タイトル未定2026/06/30 05:04
翌日、孝江は日が昇らぬうちに家を出ると横浜を目指していた、横浜で教鞭をとる師であるルカスに幾度思案しても埋まらない隙間を埋めてもらう為だ、川を下り駈歩で行けば昼迄には横浜へ届くと行燈も持たず月明かりだけを頼りに出掛けた為、目論み通り昼前に横浜へ到着したのは良かったが薄明りの中、駈歩できたのだ躓き幾度となく田畑へ落ちるとその姿は見窄らしく汚れ額には血が滲みすれ違う人々は孝江を避け後指をさしクスクスと笑っていた、しかし孝江は我関せず臆する事もなく横浜の通りを堂々と闊歩していた。
「ご無沙汰しておりますルカス先生」
「おっー孝江じゃないか、おいおい何だその身なりは、山賊にでも遭遇したか?」
孝江は早速、以前少し聞きかじった『コリオリの力』について教授いただけないかとルカスに懇願した、ルカスは快く快諾したが先ずは怪我の手当てと額や膝、肘を消毒しその導き出す数式を書き記すと孝江は飢えた獣の如く記された用紙を素早く取り上げ念仏の様に呟くと指は忙しく宙に何かを書き記していた、それが終わると矢継ぎ早に今度は精神哲学に長けた知り合いはいないか孝江は聞いた、ルカスは窮理学から精神哲学とは少し性急すぎる落ち着けと笑ってそれを制止した、そもそもコリオリの力など幕末の庶民には全くもって不要の長物である、回転系上を移動する物体に対する慣性力を説いたのがコリオリの力である、この時代必要があるとすれば砲撃に関わる者だけだろう、しかし眼前には自身、母国に連れて帰るも吝かでない才女ではあったが何故コリオリの力が必要なのかとルカスを悩ませていた、しかも次は精神哲学とは全くもって怪異としか思えなかった、そこでルカスは近年"︎︎︎︎心理学"︎︎と呼ばれる学問を学ぶ同窓のコペンを紹介するが先づは理由を教えてくれと孝江に言った。
孝江は暫し悩むと口を開いた、多分正確に起きた事を説明しても狂人扱いであろう、逆に信用されて見せてくれと言われても困る、そこで孝江は従軍する許嫁に対し砲術を指南し最前線から外れてもらいたい、精神哲学はその弱気な許嫁を奮い立たせるものだと説明した、これに対してルカスは成程とあっさり信用してくれると遣いを出し横浜を訪れていたコペンへ使いを出すと四半時で彼は現れた、孝江の問いに彼曰く強い兵士とは恐れを知らない者と思われがちだが其れは違うということであった身体が強ばる程の恐怖心は問題だが適度な恐怖心は戦地で生き抜くには重要であると、恐怖、それを取り除こうとするのは逆に死地へ向かわせる様なものだと論じてくれた。
結局、横浜滞在は一刻、ルカスの誘いもけんもほろろに断ると横浜を後にした、空は透き通る程蒼く揺れる船は誰しもが喜んで眠りに落ちる状況であったが孝江はルカスから貰った数式で泰夫の鉄砲の持つ能力を最大限発揮させる計算に没頭していた、前回十町の距離を射抜いた鉄砲は孝江の見立てでは正確な気象観測と軌道計算で半里、いやそれ以上も可能と睨んでいた、しかし軌道計算は良しとして観測値、気温、湿度、風力に関しては観測機器などなく帰路の中間部迄来て今更ルカスに懇願すれば用意してくれたのではと後悔していた、やがて船は対岸に到着すると孝江は駈歩で村を目指した。




