タイトル未定2026/06/30 04:35
結局この日は鉄砲の処遇に困りそのままにして洞穴を後にした、帰り道二人の間に会話はなかった、泰夫は何度も話しかけようとしたが深く物思いにふける孝江の横顔はそれを拒んでいた、孝江は洞穴で得た文の束を大事に懐に抱え上を向いたり下を向いたり、そんな感じなので時々躓き転びそうになる、泰夫はその都度手を差し伸べるが孝江はその都度体勢を立て直し歩き続けた、頭脳明晰な孝江は運動神経も秀でており本気で駆ければ村の者で孝江より速き者はおらず泳げばその姿はまるで鮎の様、水の流れも物ともせず上流へ向かい難なく泳いでゆくのだ、そんな孝江の姿は年頃の男なら誰しもが好意を抱いた実際それは村だけに留まらず町の商人の一人息子からも是非との声もあがっていた、正直、孝江の事を思えば身を引く事が正解であるのは明白であったが泰夫はそれを口にする事ができないでいた、しかしここにきての従軍だ二人の運命は交わらず先で分岐している事を悟らずにはいられない泰夫だった。
「泰夫さん、では私はここで」
「何を言う、うちまで送ってゆく」
「フフッ、明日は雨ですかねぇ」
家に戻ると泰夫は母へ従軍の報告した母はそうかいとそれ以上何も語る事はなかった、ただ寝床へついた泰夫はいつからだと聞かれ一月後と答え眠りについた、一方孝江は眠る事はなかった家に戻った孝江は夕餉に手を出す事なく床に洞穴で拾った文を乱雑に広げた、その上を弟の定二が駆け抜けてゆく最初は気にしなかった孝江であったが定二がけんけんを始め案の定滑って転倒するとそれを心配する事もなく逆に定二を思いっきり打ち付けた、定二は何が起こったか分からずにいたが姉の鬼の様な形相に恐怖して泣きながら母の元へ去っていった、孝江は散らばった文を再配置するとしっくりくる最適な並びを見出そうと苦心していた、その間、母が定二を連れ何があったか問うてきたが盤面に宇宙を見出した棋士の如くそれに集中して無視をする、その態度に定二が再度ちょっかいを出すもので孝江は視線を向ける事なく裏拳で定二の頬を打つ、しかし母はその態度を見て孝江を叱る事もせず定二を連れ厨へ戻っていった。
孝江の父は武家屋敷の厩で馬の世話をしている、若い頃から武士に憧れを抱き今日まで来たが世は泰平、世話する馬が戦場を駆けることもなく移動手段に成り果てていた徳川の世、戦でもあれば戦場へ赴き武勲の一つでもと良い歳の大人が馬鹿げた事を妄想する父であったが産まれてきた娘は坊主相手に禅問答で言いまかし寺子屋の師匠からは手に負えないと匙を投げられ剣を持たせれば村の大人でさえ敵う者はいないそんな娘が誇らしくてしょうがなく盲目的に甘やかしていた、しかし母は違った健やかに普通であればそれ以上は望んでいなかったが目に付く態度は常軌を逸脱する事も少なからず幼き頃より普通に躾けてきたつもりであったがハタチを前にして嫁にもいかず寺子屋の真似事をし家に帰れば本を読み漁り邪魔する定二を折檻する、秀でた頭脳と身体能力を得る代わりに人として大事な部分を神に奪われたのだきっとそうだと思っていた、しかし泰夫の側にいる時の孝江は至って普通で器量良く皆が憧れる存在であったのだ、そんな噂を聞くにつれ逆に母の心配は余計に増すだけでその器量の良さの裏に何か企てがあるのではと恐怖する事も増えていた、夫に相談しようにも帰ってくるのは一月に一回あるかないか帰ってきても孝江を溺愛するだけで話にならない、事が起こる前に共に自死をと考えた日もあったがそれを幼き定二が引き留める、母の心労は計り知れなかった、そんな母の事など露知らず孝江は翌朝、朝餉もとらず出かけて行った。
「泰夫さんいらっしゃいますか」
孝江は木戸の前で泰夫を呼んだ、孝江は返事を待つ事もせず木戸を引き開け中へ入ってゆく朝餉の途中であった泰夫は驚き好物の芋の煮付けを喉に詰まらせた。
「んぐ⋯ごっゴホッゴホッ」
「あら孝江さん、お早いですね」
咳込む泰夫の代わりに母、千代が孝江を招き入れた。
「おはようございます義母様、美味しそうな薫りですね」
「あら孝江さん食べていきます?」
「ありがとうございます、しかし泰夫さんと急ぎ用が御座いまして泰夫さんお借りして宜しいでしょうか?」
泰夫は朝から種芋の選別をしなければならなかった一月後には徴兵される身、母を一人置いてゆくのだ其れまでに終わらせるべき事は多々有った、しかし母は笑顔で泰夫の茶碗を取り上げ顎をクイっと突き出し行っておいでとの仕草、茶碗にはまだ芋の煮付けが残っており泰夫はそれを取ろうとしたが先に母の箸が芋を捉えて口へ運んだ母なりの仕事を怠ける罰であった、泰夫は不服そうな表情で用意を整えると孝江と出かけて行った振り返ると母が美味しそうに芋を頬張り手を振っていた。




