第17話 師匠のいない一年
15歳になった頃、バルガスさんがエルフォード領を離れることになった。
「じゃあな」
「軽いですね」
「何が?」
「1年もいたんですよ?」
「だから何だ」
「もうちょっとこう、別れを惜しむとか」
「気持ち悪いだろ」
「まあ、バルガスさんがやったら気持ち悪いですね」
「だろ?」
本人は本当にいつも通りだった。
荷物も少ない。剣も持っていない。
初めて会った時と、ほとんど変わらない格好で立っている。
「次はどこ行くんです?」
「決めてねえ」
「決めてない?」
「ああ」
「何しに行くんです?」
「強くなりに」
「どこで?」
「知らん」
「適当だなあ」
バルガスさんが笑う。
「強え奴がいたら戦う」
「死なないでくださいよ」
「俺が?」
「強い人探して戦うんでしょう?」
「そう簡単に死ぬか」
「そういう人が一番危ないんですよ」
「お前、15のくせに年寄りみてえなこと言うな」
中身は28歳だった。
今なら33歳くらいになるんだろうか。
前の人生で28年、この世界で5年。
でも、単純に足せばいいのかは自分でもよく分からない。
「アルベルト」
珍しく、バルガスさんが真面目な顔をした。
「はい」
「俺がいなくなっても続けろよ」
「何を?」
「全部だ」
「雑ですね」
「剣も」
「はい」
「魔法も」
「はい」
「殴るのも」
「はい」
「避けるのも」
「はい」
「考えるのも」
少しだけ間が空いた。
「……はい」
バルガスさんが笑う。
「それでいい」
「また会えます?」
「ああ」
即答だった。
少しだけ嬉しくなったところで、
「たぶんな」
「今ので台無しですよ」
「生きてりゃ会える」
「じゃあ生きててください」
「お前もな」
拳を差し出される。
何だろうと思ったが、少し考えて俺も拳を出した。
軽くぶつける。
「じゃあな、アルベルト」
「はい」
「次会う時までに、一発くらい当てられるようになっとけ」
「無茶言わないでください」
「できる」
「根拠は?」
「俺が教えた」
「一番不安な根拠だなあ」
「うるせえ」
笑いながら、バルガスさんは歩いていった。
振り返らない。
俺も呼び止めなかった。
バルガスさんがいなくなっても、生活は続いた。
朝起きて、屋敷の仕事をする。
お嬢様の予定を確認し、必要なら付き添う。
空いた時間には剣を振り、土魔法を使い、身体を動かす。領地で頼まれれば、土魔法を使う仕事も手伝う。
夜になれば寝る。
そんな日が続いた。
ある夜、久しぶりに妙な夢を見た。
暗い。
どこにいるのか分からない。
身体を動かそうとしても、うまく動かなかった。
近くに誰かがいるような気がする。
けれど、顔は見えない。
声も聞こえない。
何かが起きている。
それだけは分かるのに、それが何なのかは分からなかった。
そして――。
急に、妙な感覚がした。
落ちるのとは違う。
引っ張られるのとも少し違う。
自分だけが、どこかへずれていくような――。
目を開けた。
見慣れた天井があった。
「……またか」
身体を起こす。
前にも似たような夢を見た気がする。
いつだったかは、すぐには思い出せなかった。
夢の内容も、目を覚ますと急速に薄れていく。
暗い場所。
誰かの気配。
それから、最後の妙な感覚。
それだけが少し残っていた。
森で目を覚ます前のことと関係があるんだろうか。
そう考えてみても、答えは出ない。
しばらくすると眠気が戻ってきた。
明日も朝からやることがある。
俺はもう一度横になり、そのまま目を閉じた。
ただ、朝だけは少し変わった。
今までなら訓練場へ行けば、先にバルガスさんがいた。
「遅え!」
と言われて、まだ眠いのに走らされる。
今は誰もいない。
だから、自分で始める。
立ち方。
拳。
蹴り。
踏み込み。
避けてからの反撃。
掴み。
崩し。
投げ。
バルガスさんに教えられたことを思い出しながら、一つずつ繰り返す。
