第6話 お嬢様は言葉が足りない
この屋敷で過ごすようになって、少し経った頃。
俺には、少しずつ仕事のようなものが増えていた。
といっても、まだ正式な使用人ではない。
掃除を手伝ったり、厨房で野菜を運んだり、ハンスさんに言われて荷物を移動したり。その合間に文字の勉強をする。
そんな毎日だ。
そして、この屋敷には俺と年の近い子供が1人いた。
セレナ・エルフォード。
ローデリックさんの娘。
つまり、この家のお嬢様だ。
「アルベルト」
「はい」
「いつもの」
「…………」
何だろう。
お嬢様が俺を見ている。
「いつもの?」
「そう」
「何です?」
「だから、いつもの」
「…………」
分からない。
最近、俺が手伝ったものを思い出す。
お茶、本、上着。
それとも何か別のものか。
「お茶ですか?」
「違う」
「本?」
「違う」
「上着?」
「違う!」
お嬢様は苛立った様子で腕を組んだ。
「じゃあ何です?」
「稽古の!」
「稽古の何?」
「……手袋」
「ああ」
剣の稽古で使う手袋か。
それなら分かる。
「最初からそう言ってくださいよ」
「いつも持ってきてるでしょう」
「だからって『いつもの』だけじゃ分かりませんよ」
「分かるでしょう」
「分かりません」
「何でよ」
「言ってないからです」
お嬢様が黙った。
どうやら、本気で分かると思っていたらしい。
俺は手袋を取りに行った。
戻ってくると、お嬢様はまだ少し不満そうな顔をしている。
「はい」
「遅い」
「何を持ってくるか分からなかった時間が入ってます」
「次からは分かるでしょう」
「多分」
「多分?」
「また別のものを『いつもの』って言われたら分からないです」
「…………」
「ちゃんと言ってください」
「分かったわよ」
本当に分かったのかは怪しい。
その日の午後。
「アルベルト」
「はい」
「ちょっと来て」
「どこへ?」
「いいから」
「何するんです?」
「来れば分かる」
まただ。
「どこへ行くんです?」
「庭」
「庭で何するんです?」
「剣」
「剣をどうするんです?」
「見るの!」
「誰の?」
「私の!」
やっと全部出た。
「つまり、お嬢様が庭で剣の稽古をするから、俺に見てほしい?」
「そう!」
「最初からそれ言えばいいじゃないですか」
「質問が多いのよ!」
「説明が少ないんですよ」
お嬢様が睨んでくる。
でも、怒っているというより、何で分からないのか本気で不思議そうだった。
庭へ向かう。
お嬢様が木剣を持って構え、俺は少し離れた場所に座った。
「始めるわよ」
「どうぞ」
木剣を振る。
踏み込んで、また振る。
10歳くらいにしては、ちゃんとしているように見える。
もちろん俺は剣なんて分からないから、本当に上手いのかは知らない。
しばらく見ていると、お嬢様がこちらを向いた。
「どう?」
「どう、とは?」
「…………」
「何について?」
「剣!」
「剣の何?」
「上手くなった?」
「昨日より?」
「そう」
「昨日見てないですよ」
「…………」
「あ」
お嬢様が固まった。
「昨日、俺ここにいませんでしたよね」
「いたでしょう」
「庭にはいましたけど、お嬢様の稽古は見てないです」
「……そうだった?」
「多分」
「じゃあ一昨日」
「それも見てない」
「…………」
「比べられないですよ」
少し考えてから付け足す。
「でも、俺には上手く見えます」
「本当?」
「剣のこと分からないですけど」
「それじゃ意味ないじゃない!」
「だから最初に言ったでしょう!」
追いかけられた。
木剣を持ったまま追ってくるのは怖いからやめてほしい。
それから、お嬢様と顔を合わせることが増えた。
理由はよく分からない。
年が近いからなのか、俺が屋敷の中をあちこち手伝って回っているからなのか。
あるいは、言ったことに対して遠慮なく聞き返す人間が珍しいのかもしれない。
「アルベルト」
「はい」
「本」
「どの本?」
「机の上の赤い本」
「はい」
少し進歩した。
「アルベルト」
「はい」
「お茶」
「どこに?」
「私の部屋」
「何のお茶?」
「……いつもの」
「戻った」
「紅茶!」
「はい」
まだ足りない。
ある日は、お嬢様の方から確認してきた。
「アルベルト」
「はい」
「これで分かる?」
「何が?」
「……今から庭に行くから、昨日と同じ場所で剣の稽古を見て」
「分かります」
「本当?」
「完璧です」
「そう」
少し得意そうだった。
何を喜んでいるんだろう。
俺はまだ文字の勉強を続けていた。
読み書きは難しい。
話す言葉は分かるのに、文字になるとまるで別物だ。
机に向かって練習していると、横から声がした。
「そこ違う」
「え?」
「その字」
お嬢様が指を差す。
「こっち?」
「違う。その横」
「これ?」
「そう」
「どこが違うんです?」
「ここ」
指でなぞる。
「ああ」
「曲がり方が逆」
「細かいな」
「細かくない」
「読めればいいでしょう」
「駄目」
「厳しいですね」
「ちゃんと書きなさい」
「はい」
俺が書き直す。
「これで?」
「……まあいいわ」
「先生みたい」
「先生より私の方が上手い」
「それ先生に言います?」
「言わない」
「何で?」
「怒られるから」
「分かってるんじゃないですか」
お嬢様が笑った。
最初は、少し面倒な子だと思った。
言葉が足りない。
自分が分かっていることは、相手も分かっていると思っている。
貴族の娘として育ったからなのか、元々の性格なのかは分からない。
ただ、悪い子ではない。
分からないと言えば、怒りながらも説明する。
足りないと言えば、少しずつ言葉を足す。
俺が文字を間違えれば、頼んでもいないのに横から教えてくる。
「アルベルト」
「はい」
「明日も見る?」
「何を?」
お嬢様が一瞬黙る。
「……剣の稽古」
「ちゃんと言えましたね」
「うるさい」
「見ますよ」
「そう」
お嬢様が少し笑った。
俺もつられて笑った。




