第5話 アルベルトという少年
屋敷の仕事を手伝うようになって、1週間ほどが経った。
「アルベルト。そこはもういいぞ」
「あと少しなので、ここまでやります」
「……そう言うと思った」
ハンスさんが呆れたように笑う。
朝の掃除から始まり、荷物運び、庭の片付け。
できることはまだ多くない。それでも、何もしないで過ごしていた頃よりずっと落ち着いた。
「次は何かあります?」
「お前な」
「はい」
「仕事を探すのが仕事みたいになってないか?」
「暇なので」
「10歳の子供が言う台詞じゃないぞ」
そう言われても困る。
中身は28歳だ。
何もせずに世話になり続ける方が、どうにも落ち着かない。
その日の朝は、夜まで降っていた雨のせいで庭のあちこちが濡れていた。
ハンスさんと一緒に外へ出たところで、何人かの使用人が倉庫の前に集まっているのが見えた。
「何かあったんですか?」
「水が溜まったらしい」
見ると、倉庫の入口近くに大きな水溜まりができていた。
中まで入っているわけではない。
ただ、このまま雨が続けば少し面倒そうだ。
使用人たちは入口近くに置かれていた荷物を奥へ移している。
俺も軽い箱を持とうとして、ふと地面を見た。
水は倉庫の前に集まっている。
その少し先。
庭の端へ向かって地面が下がっていた。
「これ、荷物を移動するだけじゃなくて、水を逃がした方がよくないですか?」
近くにいたハンスさんが俺を見る。
「水を?」
「はい」
しゃがんで地面を見る。
「ここが低くなってるから水が集まってるんですよね」
「そうだな」
「だったら、こっちまで浅く溝を作れば流れると思います」
指で地面に線を引く。
倉庫前から、さらに低くなっている庭の端まで。
ハンスさんが俺の指先を見る。
「分かるのか?」
「絶対とは言えないですけど」
馬車から見た道路を思い出す。
水が溜まる場所は傷みやすい。
埋めるだけじゃ、原因が残っていればまた同じことになる。
前の世界の現場で何度も見てきた。
「似たような場所を見たことがあるので」
「また変なところだけ覚えてるんだな」
「俺もそう思います」
ハンスさんが少し考えたあと、近くにいた使用人へ声をかけた。
「少し掘ってみるか」
「いいんですか?」
「荷物を運ぶだけより早そうだ」
俺が掘るわけではない。
大人たちが道具を持ってきて、俺が指した方向へ浅く地面を削っていく。
最初はほとんど動かなかった水が、溝がつながった瞬間にゆっくり流れ始めた。
「あ」
少しずつ。
でも確実に、水溜まりが小さくなっていく。
「本当に流れたな」
誰かが言った。
「よかった」
思ったよりうまくいって、俺の方が安心した。
ハンスさんが俺を見る。
「お前、こういうの詳しいのか?」
「詳しいってほどじゃないですよ。前に似たようなのを見てただけです」
「10歳で?」
「…………」
「…………」
「変ですよね」
「今さらだな」
笑われた。
否定できない。
魔法も知らない。
文字も読めない。
なのに、水の逃がし方だけ知っている。
自分でも相当変な子供だと思う。
倉庫前の水がある程度引いたところで、ハンスさんが立ち上がった。
「じゃあ次だ」
「何かあります?」
「厨房へ行ってこい」
「厨房?」
「ああ。昼の準備で人手がいるはずだ。ただし――」
「勝手なことはしない」
「分かってきたな」
「毎日言われてますから」
道具を片付け、厨房へ向かう。
文字はまだ読めない。
けれど、さすがに1週間も暮らしていれば屋敷の中も覚えてくる。
厨房に入ると、いくつもの鍋から湯気が上がっていた。
「何か手伝うことありますか?」
「また来たの?」
料理をしていた女性が笑う。
厨房を取り仕切っているマルタさんだ。
「ハンスさんに行けって言われました」
「そう。なら……」
マルタさんが厨房を見回す。
「そこの野菜を運んでくれる?」
「はい」
籠を持ち上げる。
玉ねぎに似たもの。人参に似たもの。芋らしきもの。
形や色は少し違うが、前の世界にも似た野菜があった。
「ここでいいですか?」
「ええ。ありがとう」
籠を置く。
「ほかには?」
「もういいわよ」
「まだ来たばかりですけど」