相手がいないとできないことも多い。
それでも、やれることはあった。
「最近、一人でもやってるな」
ある日、カイルさんが言った。
「何がです?」
「稽古だ」
「バルガスさんがいなくなったので」
「俺がいるだろ」
「カイルさんには教わってますよ」
「そういう意味じゃない」
カイルさんが俺を見る。
「前より、自分で考えて動くようになった」
「そうです?」
「ああ」
木剣を構える。
「来い」
「急ですね」
「確認する」
「何を?」
「この1年で何を覚えたか」
「バルガスさんみたいになってきました?」
「やめろ」
本気で嫌そうだった。
少し笑って、俺も木剣を構える。
カイルさんが動く。
大きく下がらない。
距離を見る。
木剣が来る。
避ける。
そのまま離れず、一歩踏み込む。
カイルさんが次に足を置こうとする場所へ魔力を流し、地面をほんのわずかに変える。
体勢が少し乱れた。
そこへ木剣を出す。
だが、止められた。
「まだ駄目か」
「いや」
カイルさんが剣を下ろす。
「悪くない」
「珍しいですね」
「何が?」
「褒めるの」
「褒める時は褒める」
「もっとお願いします」
「調子に乗るから嫌だ」
「ひどい」
カイルさんが笑う。
「ただし」
「はい」
「護衛の時に同じことをするな」
「分かってます」
「本当か?」
「守る人を置いて、自分だけ前に出るな、でしょう?」
「ああ」
「バルガスさんにも言われました」
カイルさんが少し驚いた。
「拳王が?」
「カイルさんの教えを捨てるなって」
「……そうか」
「意外ですよね」
「いや」
カイルさんは少し考えてから言った。
「バルガス殿ほどの人なら、分かっていて当然なのかもしれん」
「本人は適当ですけどね」
「それを本人に言えるお前も大概だ」
「そうです?」
「ああ」
カイルさんがもう一度木剣を構える。
「続けるぞ」
「はい」
今度は俺から踏み込んだ。
木剣を振る。
受けられる。
近い。
なら、剣だけにこだわらない。
相手の木剣を押さえながら身体を寄せ、足を掛ける。
カイルさんがすぐに体勢を変えた。
逆に投げられそうになり、手を離して距離を取る。
「今のもバルガス殿か」
「はい」
「剣の稽古中だぞ」
「近かったので」
「……まあいい」
「いいんです?」
「実戦ならな。ただし、剣士相手に不用意に懐へ入るな」
「はい」
「それと、今の入り方は悪くない」
「今日すごい褒めてくれますね」
「やめるぞ」
「すみません」
バルガスさん相手なら、今の程度では簡単に投げられている。
カイルさんにもまだ普通に止められる。
だから、上手くなったという実感はあまりなかった。
それでも、できることは少しずつ増えていた。
ガレスさんとの練習も続いていた。
「遅い」
「今の結構速かったですよ」
「俺なら3回できる」
「比べる相手がおかしいんですよ」
「なら2回にしておいてやる」
「優しくないなあ」
ガレスさんは相変わらずだった。
土を大きく動かす。
固める。
崩す。
細かく操作する。
距離を変える。
速さを変える。
俺が苦手なことも、得意なことも、関係なくやらされる。
ただ、以前と少し変わったこともあった。
ガレスさん自身が、今までとは違う使い方を試すことが増えていた。
「先生」
「何だ」
「さっきから何してるんです?」
「試してる」
「何を?」
「まだ分からん」
「分からないもの試してるんです?」
「分かったものだけ試して何になる」
「なるほど」
「お前が言うな」
「なんでです?」
ガレスさんは答えず、また地面へ手を向けた。
同じ土を動かしているように見えるのに、さっきとは何かが違う。
俺には何を考えているのかよく分からない。
「何か思いついたんです?」
「思いついたから試してる」
「教えてくださいよ」
「形になったらな」
「まだ駄目?」
「駄目だ」
