第32話 雨
朝、目を覚ますと空は曇っていた。
昨日までの青空は消え、森の上を灰色の雲が覆っている。
テントから出ると、すでにルークが起きていた。
「おはようございます。早いですね」
「おはよう、アル。なんとなく目が覚めてね」
ルークはそう言って空を見上げた。
「今日は降るかもしれないな」
俺もつられて見上げる。
今すぐ降り出しそうというほどではないが、昨日より明らかに雲が厚い。
「昨日はあんなに晴れてたんですけどね」
「山や森の天気は変わりやすいからね」
「そういうものですか」
「たぶん」
「たぶんなんですね」
ルークが笑う。
しばらくすると、セレナとミアもテントから出てきた。
セレナはすでに身支度を整えている。その後ろから出てきたミアは、淡い灰色の髪の一部が跳ねていた。
「眠い」
「昨日、一番早く寝たのミアでしょ」
「森だから」
「それ、昨日も言ってなかった?」
「言った」
「じゃあ理由になってないじゃない」
朝からいつも通りだった。
簡単に朝食を済ませ、テントを片付ける。
出発前に4人で地図を確認した。
昨日のうちに予定より少し進めている。このまま順調なら、今日の夕方までには目的地へ到着できるはずだ。
「問題は天気ね」
セレナが空を見る。
「降ってきたら、少し様子を見てもいいんじゃないですか」
「そうね。3日目もあるんだし」
ルークも頷いた。
「無理して今日中に着く必要はないね。雨が強ければ、安全な場所を探してもう1泊すればいい」
最初からそういう判断も含めた校外学習だ。
早く着いた班が勝ちというわけじゃない。
「ミアは?」
セレナが聞く。
「何でもいい」
「聞いた私が馬鹿だったわ」
「分かってきたね」
「そういう意味じゃない!」
ミアは少しだけ満足そうだった。
森を歩き始めてから1時間ほど経った頃、頬に冷たいものが当たった。
空を見ると、葉の隙間から小さな水滴が落ちてくる。
「降ってきましたね」
「まだ小雨ね」
セレナが外套のフードを被る。
すぐに止むかもしれないと思っていたが、雨は少しずつ強くなっていった。木々の葉に当たる音が増えていく。
俺は歩きながら地面を見る。
まだぬかるんではいない。
ただ、昨日より足元には気をつけた方がよさそうだ。
「少し右に寄りません?」
俺が言うと、セレナが振り返った。
「どうして?」
「こっちの方が少し高いので」
「また?」
「またです」
「アル、高いところ好きね」
「そういう趣味みたいに言わないでください」
後ろからルークが笑った。
「でも理屈は合ってるよ。雨が続くなら低い場所は避けた方がいい」
「ほら」
「なんで得意そうなのよ」
「認めてもらえたので」
「ルークにでしょ」
そんなことを話しながら進む。
校外学習と言っても、今のところは森の中を歩いているだけだ。昨日のように魔物が出ることもなかった。
昼前には雨が少し強くなった。
ちょうど大きな岩が張り出した場所を見つけ、俺たちはそこで休憩することにした。完全に雨を防げるわけではないが、木の下よりはましだ。
「お腹すいた」
座った直後、ミアが言った。
「さっき朝ご飯食べたばかりでしょ」
セレナが呆れたように言う。
「もう昼」
「だからって、着いて最初に言うことがそれ?」
「大事」
ミアはすでに荷物から昼食を取り出していた。
学院から支給された保存食が中心だ。硬いパンと干し肉、それに少量の果物。
4人で食べ始める。
しばらくすると、ミアが空になった袋を覗き込んだ。
「もうない」
「食べたんだから当然でしょ」
「足りない」
「私と同じ量だったでしょ?」
「足りない」
セレナの言葉では量は増えなかったらしい。
「俺のパン、少し食べます?」
「食べる」
返事が早い。
「そこは迷わないんですね」
「うん」
俺は残っていたパンを少し渡した。ミアは受け取ると、満足そうに食べ始める。
「昨日から思ってたんですけど」
「何?」
「これ、あんまり美味しくないですよね」
俺がパンを見ながら言うと、セレナが呆れたように答えた。
「保存食なんだから仕方ないでしょ」
「もう少し何とかできそうな気がするんですけど」
「アル、料理できるの?」
ルークが聞いてきた。
「簡単なものなら」
その瞬間、ミアが顔を上げた。
「何作れる?」
「急に元気になりましたね」
「何作れる?」
「そこ大事なんですね」
「大事」
少し考える。
「普通の料理ですよ。肉を焼いたり、煮込んだり。厨房を借りられれば、もう少し色々できますけど」
「美味しい?」
「普通だと思います」
「今度作って」
「もう決まったんですか?」
「うん」
「私も食べてみたいわ」
セレナまで乗ってくる。
「セレナまで?」
「別にいいでしょ。学院にいる時なら作れるんじゃない?」
「厨房を借りられればですけど」
「じゃあ決まりね」
いつの間にか、学院へ戻った後に料理を作ることになっていた。
「僕もいい?」
ルークが聞く。