「あなたに包丁を持たせるわけにもいかないでしょう?」
「包丁なら使えますよ」
マルタさんの手が止まった。
「使えるの?」
「普通には」
「……どうして?」
「どうしてって」
料理くらいしていたからだ。
前の人生では、仕事から帰って自分で作ることも珍しくなかった。
「なんとなく、使い方は覚えてるみたいです」
「本当に?」
「見てもらえれば」
疑うような目を向けられたあと、小さめの包丁を渡された。
「ゆっくりでいいからね」
「はい」
野菜を押さえて切る。
特別上手いわけじゃない。
料理人みたいに速くもない。
ただ、普通に切るくらいならできる。
何枚か切ったところで、マルタさんが黙った。
「……なんですか?」
俺の手元を見ている。
「本当に使えるのね」
「使えるって言ったじゃないですか」
「10歳くらいの子が言う『使える』を信用すると思う?」
「確かに」
逆の立場なら信用しない。
「でも、料理人みたいに上手いわけじゃないですよ」
「十分よ」
マルタさんが1枚手に取る。
「厚さもだいたい揃ってるし」
「なんとなく、こういうことは覚えてるみたいです」
「あなた、本当に変な記憶の失い方してるわね」
「俺もそう思います」
そこからは簡単な下ごしらえを任せてもらえた。
皮を剥き、野菜を切り、肉を運ぶ。使い終わったものを洗う。
やっていると、少し懐かしい。
前の人生では料理が好きだったわけではない。必要だからやっていただけだ。
でも、こうして誰かのために作る側に回ると、少し違う。
「アルベルト。それ、鍋に入れて」
「これ全部?」
「半分」
「はい」
切った野菜を鍋へ入れる。
マルタさんが味を整えていくと、いい香りが広がった。
「味見する?」
「いいんですか?」
「手伝った人の特権」
一口分を渡される。
「……うまい」
「でしょう?」
「もうちょっと塩あってもよさそうですけど」
「…………」
「あ」
マルタさんがこちらを見る。
「言うようになったわね」
「すみません」
「謝らなくていいわよ」
マルタさんも一口飲む。
「……ほんの少しね」
塩を足し、もう一度味を見る。
「うん。こっちの方がいいわ」
「ですよね」
「調子に乗らない」
「はい」
でも、少し嬉しい。
それから、厨房を手伝うことも増えた。
毎日ではない。
俺には文字の勉強もあるし、屋敷の仕事も覚えなければならない。
それでも手が足りない時には呼ばれるようになった。
「アルベルト、これ切って」
「はい」
「アルベルト、そっち見てて」
「はい」
「アルベルト、味見」
「それ仕事ですか?」
「仕事よ」
「なら喜んで」
少しずつ、この屋敷で俺に声をかける人が増えていった。
その日の午後。
俺は机に向かっていた。
「これは?」
「……分かりません」
「昨日やったぞ」
「見覚えはあります」
「読めなければ同じだ」
「ですよね」
仕事より、こっちの方が大変だった。
俺に文字を教えているのは、屋敷で事務仕事をしている男性だ。
紙に1文字書かれる。
「これは?」
「……えーっと」
分からない。
日本語なら読める。数字も計算もできる。
なのに目の前にある文字だけが、まるで記号だ。
「もう一度だ」
「はい」
発音を聞き、文字を見て、自分でも書いてみる。
「違う」
「どこがです?」
「ここだ」
「ほぼ一緒じゃないですか」
「違う」
「厳しいな……」
現場で怒鳴られるよりはマシか。
そう思って、もう一度書く。
こればかりは近道がない。
覚えるしかない。
「アルベルト」
声がして振り返る。
ローデリックさんが部屋の入口に立っていた。
「どうです?」
「私に聞くな」
先生役の男性が答える。
「覚えは悪くありません。ただ、完全に最初からです」
「そうか」
「本当に10歳まで1文字も学ばなかったのか、不思議なくらいに」
「俺に言われても困ります」
「だろうな」
ローデリックさんが少し笑った。
「少しいいか?」
「はい」
勉強を中断して、ローデリックさんについていく。
執務室に入ると、何枚かの紙が机に置かれていた。
「身元のことですか?」
「察しがいいな」
少し緊張した。
この屋敷に来てから、何度も調べてもらっている。
