第102話 四百の槍、動く
鳴海へ入った時、城門へ向かう道を、西へ戻る牛が塞いでいた。
背に括られた荷から、鍋の柄が突き出している。その脇を歩く女は、泣き疲れた子供を抱え、前を行く老人の帯を掴んでいた。
龍之介は兵を道の北へ寄せ、牛を引く男へ声をかけた。
「東の村から来たのか。山口殿の兵は、そちらへ出ておらぬか」
「小坂様が、先に城の方へ戻れと。東の道に、槍を持った者が大勢おります。あれだけの兵は、収穫の時にも見たことがございませぬ」
龍之介は矢田与四郎に道を空けさせ、藤吉郎を城へ向かわせた。米の引き渡しを済ませた後は、山口家の受け入れる者の指図に従うよう命じる。今は運ぶ荷より、門へ詰まる人を先に通さねばならなかった。
龍之介自身は、二十五人を率いて東の陣へ向かった。
『山』の旗を認めた城戸弥三郎が、柵の間から出てくる。
「朝から人の戻りが増えております。九郎二郎殿が東へ物見を出されましたが、まだ全員は戻っておりませぬ」
「こちらの二十五人を加える。交代で那古野へ戻すのは、敵の位置を確かめてからだ。七十人のうち、三十人をお前が率いて陣へ残してくれ」
末森の五十人と山口勢も、この道の口を守っている。龍之介の兵だけを動かしても、柵が空くことはない。
城戸は待っていた梶原重八を呼び、前へ出す四十人を揃えた。遠くを歩いてきた兵へは水を渡し、先に鳴海にいた者を多く組み込んでいる。
山口九郎二郎教吉は、使いの報告を聞きながら駆けてきた。
「小坂が村の者を戻しております。敵は、先に追い払った者だけではありませぬ。東の道に、続いて来る旗が見えるとのことです」
「私が四十人で出ます。こちらの道に詳しい者をつけていただきたい」
「私も十五人を連れてまいります。残る二十人は、父の指図を受けるようにしておきます」
龍之介は頷き、城戸へ那古野への使いを頼んだ。休ませている二十人を呼び戻すかどうかも、信長の判断を仰ぐ必要がある。
笛を長く吹いたら、西の陣へ戻る。
合図を確かめる間にも、村から逃れた人の列は、尾根の南を回っていた。
◇
小坂と行き合ったのは、刈り終えた田の間だった。
後ろには、山口家の物見が三人いる。教継が城から遣わした六人のうちの半数で、残る三人は、村の南へ取り残された者を戻しているという。
小坂は龍之介たちを畦の陰へ導いた。
東の低い丘に、槍が並んでいた。先へ出た一団の後ろから、別の旗を掲げた兵が続いてくる。林の空いた所を通る列は途切れず、その向こうでは荷を載せた馬が止まっていた。
孫七が隣で、唇を引き結んだ。
「四百ほどにはなりましょう。見えぬ所まで、同じように兵が続いておれば、もっとおります」
龍之介は前へ出ている兵を見た。騎馬だけを走らせ、村を脅しているのではない。盾を持った足軽が先に立ち、後ろの槍が追いつくのを待っている。
尾根で負けた敵が、どれほど混じっているかは分からない。だが、崩れた兵を押し戻しただけの軍勢ではなかった。
教吉が西を振り返った。
「城の方へ行くには、我らの陣を越えねばなりませぬ。だが、南から回れば、村へはいくらでも手が届きます」
龍之介も、敵から村へ続く道を目で辿った。
真っ先にこちらの柵へ来るつもりなら、南へ広がる兵は邪魔になる。敵は鳴海の外を踏み荒らし、守る側を陣から引きずり出すつもりだろう。小さく兵を分けて追えば、向こうは好きな所へ百人を重ねられる。
「村を一つずつ守ろうとしては、兵が足りなくなります。今は残る者をこちらへ通し、陣へ戻りましょう。敵が広がった所で、こちらの兵を揃えて受ける」
教吉は、先に走ってきた物見へ顔を向けた。
「父に伝えよ。外の小さな持ち場へ兵を足すのでなく、人を戻すようにと。見えるだけで四百、さらに続く者があると申せ」
物見が西へ走り出した時、村の南で鬨が上がった。
◇
家々の間から、荷車が一台出てきた。
片方の車輪が畦に落ち、引いていた男が膝をつく。後ろでは山口の兵が槍を構え、道を曲がってくる敵を止めていた。
