第2話 知らない世界
「自分の名前が分からない、か」
男は俺を見ながら、もう一度そう呟いた。
「はい」
「何も覚えていないのか?」
「……気がついたら、この森にいました。この身体のことは、何も」
最後の部分だけ、少し言葉を選んだ。
前の人生のことは覚えている。
28歳だったことも、日本で暮らしていたことも、昼は現場、夜は工場で働いていたことも。
でも、この身体については本当に何も知らない。
男から見れば、記憶を失った子供にしか見えないだろう。
「頭を打ったのかもしれんな」
男が俺の頭を見る。
「痛むところは?」
「ないです」
「身体は?」
「大丈夫だと思います」
「そうか」
男は俺の返事を聞きながらも、腕や足に怪我がないか確認していく。
その間に、後ろにいた別の男が倒れた獣へ近づいた。
「ローデリック様、周辺を確認します」
「ああ。頼む」
ローデリック。
どうやら、この人の名前らしい。
……様?
少し気になったが、今はそれより聞きたいことがある。
「あの」
「なんだ?」
「これ、なんなんですか?」
倒れている灰色の獣を指差す。
男――ローデリックさんが、少し不思議そうな顔をした。
「ホーンウルフだが」
「ホーンウルフ……」
「知らないのか?」
「初めて見ました」
「そうか」
ローデリックさんの表情が少し険しくなる。
子供でも知っていて当然の生き物なのかもしれない。
「それと、さっき何をしたんですか?」
「さっき?」
「俺に伏せろって言ったあとです。何か飛んできて、こいつが倒れたので」
「ああ」
ローデリックさんが納得したように頷く。
「風刃だ」
「ふうじん?」
「風の魔法だ」
「…………魔法?」
聞き間違いかと思った。
「魔法も覚えていないのか?」
「ちょっと、見せてもらっていいですか?」
「今か?」
「はい」
自分でも妙なお願いだと思う。でも、確認したかった。
ローデリックさんは少し考えてから、近くの草へ手を向けた。
「この程度なら構わんが」
何をするのかと見ていると、手の先の空気がわずかに揺れた。
次の瞬間。
ヒュッ、と短い音がした。
少し離れたところに生えていた草が、まとめて切れた。
「…………」
草を見る。
ローデリックさんを見る。
もう一度、草を見る。
「……すげえ」
思わず口から出た。
「そんなに珍しいものでもないだろう」
「俺にはめちゃくちゃ珍しいです」
魔法。
本当に魔法がある。
角の生えた狼だけなら、俺の知らない動物と言い張れたかもしれない。知らない硬貨も文字も、どこか遠い外国だと思い込めたかもしれない。
でも、これは無理だ。
人間が手を向けただけで、離れた草が切れた。
「……マジか」
いよいよ現実味がなくなってきた。
死んで、子供になって、魔法のある世界に来た。
そんな小説みたいな話が、本当に自分に起きたのか?
そう考えたところで、ふと前の人生が頭をよぎった。
母さん。
妹。
もし俺が本当に死んだのなら、2人は俺がいなくなった世界にいる。
胸の奥が重くなった。
もっとちゃんと寝ておけばよかった。
もう少し働き方を考えていれば。
今さら考えても遅い。
そもそも、本当に死んだのかすら確認する方法がない。戻れるのかも分からない。
分からないことを考え続けても、答えは出ない。
昔から、そういう時にやることは決まっていた。
今できることをやる。
少なくとも今は、この場所で生きなければならない。
「ローデリック様」
声がして顔を上げる。
周囲を確認していた男たちが戻ってきた。
「どうだった?」
「近くに人のいた形跡はありません。馬車の轍も見当たりませんでした」
「そうか……」
ローデリックさんが俺を見る。
「何か持っていないか? 身元が分かるものでもいい」
「あ」
そういえば。
「これくらいです」
腰につけていた革袋を外して渡す。
ローデリックさんが中身を確認する。
硬貨、布、そして文字の刻まれた薄い板。
「これは……」
ローデリックさんの手が止まった。
「何か分かります?」
「アルベルト」
「え?」
「ここにそう書かれている」
指差された場所を見る。
森で見た、あの読めない文字だ。
「アルベルト……」
口に出してみる。
聞いても、何の記憶も浮かんでこない。
「人の名前ですか?」
「ああ」
「じゃあ……」
もう一度、板を見る。
読めない。
何度見ても、意味の分からない記号にしか見えない。
「それが、この身体……俺の名前なんですかね」
「断定はできん。持ち主が別にいる可能性もある」
「ですよね」
「だが、手がかりにはなる」
ローデリックさんが板を俺に返す。
受け取って、もう一度見る。
アルベルト。
この文字がそう読めると言われても、俺にはまったく分からない。
ただ、わざわざ持ち歩いていた物に刻まれているなら、自分の名前である可能性はありそうだった。
「文字は読めないのか?」
「一文字も」
「だが、言葉は普通に話せている」
「俺も不思議なんです」
「……妙だな」
「はい。俺もそう思います」
ローデリックさんが考え込む。
そりゃそうだ。
言葉は普通に通じるのに、魔法もホーンウルフも知らない。文字は読めず、自分の名前すら分からない。
怪しいと言われても仕方がない。
「では、ひとまずアルベルトと呼んでも構わないか?」
「はい」
少し迷ってから頷く。
「ほかに呼び方もないので」
「そうだな」
アルベルト。
まだ自分の名前という感じはしない。
けれど、この世界で初めて手に入れた、自分につながる情報だった。
「それで、アルベルト」
「はい」
「お前をここに置いていくわけにはいかん」
「……ですよね」
さっきのホーンウルフを思い出す。
一人になったら、次は助かる保証がない。
「我々はこの森の魔物を討伐するために来ている。予定を終えたら街へ戻る」
「討伐……」
「それまでは我々と一緒にいろ」
「いいんですか?」
「ああ」
「でも、俺が何者なのかも分からないですよね」
ローデリックさんが少し意外そうな顔をした。
「それはそうだな」
「だったら……」
「身元が分からないことと、子供を魔物のいる森に置き去りにすることは別の話だ」
あっさりと言われた。
「お前が何者なのかは、安全な場所へ戻ってから調べればいい」
何も言い返せなかった。
「ありがとうございます」
「礼は無事に森を出てからにしろ」
ローデリックさんが歩き出す。
俺もその後についていこうとして、ふと気になった。
「あの」
「今度はなんだ?」
「ローデリックさんって呼んで大丈夫ですか?」
一瞬、周りの男たちが妙な顔をした。
「……何か間違えました?」
さっき「ローデリック様」と呼ばれていたことを思い出す。
もしかして、結構偉い人なのか?
ローデリックさん本人は気にした様子もなく、小さく笑った。
「好きに呼べばいい」
「分かりました。ローデリックさん」
後ろの男が、また微妙な顔をした。
やっぱり何か間違えている気がする。
でも、ローデリックさんが何者なのか、この場所がどこなのか、アルベルトとは本当に俺の名前なのか。
知らないことだらけなのは変わらない。
ただ一つ。
森で目を覚ました時には、自分の名前すら分からなかった。
今は仮でも、呼ばれる名前がある。
「アルベルト、行くぞ」
「はい」
そう返事をして、俺はローデリックさんたちの後を歩き始めた。




