか。川へ荷を上げられず、こちらへ寄せたわけだな」
「その可能性は高いかと。ここに兵と飯が残れば、追い返しても、日を置かずに村へ出てこられます」
教吉は馬を繋ぐ縄を外させ、兵に巻き取らせた。
「父の物見にも、この場所を見てもらいます。村を巡るだけでは、見つけられぬ支度でした」
信長は竈から龍之介へ向き直った。
「敵の代わりに、お前がここへ全員を置くな。林に籠もれば、道が見えぬ」
「道の口を陣にし、こちらは見回らせます。水場と南の道は、山口家の兵と交代で確かめます」
信長はそれを聞いて、空き地に積まれた材木のうち、柵に使える物を運び出すよう命じた。敵が兵を留めるために集めた木が、今度は鳴海の道を守る柵になる。
龍之介は兵を二度に分け、槍を置く者と材を担ぐ者を交代させた。林へ入ってから、こちらに新たな負傷者は出ていない。だからといって、朝から戦った兵を、日暮れまで荷運びに使い続けるわけにはいかなかった。
尾根へ戻る道で、源太が龍之介の歩みに並んだ。
「敵の荷を見て、また走りたくなりました。東へ行けば、もっと残っているように思えまして」
「欲しくはなるな。だが、今朝倒れた者の分まで働くには、立っている兵を明日も残さねばならん」
源太は振り返り、材を担ぐ末森の兵を見た。
「組を離れずに戻れたと、あちらの組頭にも申しておきます。俺だけが我慢した顔をしていては、具合が悪い」
龍之介は笑い、源太の肩を一度叩いた。
◇
二日後、龍之介は信長とともに末森城へ入った。
鳴海の道の口には城戸が残り、教吉と持ち場を分けている。川筋の勝三郎も、分かれ目の陣も動かしていない。龍之介が城を訪ねる間も、敵に空いた道を見せぬよう、信長が先に指図を済ませていた。
信秀の前へ出ると、勝ち戦を祝う酒より先に、戦で命を落とした者と、傷を負った者の報告を求められた。
龍之介は二人の死と、自分の指揮した兵の働きを伝えた。中央を受けた二十人が崩れなかったこと、城戸の三十五人が北を守り抜いたこと、教吉が横へ回る敵に備えて、槍の列を保ったこと。
己の働きを伝えようとすると、隣の者が果たした役目を抜きには語れなかった。それが百人を預かって初めて分かったことだった。
信秀は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「末森から出した者は、お前の組の者と並んで戦ったのだな。帰る場所が違えば、危ない所は他人へ任せることもできたろうに」
「同じ所へ立つ者として、役を決めました。中央を受けた者が退けば、私の連れた兵も戻れませぬ。山口の兵にも、それは同じでございました」
「兵にそれが伝わっておれば、次にも使える」
信秀は傍らの書付へ手を置いたが、すぐには龍之介へ渡さなかった。
「三郎から、末森の五十人を、そのままお前に率いさせたいと願いが出ておる。戦の間だけ借りるのではなく、那古野の兵として預けたいとな」
龍之介が信長を見ると、信長は父の方を向いたままだった。
「川でも鳴海でも、組を分けて使えた。今ここで元へ戻せば、次に戦う時、また互いの顔から覚えねばならぬ。父上から兵を奪うためではございませぬ。俺が東へ出す先手にいたします」
「鳴海へ置いたまま、飯だけをこちらへ求められても困る。三郎、その支度は続けられるか」
「那古野で百人分を持ちます。平手にも確かめさせました。次に兵を増やす話は、まずその百人を食わせてからいたします」
信秀はそこで、書付を龍之介の前へ置いた。
「末森より出した五十人を、三郎の配下へ移す。お前は、先に預かった五十人と合わせて率いよ。亡くなった一人の跡へは、こちらから一人出す。家への始末も、末森で怠らぬ」
龍之介は両手をつき、深く頭を下げた。
出所の違う兵を、戦の間だけ一つにしていた立場が変わる。誰の指図で動き、どこから米と兵具を受け取るかまで、これからは一つになるのだ。
「ありがたく、お預かりいたします。傷を負った者を無理に立たせず、働ける者で役を繋ぎます」
「それでよい。欠けた数を隠して百人と申すな。三郎が戦場で使うのは、槍を持って立てる兵だ」
補われる一人が加わっても、戦えるのは九十人になる。留吉をはじめ、傷の癒えぬ者たちが戻るまでは、それで備えを作らねばならなかった。
信秀は龍之介の返事を聞き、今度は信長へ視線を移した。
「那古野に屋敷を一つ与えよ。百人を預けるなら、組頭を集められるだけの場も要ろう。空いた屋敷があったはずだ」
「修繕をさせます。稽古へ出る道も、先に確かめさせましょう」
信長はそう答えてから、龍之介へ向き直った。
「住めるようになるまで待って、兵をまとめるつもりにはなるな。帰ったら、まずお前の旗を作れ」
龍之介は顔を上げた。これまでは信長の旗を見て進み、その下へ兵を戻してきた。
「若様の旗のもとで、こちらの組が集まる目印にいたします」
「そうだ。俺がお前を呼んだ時、百人がどこにいるか、一目で分かるようにしておけ」
◇
その夕刻、那古野で平手に案内された屋敷には、まだ人の住む匂いがなかった。
雨戸の一枚が歪み、庭の端には枯れ草が残っている。それでも土間の奥には、組頭たちが揃って座れる広さの部屋があった。横の空き地から、城外の稽古場へも出られるという。
龍之介は敷居を跨ぎ、窓を開けた。
鳴海へは使いを出してある。末森の兵も那古野へ移ること、今すぐ持ち場を離れるのではなく、城戸と教吉が交代を整えてから戻すことを伝えた。
平手は庭から建物を見上げた。
「米と兵具の受け取りはこちらで整える。お主は組頭と話せ。兵にとっては、寝起きする所も変わる。戦が済んだからと、放っておいてはならぬぞ」
「承知しております。まずは、療養している者にも知らせてまいります」
龍之介が振り返ると、門の外に信長が立っていた。又左に持たせていた白い布を受け取り、土間へ放る。
「旗の支度だ。印は、山本と分かるものにしろ」
布はまだ縫われてもいなかった。龍之介はその上へ膝をつき、墨を含ませた筆を取った。
黒々とした『山』の字が、白い布へ立ち上がる。
信長は横から覗き、太い縦の線を見て口元を緩めた。
「遠くからでも見える。次の先手は、それを持って出よ」
龍之介は筆を置き、両手で布を持ち上げた。開け放った窓から風が入り、乾ききらぬ墨の匂いを部屋へ運ぶ。
その下へ戻ってくる兵の顔を思い浮かべながら、龍之介は旗の端を、しっかりと掴んだ。




