第4話 ここで働かせてください
風呂に入り、用意してもらった服に着替えた。
鏡に映っているのは、どう見ても10歳くらいの少年だった。
森の沢でも顔は見たけれど、こうして明るい場所で見ると改めて実感する。
「これが……アルベルトか」
少し長めの髪に、細身の身体。
そう口にしてみても、まだ自分の名前という感じはしない。
そもそも、本当にアルベルトなのかも分からない。持っていた物にそう書かれていただけだ。
この身体がどこで生まれて、どんな両親がいて、どうやって10歳まで生きてきたのかも知らない。
「考えても分からんか」
鏡から離れた。
分からないことはいくらでもある。
今は一つずつだ。
部屋を出ると、先ほど俺を案内してくれた女性が待っていた。
「お食事の用意ができております」
「ありがとうございます」
案内された部屋には、パンや肉と野菜の入ったスープ、焼いた肉などが並べられていた。
見たことのない野菜もあるが、少なくとも食べ物だとは分かる。
「……これ、全部俺のですか?」
「はい」
「多くないですか?」
「残していただいても構いませんよ」
そういう問題ではない気がする。
恐る恐る椅子に座り、スープを一口飲む。
「うま……」
思わず声が出た。
かなり腹が減っていたらしい。食べ始めると、自分でも驚くくらい手が進んだ。
森の中を歩き回ったせいもあるのだろう。
食事を終えると、今度は客室へ案内された。
ベッドに机、椅子、棚。
一人で使うには十分すぎる部屋だった。
「本日は、こちらをお使いください」
「ここを?」
「はい。何か必要なものがございましたら、お呼びください」
「あの」
「はい?」
「俺、何か手伝えることありませんか?」
女性の動きが止まった。
「手伝う、ですか?」
「はい」
「ございませんよ」
即答だった。
「でも、飯も風呂も部屋も用意してもらってるので」
「お客様に仕事をさせるわけにはまいりません」
「でも俺、客って言っても……森で拾われただけですよね」
「ローデリック様がお客様として迎えるとお決めになりましたので」
「…………」
強い。
これ以上言っても無理そうだ。
「分かりました」
「では、ごゆっくりお休みください」
扉が閉まり、一人になった。
「休めって言われてもな……」
ベッドを見る。
寝ろと言われれば、たぶん寝られる。
疲れていないわけではない。
でも、どうにも落ち着かなかった。
窓から外を見ると、庭では何人もの使用人が動いている。
荷物を運ぶ人。掃除をする人。馬の世話をしている人。
みんな働いている。
俺だけ何もしない。
「……無理だな」
前の人生では、昼間は現場、夜は工場。
今思えば、明らかに働きすぎだった。その結果死んだのだとしたら、笑えない。
だからといって、人の世話になって何もしないことに急に慣れられるわけでもない。
働きたいというより、何か返したかった。
飯を食わせてもらって、風呂に入れてもらって、寝る場所まで用意してもらった。
だったら、自分にできることくらいはしたい。
少し迷ってから部屋を出た。
もちろん、勝手に屋敷をうろつくのはまずい。近くにいた使用人に外へ出てもいいか確認してから庭へ向かった。
庭の端で、年配の男性が木箱を運んでいる。
「手伝います」
「ん?」
男性が振り返った。
「ああ、旦那様がお連れになった子か」
「アルベルトです。多分」
「多分?」
「まだ本当に俺の名前か分からないので」
「……そうだったな」
男性は少し困ったように笑った。
「私はハンスだ」
「ハンスさん。それ、どこまで運ぶんですか?」
「倉庫だが……いや、待て」
俺が木箱に手をかけると止められた。
「客人にそんなことをさせたら、私が怒られる」
「じゃあ客じゃなくていいです」
「そういう問題ではない」
まただ。
「軽いものなら?」
「駄目だ」
「掃除は?」
「駄目だ」
「馬の世話とか」
「できるのか?」
「やったことないです」
「もっと駄目だ」
「ですよね」
正論だった。
「何ならできます?」
「部屋で休むことだな」
「それが一番苦手です」
ハンスさんが笑った。
「変わった子だ」
結局、何もさせてもらえなかった。
仕方なく庭を歩いていると、屋敷の裏手から声が聞こえた。
「あっ!」
何事かと思って向かうと、地面に袋が落ちている。
袋の口が裂けたらしく、中から芋のような野菜が大量に転がっていた。
「袋が破れたんですか?」
「ええ。まったく、こんな時に……」
若い使用人が慌てて拾っている。
これならできる。
俺もしゃがんだ。
「あ、アルベルト様?」
「これ拾えばいいですよね」
「いえ、私たちでやりますので」
「俺、暇なんです」
「ですが――」
「落ちてる物を拾うくらいなら、仕事じゃないですよね?」
「それは……」
屁理屈なのは自分でも分かっている。
それでも一つ拾い、さらにもう一つ拾う。
「勝手に拾ってるだけです」
若い使用人は困った顔をしてから、諦めたように息を吐いた。
「では……そちらをお願いします」
「はい」
ようやくやることができた。
たったそれだけなのに、妙に安心した。
散らばった野菜を新しい袋へ入れていく。途中から他の使用人も加わり、すぐに片付いた。
「助かりました」
「これくらいならいつでも」
「いつでも、ですか?」
「はい」
「お客様ですよね?」
「今のところは」
自分でもよく分からない返事になった。
でも、ずっと客でいるつもりはない。
身元が分かれば、その後を考えればいい。
もし分からなかったとしても、いつまでもただ飯を食べ続けるわけにはいかない。
それから数日。
ローデリックさんは、本当に俺の身元を調べてくれていた。