「なんで当然みたいに増えるんですか」
「仲間外れは酷くないか?」
「4人分」
ミアが言った。
「勝手に決めないでください」
「多めに」
「増えた」
セレナが吹き出した。
久しぶりに料理するのも悪くはない。
何を作れるかは、学院の厨房にある食材次第だろう。
食事を終えてからも、すぐには出発しなかった。
急ぐ必要はない。雨脚が弱まるのを待つ。
セレナは地図を確認し、ルークは岩にもたれて外を見ている。ミアは座ったまま目を閉じていた。
「寝てます?」
「起きてる」
「絶対寝てたでしょ」
「起きてた」
「じゃあ、俺が今何してたか分かります?」
「喋ってた」
「それは今です」
「じゃあ寝てた」
「認めるの早いですね」
セレナが吹き出し、ルークも笑っている。
俺もつられて笑った。
しばらくすると、雨が少し弱くなった。
「行きましょうか」
俺たちは荷物を背負い直した。
目的地まではまだ距離がある。
今日中に着ければそれでいい。無理なら、もう1泊する。
そう決めて歩き始めた。
午後に入ると、森の様子が少し変わってきた。
雨自体は先ほどより弱い。
だが、足元を流れる水が増えている。斜面の土からも、細い水が何本も染み出していた。
俺は足を止めた。
「どうしたの?」
セレナが振り返る。
しゃがんで地面を見る。
土がかなり水を含んでいる。
「思ったより水が多いですね」
「雨が降ったからじゃない?」
「そうなんですけど……」
靴の先で軽く地面を押す。
柔らかい。
上を見ると、斜面には木が生えている。今すぐ崩れそうには見えない。
それでも、あまり長くいたい場所じゃなかった。
「この辺は早めに抜けましょう」
「危ない?」
「絶対とは言えませんけど、土がかなり水を吸ってます」
セレナも斜面を見上げた。
「分かったわ。少し急ぎましょう」
「走らない方がいいですよ。滑るので」
「分かってるわよ」
4人で足元に注意しながら進む。
少し歩いたところで、ミアが立ち止まった。
「水」
「どうしました?」
「向こうから来てる」
ミアが指差す。
地図では小さな沢がある方向だ。
近づいてみると、昨日渡った沢ほどの幅しかないはずの水路に、濁った水が勢いよく流れていた。
「結構増えてるね」
ルークが言う。
「この雨だけでこんなに?」
セレナが空を見る。
今はむしろ雨脚が弱まっている。
「上の方でもっと降ってるのかもしれませんね」
森は広い。
ここで小雨だからといって、上流も同じとは限らない。
「渡る?」
ミアが聞く。
俺は首を横に振った。
「やめましょう。別の場所を探した方がいいです」
「私もそう思うわ」
セレナもすぐに同意した。
ルークは流れる水をしばらく眺めていた。
「……そうだね」
一瞬だけ、何かを考えていたように見えた。
だが、すぐに地図を取り出す。
「少し戻れば別の道がある。そっちから回ろう」
「それでいきましょう」
予定変更。
授業で何度も言われていたことだ。
最初に決めた道にこだわる必要はない。
迂回した分だけ、目的地への到着は遅れる。
それでも明日まで時間はある。
俺たちは焦らずに進んだ。
途中で雨がまた強くなれば足を止め、弱くなれば進む。危なそうな場所があれば避ける。
特別なことは何もない。
ただ4人で相談しながら進んでいく。
それがこの校外学習の目的なんだと思う。
夕方が近づき始めた頃、今日中に目的地へ着くのは難しそうだと判断した。
「もう1泊した方がよさそうね」
セレナが言った。
「俺もそう思います」
「場所を探そうか」
ルークが地図を見る。
ミアは空を見上げた。
「またテント?」
「そうですよ」
「ベッドがいい」
「森にあるなら俺もそっちがいいです」
「探す?」
「ありません」
そんな話をしていた時だった。
ドンッ、と遠くから低い音が響いた。
俺たち全員が足を止める。
「何?」
セレナが森の奥を見る。
「雷……ではないですよね」
空から聞こえた音じゃない。
もっと低い。
地面を通して響いてきたような音だった。
ルークの表情が変わった。
ほんの一瞬だったが、何かを知っているような顔に見えた。
「ルーク?」
「いや……」
その時、鳥の群れが森の奥から一斉に飛び立った。
数十羽。
いや、もっといる。
「何かあった」
ミアが呟く。
俺もそう思う。
少し遅れて、別の音が聞こえてきた。
水だ。
大量の水が流れるような音が、少しずつ大きくなっている。
「川の方じゃない?」
セレナが言った。
地図を見る。
この先には、明日渡る予定だった川がある。
俺たちが顔を見合わせた、その時だった。
前方の森から人影が現れた。
学院の制服を着た男子生徒だ。
泥だらけになりながら、こちらへ走ってくる。
「おい!」
ルークが声をかける。
男子生徒が俺たちに気づき、顔色を変えた。
「逃げろ!」
息を切らしながら、それでも大声で叫ぶ。
「上流で土砂崩れだ!」
一度、大きく息を吸い、さらに叫んだ。
「川が氾濫したぞ!!」




