タイトル未定2026/10/10 04:12
「これ若いの、目を覚ましなされ」
重い瞼を無理にこじ開けるとあの老人が目の前に立ちじっと泰夫を見下ろしていた、泰夫は息を呑んでのけぞり背中をうしろの格子にしたたか打ちつけその痛みで眠気はたちまち吹き飛ぶと泰夫は一気に我に返った。
「何で御座いましょうか」
泰夫が老人に聞き返すと老人は何も答えもせず元いた暗がりへ引き返していった、その途中、しきりに衣の後襟のあたりを指先でつまんでいたが何をしているのか泰夫にはさっぱり分からなかった、やがて、またあの声がどこからともなく聞こえてくると泰夫は息を殺して耳を澄ました。
「⋯夫さん聞こえますか、是貞⋯す」
聞き取りにくく、ひどくこもってはいたがそれはたしかに是貞の声であった、泰夫ははっとして耳に手をやったが、むろんそこに探すものはない、つづいて袖の中を探ったがやはり見当たらなかった、訝しく思いながら髪から胸もとへさらに腰のあたりへと順に手探ってゆくと野良着の後襟のあたりだけが妙にふくらんでいるのだ泰夫は後襟を前へ引き寄せるとそこへ向かって小声で話し掛けた。
「泰夫だ、是貞か」
「ああ、良かった。ようやく声が届きました」
「一体何がどうなってるんだ」
「その仔細はのちほど孝江さんにお聞き下さい今は肝要のことのみ申します"︎︎︎︎その牢に内藤隼人がおるか否か"︎︎まずはそれを確かめ、私にお知らせください」
是貞の指図を聞いた泰夫は、それとなく趣意を汲みとると辺りを見廻した、牢内は薄暗く、はっきりとは見えぬが同じような牢が六間ほど並んでいた、そのいくつかにはたしかに人のいる気配があり収められている者の姿もちらほら見えた、だが、それが内藤隼人であるかどうかまでは今のところ見定めようがない、泰夫がその旨を是貞へ告げると、是貞は自分は常にこの耳栓で声の届くところにいるゆえ、土方様を見つけた折にはすぐ知らせてほしいと告げた、泰夫は後襟へ縫い込まれた耳栓を取り出そうとすると闇の中からあの老人の声がした。
「やめておけ若いの、改められたら何とする」
手を止め、なるほどもっともと泰夫は老人の申すところを素直に聞き入れ耳栓の源を損なわぬよう耳栓の摘みを押した、そこで泰夫はふと先ほどの老人のふるまいを思い返した、己でも気づかぬことをあの老人は何故あれほど仔細に見て取れたのか、人込みの中で針の落つる音をも聞き分ける者があるというほら話を思い出しもしたが睡魔に襲われ気配に鈍っていたところへ、たまたま老人が近づいてきただけであろうとひとまず自ら得心した、されど何か胸にわだかまるものはまだあったがどうにも言葉にはできずにいた、だが今は冷ややかにあしらいながらも言葉をかけてくれるその老人に泰夫はわずかに心を許し、内藤のことを尋ねてみる気になった。




