第1話 森の中で
目を覚ますと、森の中だった。
「……どこだ、ここ」
身体を起こして、周囲を見回す。
木、木、木。
見渡す限り、それしかない。
少なくとも、俺が知っている場所じゃなかった。
最後に覚えているのは仕事だ。
昼間は現場で働いて、夜は工場に入る。そんな生活を続けていた。
父親は早くに亡くなった。
母親が俺と妹を育てるために苦労しているのを見てきたから、働くこと自体は嫌いじゃなかった。少しでも楽をさせたかった。
だから働いた。昼も、夜も。
さすがに無理をしすぎていたんだと思う。
俺は28歳で死んだ。
そこまでは覚えている。
日本で暮らしていたことも、家族のことも、仕事のことも、どんな生活をしていたのかも覚えている。
なのに。
「……名前、なんだっけ」
自分の名前だけが思い出せなかった。
苗字も、名前も出てこない。
家族の顔は思い出せる。母親も、妹も。一緒に暮らしていた記憶だって残っている。
それなのに、自分が何と呼ばれていたのかだけが抜け落ちていた。
気持ち悪い。
でも、それ以上に気になることがあった。
「……小さくなってないか?」
自分の手を見る。
明らかに小さい。腕も細い。
立ち上がって身体を確認してみる。
着ている服にも見覚えがない。日本で着ていたような服じゃない。
それどころか、この身体そのものが俺のものじゃなかった。
近くに水でもあれば顔を確認できるんだけど、辺りを見回してもそれらしいものはない。
「死んだと思ったんだけどな……」
夢にしては妙に感覚がはっきりしている。
湿った土の匂い。葉が擦れる音。頬に当たる風。足の裏に伝わる地面の感触。
全部がやけに現実的だった。
試しに頬をつねってみる。
「痛い」
普通に痛かった。
夢じゃない。
たぶん。
となると、考えられるのは――。
「転生……とか?」
自分で言っておいて馬鹿らしい。
でも、死んだはずの28歳の男が、知らない森で子供の身体になっている。他にまともな説明も思いつかなかった。
問題は、ここがどこなのかだ。
森の中。子供の身体。食べ物もない。人がいるかどうかすら分からない。
転生だろうが何だろうが、このままここにいたら普通に死ぬ。
「とりあえず、人を探すか」
考えるのはその後だ。
服を確認すると、小さな袋を持っていることに気づいた。
中には硬貨らしきものや小さな金属片、それから文字の書かれたものが入っている。
「……読めない」
見たことのない文字だった。
英語でもない。当然、日本語でもない。
何か意味があるはずなのに、一文字も分からない。
「本当に日本じゃないのか」
少なくとも、知っている世界ではなさそうだ。
袋の中をもう一度確認する。
自分が誰なのか分かるものがあるかもしれない。
けれど、文字が読めない以上、判断のしようがなかった。
元の身体の記憶も探ってみる。
家族、家、この森、自分の名前。
何一つ浮かばない。
あるのは日本で生きていた記憶だけ。
それなのに、その日本で使っていた自分の名前まで思い出せない。
「名前くらい分かってもいいだろ……」
思わず呟いた。
返事をする人はいない。
仕方ない。
今は名前より、生きて森を出る方が先だ。
歩き始めて、しばらく経った。
そこで一つ気づいた。
「意外と動けるな」
見たところ、この身体は10歳くらいだと思う。正確な年齢は分からない。
もっと体力がなくて、歩くだけでも苦労すると思っていた。
でも実際には、身体が思った以上に軽い。
木の根を跨ぎ、斜面を登り、足場の悪い場所を歩いても、身体が自然についてくる。
少なくとも、ひ弱な子供ではなさそうだった。
ありがたい。
今はこの身体だけが頼りだ。
どれくらい歩いただろう。
森の景色はほとんど変わらない。
「方向、合ってるのか?」
当然、分からない。
太陽の位置を見ようにも、木々に遮られてよく見えない。
完全に遭難している。
一度立ち止まる。
喉も渇いてきた。
水を探した方がいい。
地面を見る。
少し低くなっている方向へ歩けば、水場に出る可能性はある。確実じゃないけど、適当に歩くよりはましだ。
「こっちか」
斜面を下る。
しばらくすると、微かに水の音が聞こえた。
「当たり」
思わず声が出た。
音を頼りに進むと、小さな沢が見つかった。
流れている水は澄んでいる。
安全かどうかは分からない。でも、このまま水を飲まずに歩き続けるわけにもいかない。
少しだけ口に含む。
変な味はしない。
喉を潤してから顔を洗い、水面を見る。
そこに映っていたのは、当然ながら知らない顔だった。
幼い。たぶん10歳前後。
髪も、顔立ちも、前の俺とは違う。
「本当に別人だな」
分かっていたつもりだった。
でも、実際に見ると変な感じがする。
俺は誰なんだろう。
前の世界で使っていた名前も分からない。この身体の名前も分からない。ここがどこなのかも分からない。
分からないことだらけだ。
「まあ……生きてれば、そのうち分かるか」
今考えても答えは出ない。
沢から離れ、再び歩き始めた。
その時だった。
ガサッ、と後ろの茂みが揺れた。
足を止める。
風じゃない。
もう一度、茂みが大きく揺れる。
何かいる。
「……人?」
返事はない。
代わりに、低い唸り声が聞こえた。
茂みの奥から姿を現したのは、犬に似た生き物だった。
ただし、額から角が生えている。
「いやいや……」
犬じゃない。
少なくとも、俺の知っている動物じゃない。
そいつが低く身体を沈めた。
嫌な予感がした。
次の瞬間、地面を蹴った。
「っ!」
反射的に横へ飛ぶ。
爪が服のすぐ横を通り過ぎた。
速い。
子供の身体じゃなかったら、今のでやられていたかもしれない。
角の生えた獣が振り返る。
逃げる。
それしかない。
俺は走った。
木の間を抜ける。
後ろから枝が折れる音が聞こえる。
追ってきている。
「目覚めた初日にこれはないだろ!」
文句を言っても状況は変わらない。
目の前に倒木が見え、そのまま飛び越える。
身体は思った通りに動いた。
だが、その先の地面がぬかるんでいた。
足が滑る。
「うわっ!」
体勢を崩した。
まずい。
すぐ後ろから唸り声が聞こえる。
振り返ると、角の生えた獣が飛びかかってきていた。
避けられない。
そう思った瞬間だった。
「伏せろ!」
知らない男の声が響いた。
反射的に頭を下げる。
直後、何かが頭上を通り過ぎた。
獣が横へ吹き飛ぶ。
地面を転がり、そのまま動かなくなった。
「……え?」
何が起きたのか分からない。
声がした方向を見ると、木々の間から何人かの男たちが現れた。
剣を持ち、鎧も着ている。
先頭にいる男が俺を見た。
「大丈夫か?」
言葉が分かった。
知らない場所。知らない文字。知らない生き物。
なのに、その男が何を言っているのかだけは理解できた。
「……はい」
そして俺の口から出た言葉も、なぜか相手に通じた。
男は少し安心したように息を吐く。
「こんなところで何をしている?」
答えようとして、止まった。
何をしている。
俺が一番知りたい。
男は続けた。
「名前は?」
その質問にも、答えられなかった。
前の世界の名前も、この身体の名前も、どちらも分からない。
俺は少し迷ってから、正直に答えた。
「……分かりません」