龍之介は荷車の向こうへ目を凝らした。敵の本隊はまだ丘の東だ。村へ入ったのは先に広がった数十人で、こちらを見つければ、後ろの兵を呼ぶだろう。
その前に、人を抜く。
「梶原、二十人で西の道を取れ。村の中へ追って入るな。源太は十人で、あの車の者を戻せ。孫七、弓を持つ者は俺と来い」
残る十人とともに、龍之介は畦を越えた。
教吉は十五人を南へ向け、村の外へ出てくる敵の横を押さえた。小坂が村人へ西の道を示し、その先に梶原の槍が並ぶ。
荷車を守る山口の兵のうち、一人が肩を押さえて退いた。
龍之介は、その前へ入った。
突き出された槍を外へ弾き、敵の盾の縁へ石突を叩きつける。盾持ちの腕が開いた所へ穂先を入れ、引き抜いた柄で隣の槍を跳ね上げた。
「山口の者、後ろへ下がれ。こちらで受ける!」
敵は三方から槍を伸ばしてきた。
龍之介は退かずに右へ踏み込み、端の一人へ肩を寄せる。男が槍を引くより早く、柄をその胸へ押し当てて突き飛ばした。倒れた体へ隣の兵が躓き、三本の穂先が揃わなくなる。
孫七の矢が、その後ろで弓を上げた男を射た。
敵の足が止まった間に、源太の兵が荷車へ取りついた。乗っていたのは、歩けぬ老人と、脚を挟んだ若い男だった。車輪の下へ梃子を差す暇はない。
「車は置け。人を出して、二人ずつで支えろ!」
源太が声を張り、自分も老人の脇へ腕を入れた。足を引き抜いた若い男が呻くと、別の兵が背を向けて担ぎ上げる。
荷台には、米袋と、家から運び出した布団が残った。
荷を取りに戻りかけた女を、小坂が止める。女は荷台を見つめたが、やがて老人について西へ歩き始めた。
龍之介は槍を低くし、じりじりと後ろへ下がった。
ここで敵を追い散らせば、人を運ぶ者を置いて前へ出ることになる。向こうにも、それが分かる男がいた。
「槍を揃えろ。一人に掛かるな、道を塞げ!」
敵の武者が怒鳴り、盾を持つ者を並べ直した。その後ろで、丘へ走る使いが見える。
龍之介は女と老人が梶原の後ろへ入ったのを確かめた。
「孫七、下がれ。次は道の脇を射て、追う足を散らせ!」
矢が敵の前へ落ちると、盾が上がった。
その間に龍之介は荷車の横へ移り、村の道を半ば塞いでいる車台へ足を掛けた。両手を添えて押し返す。軋んだ車輪が畦から外れ、荷台が傾くと、米袋ごと道の中へ横倒しになった。
低い槍を並べていた敵が、足を止めた。
龍之介はそれを見届け、槍を引いた。倒れた荷台の向こうで敵が足を止める間に、人を運ぶ兵が畦を越えていった。
◇
丘の方から、太鼓が鳴った。
龍之介は首だけを東へ向けた。先ほどまで荷の近くにいた兵が、道へ出始めている。村に入った者が敵を見つけたという報せは、もう届いていた。
こちらを押せば、鳴海の兵を陣から離れた所で捕まえられる。
向こうも、その機を逃すつもりはなかった。
「笛を長く吹け。教吉殿にも、西の槍へ戻るよう伝えろ!」
合図を吹く兵の笛が鳴った。退く合図が、田の上を長く渡る。
源太の兵は、運ぶ人を梶原へ引き渡すと、その横へ槍を揃えた。荷の後ろを通す場所がなければ、皆が同じ道へ詰まっていたはずだ。今は梶原の二十人が道の北へ寄り、人を通す南側を空けている。
教吉も小坂とともに退いてきた。肩を傷めた物見には、鳴海の兵が一人ついていた。
龍之介は五人を残して後ろを見ながら進み、道が曲がるたび、前の槍と見える距離を確かめた。敵が走って寄れば振り返り、足を止めればこちらも下がる。
血のついた穂先を見て、正面から飛び込んでくる者はいない。
だが、遠くの槍は増えていた。散っていた数十人の後ろへ、まとまった兵がつき始めている。
教吉が息を整え、龍之介と並んだ。
「こちらが遅れれば、父は迎えの兵を出さねばならなくなります。道の曲がりまで、私の兵で受けましょう」
「次の曲がりからは、梶原に代わらせます。一方だけが最後に残らぬようにいたしましょう」