なら、邪魔しない方がいい。
俺は自分の練習へ戻った。
ガレスさんは俺の先生だ。
土魔法について、俺より遥かに多くのことを知っている。
俺が何かを教えたわけじゃない。
ただ、以前より楽しそうに土魔法を試すことが増えた気はした。
領地の仕事も、変わらず手伝った。
道。
水路。
畑。
建物の周り。
俺が行くと、
「ああ、アルか」
と言われることが増えた。
最初の頃は、子爵家に拾われた変な子供。
その次は、子爵家で働いている少年。
今は、土魔法を使うアル。
たぶん、そんな感じだ。
「アル、こっち頼む」
「どこです?」
「ここ。荷車が引っかかる」
「どうします?」
「この辺りを少し上げたい」
作業員が範囲を示す。
「分かりました」
土を動かす。
「そこ」
止める。
荷車を通す。
作業員が車輪の動きを確認した。
「もう少しだな」
「どこです?」
「こっちを少し」
「はい」
言われた場所だけを調整する。
もう一度荷車を通す。
「よし」
それだけ。
大きなことはしていない。
でも、こういう仕事は嫌いじゃなかった。
屋敷に戻れば、マルタさんに怒られる。
「遅い!」
「時間通りですよ」
「夕食の準備がある!」
「俺もやるんです?」
「手が空いてるだろ!」
「空いてないって言ったら?」
「空けな!」
「はい」
ハンスさんには、最近背が伸びたと言われた。
「拾われた時はこんなんだったのにな」
かなり低い位置を手で示される。
「そこまで小さくないですよ」
「いや、こんなんだった」
「10歳ですよ?」
「小さかった」
「記憶変わってません?」
「年寄り扱いするな」
「してませんよ」
こういうやり取りも、いつの間にか普通になっていた。
お嬢様も15歳になり、学院へ行く話が少しずつ増えてきた。
リュミエール王国だけではなく、他国からも生徒が集まる学院。
貴族も平民もいる。
商人の子も、冒険者を目指す者も、さまざまな人間が集まるらしい。
「楽しみです?」
ある日、お嬢様に聞いた。
「何が?」
「学院」
「まあまあ」
「まあまあ?」
「楽しみではあるけど」
「けど?」
「知らない人ばっかりでしょう?」
「そうですね」
「面倒そう」
「お嬢様、言い方」
「アルしかいないからいいでしょ」
「俺の前なら何言ってもいいと思ってません?」
「思ってる」
「駄目ですよ」
「じゃあ言い直す」
お嬢様は少し考えた。
「新しい人間関係を築くのが大変そう」
「できるじゃないですか」
「何が?」
「ちゃんと言い直すの」
「馬鹿にしてる?」
「褒めてます」
睨まれた。
でも、前ならたぶん言い直さなかった。
「アルも来るんでしょう?」
「たぶん」
「たぶん?」
「ローデリックさんからは、準備しておけって」
「なら来るでしょ」
「そうですかね」
「来なさい」
「命令です?」
お嬢様が一瞬黙る。
「……お願い」
少しだけ笑ってしまった。
「分かりました」
「何、その顔」
「別に」
「絶対何か思った」
「成長したなって」
「やっぱり馬鹿にしてる!」
「褒めてますって!」
追いかけられた。
15歳の1年。
特別なことは、あまり起きなかった。
新しい師匠に出会ったわけでもない。
突然、強い魔法が使えるようになったわけでもない。
知らなかった力に目覚めたわけでもない。
仕事をして、お嬢様に付き添って、剣を振って、拳を打って、土を動かした。
時々、街の人に呼ばれた。
帰れば、いつもの人たちがいた。
それだけの1年だった。
でも、俺はそれでよかった。
森で目を覚ました時、俺には何もなかった。
名前すら、自分では分からなかった。
それから5年。
気づけば、朝起きて行く場所がある。
やることがある。
帰る場所がある。
俺を呼ぶ人がいる。
もうすぐ、ここを離れる。
学院へ行く。
それでも、ここがなくなるわけじゃない。
そう思えることが、少し嬉しかった。