近くの村や街。
商人や旅人。
行方不明の子供。
けれど。
「今のところ、お前につながる情報はない」
「そうですか」
予想していた答えだった。
それでも少しだけ落ち込む。
ローデリックさんは紙を置いた。
「アルベルト」
「はい」
「お前は文字を読めない」
「はい」
「アルベルトと書いてあるのも、私に教えてもらっただけだ」
「そうですね」
「話すことには問題がない」
「はい」
「だが文字はまったく読めない」
「はい」
「魔法も知らず、ホーンウルフも知らなかった」
「はい」
「それなのに、道の傷み方や水の流れについては妙な知識がある」
「…………はい」
並べられると、かなり怪しい。
今日の倉庫の話まで、もう伝わっているらしい。
屋敷の中の話は本当に早い。
「自分でも変だと思います」
「そうか」
ローデリックさんは椅子にもたれ、しばらく俺を見ていた。
疑われている。
当然だ。
むしろ、今まで何も聞かれなかった方がおかしい。
「アルベルト」
「はい」
「本当に、自分がどこから来たのか分からないのだな?」
少しだけ迷った。
前の人生なら覚えている。
母さんのことも、妹のことも、仕事のことも。
けれど、この身体が誰なのか。
どうしてこの世界にいるのか。
なぜ森にいたのか。
それは、本当に何も分からない。
「……はい」
そう答えた。
「そうか」
ローデリックさんは、それ以上追及しなかった。
「俺、ここにいて大丈夫ですか?」
聞いてから、自分でも変な質問だと思った。
「何がだ?」
「身元も分からないし」
「ああ」
「怪しくないですか?」
「怪しいな」
「即答ですね」
「自分でも分かっているだろう」
「まあ」
ローデリックさんは机の上の紙を見る。
「だから調べている」
「ですよね」
「だが」
視線が俺に戻る。
「少なくとも、この1週間のお前は見ている」
「…………」
「朝から仕事を探し回り、使用人の邪魔にならない範囲で手伝い、文字を覚えようとしている」
「はい」
「今日は倉庫の前の水まで流したそうだな」
「俺は言っただけですよ。掘ったのはハンスさんたちです」
「それでも、最初に気づいたのはお前だろう」
「まあ……」
「厨房で包丁まで握っていたそうだな」
「それももう伝わってるんですか?」
「屋敷の中の話は早い」
「怖いな……」
ローデリックさんが笑う。
「何者なのかは分からん。だが、今のお前がどんな人間なのかは、少しずつ分かってきた」
「今の俺……」
「ああ」
不思議な言葉だった。
自分でも、自分が何者なのか分からない。
アルベルトという名前だって、本当なのか分からない。
それでも、ここで何をするか、どう振る舞うか。
それなら自分で決められる。
「まあ、もう少し見させてもらうがな」
「まだ信用されてない?」
「当然だ」
「ですよね」
でも、最初に言われた「怪しい」と、今の「当然だ」は少し違って聞こえた。
部屋を出る。
廊下の向こうから声が飛んできた。
「アルベルト! 手が空いたら厨房!」
「はい!」
反射的に返事をする。
その直後、別の方向からも呼ばれた。
「その前に勉強の続きだ!」
「……はい」
厨房へ行きたい。
そんな俺を見て、ローデリックさんが笑っていた。
その夜、妙な夢を見た。
暗かった。
どこなのかは分からない。
誰かが近くにいたような気がする。
けれど、それが誰なのかも、何をしていたのかも分からなかった。
ただ、何か嫌なことが起きている。
そんな感覚だけがあった。
目を覚ます。
薄暗い部屋の中で、しばらく天井を見つめた。
「……夢か」
内容を思い出そうとしてみる。
暗かった。
誰かがいた。
覚えているのは、その程度だった。
前の人生の夢だったのか、この身体に関係する夢だったのか、それすら分からない。
少し気にはなったが、考えたところで答えは出ない。
俺は寝返りを打って、もう一度目を閉じた。
名前しか分からない。
家族も、生まれた場所も、この身体の過去も分からない。
それでも、この屋敷では少しずつ、
「アルベルト」
そう呼ばれることが増えていた。
その名前が自分のものだという感覚も、少しずつ俺の中に馴染み始めていた。




