第33話 取り残された生徒
「川が氾濫したぞ!!」
男子生徒の声が森に響いた。
俺たちはすぐに駆け寄った。
「落ち着いて。何があったの?」
セレナが聞く。
男子生徒は膝に手をつき、何度か大きく息を吸った。制服も靴も泥だらけで、右腕には擦り傷がある。
「川を……渡ろうとしてたんだ。橋があったから」
「橋?」
ルークが地図を開いた。
俺たちが明日渡る予定だった橋だ。
「渡ってる途中で、急に水が増えて……橋の一部が壊れた。俺たちは戻れたけど、向こう側にまだいる!」
「何人?」
「3人だ。俺たちの班じゃない。別の班の奴らで……」
男子生徒が来た方向を振り返る。
「川の近くに取り残されてる」
セレナの表情が変わった。
「先生は?」
「分からない。俺たちの班の2人が探しに行った。俺はこっちに他の生徒がいないか見に来たんだ」
学院の教師たちは森の各所に配置されている。
緊急時に備えているとは聞いていたが、すべての班のすぐ近くにいるわけじゃない。
「まず川から離れた方がいい」
ルークが言った。
「ここも安全とは限らない。増水してるなら低い場所には近づかない方がいい」
「でも、3人が!」
「分かってる」
ルークの声は落ち着いていた。
「だからこそ、僕たちまで動けなくなるのはまずい。先生に知らせるのが先だ」
正しい。
俺たちは救助隊じゃない。
まだ学院に入ったばかりの1年生だ。
セレナも頷いた。
「私もそう思う。先生たちに任せるべきよ」
俺も反対する理由はなかった。
「とりあえず、あなたは少し休んでください」
男子生徒の腕を見る。
酷い怪我ではなさそうだが、かなり疲れている。
「でも――」
「今の状態で走り回る方が危ないです」
俺が言うと、男子生徒は悔しそうに唇を噛んだ。
「……分かった」
この場所が本当に安全かも分からない。
俺たちは男子生徒と一緒に、地図上でも少し標高が高い場所へ移動することにした。
移動している間も雨は降り続いていた。
さっきより強い。
森の中を流れる細い水が、目に見えて増えている。
「変ですね」
思わず口に出た。
「何が?」
セレナが聞く。
「水が増えるのが早すぎる気がします」
もちろん、俺はこの世界の森や川に詳しいわけじゃない。
日本にいた頃だって、治水の専門家だったわけでもない。
それでも現場で雨に降られることは何度もあった。
地面に水が溜まる。
低い場所へ流れる。
排水が追いつかなくなる。
そういう光景なら見てきた。
今朝から雨は降っている。
だが、この辺りで降っている量だけで、さっきの沢があそこまで増えるものなんだろうか。
「上流でもっと降ってるんじゃない?」
セレナが言う。
「俺もそれしか思いつかないです」
「森は広いからね」
ルークも言った。
確かに、それなら説明はつく。
少し高い場所まで移動すると、男子生徒を木の根元に座らせた。
「先生、まだ来ないね」
ミアが言った。
「連絡が届いていれば来るはずよ」
セレナはそう答えたが、何度も周囲を確認している。
気になっているのは同じなんだろう。
取り残された3人。
無事ならいい。
先生が先に見つけてくれていれば、それで終わる。
それが一番いい。
俺たちが何かする必要もない。
しばらく待った。
雨音だけが続く。
「遅いわね」
セレナが呟いた。
ルークが地図を見る。
「教師がどこにいるか分からないからね。別の班でも問題が起きてるなら、そっちへ向かってる可能性もある」
「この雨だものね」
「うん」
俺は男子生徒を見る。
「3人がいた場所って、ここから遠いですか?」
「走ればそんなにかからない。10分くらいだ」
「どんな場所でした?」
「川の近くだ。少し高くなってるところに逃げてた。俺が最後に見た時は、まだ水には囲まれてなかった」
最後に見た時は。
「今は?」
「分からない」
男子生徒が俯く。
「水がどんどん増えてたから……」
セレナが俺を見る。
俺もセレナを見る。
「……様子だけ見に行く?」
先に言ったのはセレナだった。
「先生を待つんじゃなかったんですか?」
「待つつもりだったわ。でも、状況が分からないままここにいるのも気になるのよ」
少し考えてから続ける。
「助けられるかどうかは別。危険ならすぐ戻る。見るだけよ」
「僕は反対かな」
ルークが言った。
声は穏やかだった。
「川が氾濫してるんだ。近づくだけでも危険だよ」
「でも、3人いるのよ」
「だから教師に任せるべきだ。僕たちまで動けなくなったら、助けを必要とする人数が増えるだけだよ」
セレナは黙った。
ルークの言っていることは間違っていない。
むしろ正しい。
「アルは?」
急に聞かれた。
「俺ですか?」
ルークが俺を見る。
「どう思う?」
少し考える。
俺だって川へ近づきたいわけじゃない。
危ないなら逃げるべきだ。
誰かを助けるために自分たちまで死ぬなんて、正しいとは思わない。
「……見るだけなら」
俺は答えた。
「危ないと思ったらすぐ戻る。それなら、状況を確認するくらいはいいんじゃないですか」
ルークは何も言わなかった。
「私は行くわ」
セレナが立ち上がる。
