タイトル未定2026/10/09 17:42
翌朝、泰夫は番人に引き連れられ町奉行の牢屋敷へ収監された、いまだ己の置かれた立場を理解できず泰夫は狼狽するばかり、町人地から筋を一本南へ下ったところにあった牢屋敷まで市中を縄で縛られ連行される道中、町人からは穴が空くほど見られ後ろ指を刺されていたが何も気にならない始末だった、その様子を軒の影から笑いを堪え見ていた斎藤は是貞へ報せを入れその場を後にした。
「斎藤だ、後は頼んだぞ是貞」
泰夫が牢屋敷に着くと取調べは明日と申し渡されそのまま牢へ引き立てられた、薄暗い廊下が奥へとつづき小さな天井の明かり取りから差すかすかな光だけが頼りで昼であることすら忘れさせるには十分であった、汗と湿気にまみれた饐えた臭いが満ちこめ不快というほかない空間であった、泰夫はこれまで胸の底にくすぶっていた何故という思いから離れきれぬまま、ようやく今、自らの置かれた境遇に恐ろしさを覚えはじめていた。
「おい、ここだ」
泰夫は牢役人に呼び止められ、牢の入口の前で足を止めた、牢役人は鍵束の中からひとつを抜き取り大ぶりで頑丈な錠に差し入れて静かに回した、鍵が外れ、閂を横へずらすと木戸は重たげな音を立ててゆっくり開いた、泰夫は今さらながら自分でも分かりきっていることを、それでも問わずにいられず、これから何をされるのかと牢役人に訊いた、だが牢役人は答えず、無言のまま泰夫の頭を押さえつけるとそのまま尻を蹴り上げた、泰夫は板間を激しく軋ませて牢の中へ転がり込み、すぐ背後で冷たく木戸が閉まる音を聞いた、やがて牢役人の足音が遠ざかってゆくと泰夫は格子にすがりつき言っても詮ないこととは知りながら叫んだ。
「ここから出して下さい」
ようやく騒いでも詮ないことと悟った泰夫は格子にもたれてその場に座り込んだ、やがて牢の暗さに目が慣れてくると泰夫は思わず息を呑み危うく声を上げかけた、牢の外囲いにあたるのであろう壁際、その濃い影のうちに爛々と光る目がふたつ浮かんでいたのである、ひとりを入れるにはあまりに広すぎる牢であり当然、ほかにも罪人が収められていたのだ、泰夫は身をこわばらせながら、おそるおそるその目のほうへ歩み寄った、するとそこには、壁を背にして座したままぴくりとも動かぬ老人がいた、目はたしかに開いている、だが、そこには正気の色がひとかけらもない、まさか死んでいるのではないかと泰夫がなおも近づくとその目は泰夫の動きに合わせるようにぬうとこちらを追ってきた。
「あっちへゆけ」
不意に老人が口を開いた、その声に肝を潰した泰夫は思わず後ろへ飛び退き無礼をわびるように頭を下げると、そそくさと元の場所へ退いた、老人は泰夫とは対角の暗がりの奥にうずくまってりそれでもなお、その目ばかりは異様なほど冴え冴えと光り闇の中からまっすぐ泰夫を射抜いているようであった、泰夫はその視線を避けるように俯くと膝を抱え込み深く息を吐いた。
「⋯夫⋯ん……えます⋯ん……」
どのくらい経ったであろう別の牢からであろうか、どこからともなく人の声が聞こえてきた、だが泰夫は昨夜は番所にて座らされたままついに一睡もできずにいたものでこのような場所であっても抗いきれず、こくり、こくりと首を垂れ、声の主が誰であるかも気に留めぬまま深い眠りへ落ちかけていた、すると不意に瞼の裏をかすかに照らしていたわずかな明かりがすっと消えた。