近隣で行方不明になった子供はいないか。
森の周辺を通った商人や旅人はいなかったか。
アルベルトという名前の少年を探している者はいないか。
俺が持っていた硬貨や板についても調べているらしい。
今のところ、それらしい話はない。
その間、俺は屋敷の中で邪魔にならない程度の手伝いをした。
落ちているものを拾う。庭の枯れ枝を集める。使い終わった道具を運ぶ。荷物を持っている人がいれば、軽い方を持つ。
最初は何をするにも、
「アルベルト様、それは私たちが」
と止められた。
そのたびに、
「様はいらないです」
と返した。
それを何度繰り返したか分からない。
数日経つ頃には、
「アルベルト、暇ならこれを持ってくれるか?」
と言ってくれる人も出てきた。
「はい」
その方がずっと楽だった。
ただ、一つだけ困ったことがあった。
「これを厨房へお願いします」
「分かりました」
小さな荷物を渡され、廊下を歩く。
途中で足を止めた。
二つの扉があり、横にはそれぞれ札が掛けられている。
「…………」
読めない。
どっちだ。
昨日も厨房には行った。
でも屋敷は広いし、今日は別の場所から来たせいで分からなくなった。
適当に開けるわけにもいかない。
近くを通った使用人に聞く。
「すみません。厨房ってどっちですか?」
「こちらですよ」
「ありがとうございます」
指差された方へ向かおうとすると、相手が首を傾げた。
「……昨日も行きませんでした?」
「行きました」
「では、なぜ?」
「札が読めないので」
「え?」
「文字、一文字も読めないんです」
相手が固まった。
「本当に?」
「本当に」
どうやら、俺が文字を読めないことは全員には伝わっていなかったらしい。
その日の夕方、俺はローデリックさんに呼ばれた。
「文字が読めないそうだな」
「はい」
ローデリックさんが机の上に一枚の紙を置く。
何かが書かれている。
「これは?」
「分かりません」
「では、これは?」
今度は別の紙。
「同じく分かりません」
「数字は?」
「数字も分かりません」
危ない。
前の世界の数字なら当然分かるが、余計な説明をしても仕方がない。
ローデリックさんが俺を見る。
「森で見せた板も読めなかったな」
「はい。アルベルトって書いてあるのも、ローデリックさんに教えてもらっただけです」
「話すことには問題がない」
「そうですね」
「だが文字はまったく読めない」
「はい」
「魔法も知らず、ホーンウルフも知らなかった」
「はい」
「それなのに、道の傷み方については妙な知識がある」
「…………はい」
並べられると、かなり怪しい。
「自分でも変だと思います」
「そうか」
ローデリックさんは椅子にもたれ、しばらく俺を見ていた。
疑われている。
当然だ。
むしろ、今まで何も聞かれなかった方がおかしい。
「アルベルト」
「はい」
「本当に、自分がどこから来たのか分からないのだな?」
少しだけ迷った。
前の人生なら覚えている。
母さんのことも、妹のことも、仕事のことも。
けれど、この身体が誰なのか。
どうしてこの世界にいるのか。
なぜ森にいたのか。
それは、本当に何も分からない。
「……はい」
そう答えた。
「そうか」
ローデリックさんは、それ以上追及しなかった。
「なら、文字も覚えればいい」
「え?」
「読めないなら教える。それだけの話だ」
あまりにも簡単に言われて、少し拍子抜けした。
「いいんですか?」
「文字を教えるくらいで大げさな顔をするな」
「でも、飯も部屋も用意してもらって、そのうえ勉強までって……」
「またそれか」
呆れられた。
「お前の身元は調べている。その間はここに置くと言っただろう」
「はい」
「なら、その間にできることを増やしておいて損はない」
ありがたい。
ものすごくありがたい。
だからこそ。
「だったら」
「なんだ?」
「働かせてください」
ローデリックさんが黙った。
「文字も教えてもらって、飯も食わせてもらって、寝る場所まで借りるんですよね」
「ああ」
「何もしないのは嫌です」
「お前は10歳くらいだぞ」
「10歳でもできることはあります」
「なぜそこまで働きたがる?」
その質問に、少しだけ言葉が詰まった。
前の人生では働いて、働いて、たぶんそれで死んだ。
今度の人生でも働かせてくれと言っている。
自分でも少しおかしいと思う。
でも、働くことそのものがしたいわけじゃない。
「人に何かしてもらうだけって、落ち着かないんです」
それが一番近かった。
「できることだけでいいです。邪魔になることはしません」
ローデリックさんは、しばらく俺を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かった」
「本当ですか?」
「ただし、正式に雇うわけではない」
「はい」
「仕事というより手伝いだ。できないことはさせない。勝手なこともしない」
「分かりました」
「それと」
「はい」
「疲れたら休め」
「大丈夫です」
「今の返事が一番信用できんな」
「…………」
何も言い返せなかった。
ローデリックさんが苦笑する。
「明日から屋敷の仕事を手伝わせてもらえ。ついでに文字も習え」
「ありがとうございます」
頭を下げた。
この世界に来てから、初めて自分から手に入れたものが仕事だった。
我ながらどうかと思う。
けれど、何者かも分からず、ただ保護されているだけだった俺に、ようやく一つここでやることができた。
翌朝。
「アルベルト。まずは廊下の掃除からだ」
ハンスさんから箒を渡される。
「はい」
前の人生と比べれば、驚くほど小さな仕事だった。
それでも俺は、少しだけ嬉しかった。