「ミアは?」
3人でミアを見る。
ミアは少し考えた。
「行く」
「これで3対1ね」
「本当にそうなったね」
ルークは困ったように笑った。
少しの間、俺たちを見てから息を吐く。
「分かった。ただし、危険だと思ったらすぐ戻ろう」
「もちろんよ」
男子生徒には高い場所で待ってもらうことにした。
近くの木に学院から支給されていた目印を結び、教師が見つけやすいようにしておく。
俺たちは4人で川へ向かった。
近づくにつれて、水の音が大きくなっていった。
さっき森の中で聞いたものとは比べものにならない。
ゴウゴウと低い音が響いている。
「これ……」
セレナの声が小さくなる。
木々の向こうが開けた。
川が見えた。
「嘘でしょ……」
昨日、地図で見た時には普通の川だったはずだ。
今は違う。
濁った水が木の枝や石を巻き込みながら流れている。
本来の川岸がどこなのかも分からない。
橋は中央部分が完全に崩れ、残った部分にも水がぶつかっていた。
「渡るのは無理だね」
ルークが言った。
誰も反論しない。
渡るなんて考える状況じゃない。
「いた」
ミアが指差した。
少し上流。
川から突き出すように残っている高い地面がある。
そこに人影が見えた。
3人。
学院の制服。
「おーい!」
セレナが叫ぶ。
向こうも俺たちに気づいた。
何か叫んでいる。
だが、水の音でほとんど聞こえない。
少なくとも生きている。
それだけは分かった。
「よかった……」
セレナが息を吐く。
だが、安心できたのは一瞬だった。
俺は3人の足元を見る。
水が当たっている。
地面の側面が少しずつ削られていた。
「まずいですね」
「え?」
「あそこ、長く持たないかもしれません」
セレナの表情が固まる。
「どれくらい?」
「分かりません」
俺は川を見る。
流れを見る。
地面を見る。
どうすればいい。
橋は使えない。
泳ぐなんて論外だ。
土魔法で橋を作る?
無理だ。
これだけの水の中で地面を大きく動かせるほど、俺には魔力がない。
ドッ。
また地面が崩れた。
向こうから悲鳴が聞こえる。
3人がさらに中央へ寄った。
「アル」
セレナが俺を見る。
俺は答えず、周囲を見る。
川そのものを止めるのは無理だ。
そんなことをすれば、別の場所へ水が溢れる。
そもそも俺にはできない。
だったら、全部を止めなければいい。
流れを追う。
水は上流から来て、途中で大きく曲がっている。
その一部が、3人のいる場所へ強く当たっていた。
あの流れだけを少し外へ逃がせれば。
地面を動かして、水の向きを変える。
俺には大きすぎる。
でも。
隣を見る。
ミアがいる。
「ミア」
「何?」
「あそこの土、動かせます?」
俺が上流側を指差す。
ミアはじっと見る。
「動かせると思う」
「どれくらい?」
「いっぱい」
この前なら困った答えだった。
今は違う。
「それでいいです」
セレナが俺を見る。
「アル、何するつもり?」
「水の流れを変えます」
「そんなことできるの?」
「全部は無理です」
もう1度、川を見る。
必要なのは全部じゃない。
「一部だけなら、できるかもしれません」
「アル」
ルークが俺を呼んだ。
いつもより真剣な顔をしている。
「やめた方がいい」
「どうしてです?」
「危険すぎる。教師が来るまで待つべきだ」
「でも、あそこは持ちませんよ」
「僕たちまで危険に飛び込む必要はない」
ルークの言っていることは分かる。
俺たちまで流されたら、助けるどころじゃない。
さっきまでなら、俺も同じ意見だった。
でも、今は実際に川を見た。
3人の状態も見た。
そして、俺たちにできそうなことも見つけた。
「無理ならやりません」
「アル」
「でも、できるかもしれないんですよ」
ルークが黙る。
「先生が来るまで持つなら、俺だって待ちます。でも、目の前で地面が崩れてる」
また土が削られた。
知らない奴らだ。
名前も知らない。
助けたところで、俺の人生が何か変わるわけでもない。
誰かを助けるために命を捨てられるほど、俺は立派な人間でもない。
でも、目の前にいる。
そして、助けられるかもしれない。
それなら。
「やってみます」
ルークの笑顔が消えた。
セレナは川を見て、それから俺を見る。
「本当にできそうなの?」
「やってみないと分かりません。でも、無茶はしません」
「……分かったわ」
セレナは頷いた。
「危ないと思ったら、すぐにやめる。それが条件よ」
「はい」
ルークだけが、まだ俺を見ていた。
「ルーク」
しばらくして、ルークが小さく息を吐く。
「分かった」
笑ってはいなかった。
「やるなら僕も手伝う。ただし、本当に無理だと思ったらすぐ退くよ」
「もちろんです」
俺はミアを見る。
「お願いします」
「うん」
ミアが川へ向き直る。
俺も上流を見る。
必要なのは、川を止めることじゃない。
3人のところへぶつかっている水を、別の方向へ逃がすことだ。
「ミア。まず、あそこの土をできるだけこっちに動かしてください」
「いっぱい?」
「いっぱいです」
ミアが手を向ける。
次の瞬間、地面が大きく揺れた。