二人は頷き合い、槍の列を入れ替えた。
尾根の柵が見えた時、西から城戸の小旗が上がった。陣へ残した兵が、戻る者のために口を開けている。
龍之介は最後に村の道を見た。
敵は横倒しの荷車を越え、ゆっくりこちらへ出てきた。追いつけぬと悟ったのか、もう走らない。その後ろの槍が、道と田の縁へ分かれていった。
◇
人を入れ終えた柵の前へ、山口左馬助教継が来た。
供は少なく、城の守りは残してある。教継は息子の顔を見てから、肩を傷めた物見の方へ歩いた。
「村へ残した三人も、皆戻ったのだな。よく知らせを通した」
小坂が頭を下げた。龍之介の四十人と、教吉の十五人にも、欠けた者はいない。山口家の物見一人の傷は手当てが必要で、陣の戦列へ入れず、城へ運ばせることになった。
藤吉郎は門での受け入れを手伝い終え、陣へ水を運ぶ者について来ていた。龍之介の姿を認めると近づきかけたが、担がれた若い男を見て道を空けた。
失った荷について尋ねる者へも、まず城で足を見てもらうよう伝えている。歩くより、手当てを先にさせようとしている。
龍之介は教継へ、丘に集まる兵と、追ってきた槍の動きを伝えた。
「こちらが小さく出れば、すぐに後ろから兵を足してきます。村へ届く道を一つずつ塞ごうとせず、今のうちに人を戻していただきたい。空になった持ち場へ敵が入れば、次はそこへ向かう兵を揃えられます」
「村の物をすべて運ぶには、間に合わぬな。だが、あちこちへ兵を出せば、その兵まで帰れなくなるか」
教継は東を見た。あの先に残した物も、取り戻そうとして失う兵も、彼には見えていたのだろう。
「外へ出しておる者を戻す。村ごとに城へ通す道を決め、小坂に知らせを繋がせよう。九郎二郎、お前はここを守れ」
龍之介は教吉とともに頭を下げ、柵の外へ向き直った。
敵はまだ押し寄せてこない。槍を並べたまま、こちらの陣を見ている。
那古野へ戻す兵の交代は、見合わせた。
◇
夜の半ば、信長が陣へ着いた。
那古野で休ませていた龍之介の二十人を連れ、又左と彦右衛門も従っている。七十人だった山本の隊は、実働九十人が揃った。
留吉ら十人は、引き続き療養に専念している。
龍之介は松明の下で信長へ一礼し、昼の動きを報告した。信長は柵の外に見える敵の火を確かめ、城戸に水と矢の残りを尋ねた。
「四百を一度に受けるなら、この陣へ残った兵だけでは足りぬ。だが、川も分かれ目も、すべて空にはできんな」
「はい。敵の目は今、こちらへ寄っております。勝三郎殿の兵を一部こちらへ移し、分かれ目の兵と合わせれば、柵へ来た敵を横から押せます」
信長は彦右衛門を呼び、北への使いを二人出した。
勝三郎には九十六人のうち六十人を率いて来させ、三十六人で川筋を守らせる。分かれ目の四十八人からも三十人を動かし、残る十八人は荷と使いの通る場所を守る。
道と渡り口を残したまま、東へ兵を寄せる命令だった。
「夜道で組を散らすな。明るくなってからでもよい、槍を揃えて来いと伝えよ。父上へも、兵を集めた敵が鳴海へ入ったと知らせる」
信長は使いを送り出し、龍之介の旗の前へ戻った。
「お前の九十、末森の五十、勝三郎の六十、分かれ目から三十。織田の二百三十に、九郎二郎の三十五を合わせる」
二百六十五人になる。ただし、北の兵が到着して初めて揃う数だ。
龍之介は頷き、城戸と梶原を呼び寄せた。
「若様、敵が揃う前に、こちらを散らしておかぬようにいたします。明朝は私が前を見ます。兵が着いた時、すぐ並べられる場所も空けておきます」
「任せる。向こうが村々へ兵を割くなら、今度はこちらが、割れた所へまとめて掛かる」
信長はそう言って、近づいてきた末森の組頭へ持ち場を尋ね始めた。
龍之介は陣の端まで歩き、東の火を見た。昼に並んでいた敵の槍が、あの暗がりで休んでいる。
背後では、到着した二十人が荷を下ろし、休む兵と見張りを代わっていた。龍之介も水を飲み、明朝の射線を孫七と確かめに向かった。




