18. 学園祭⑦ 口付けは神聖なものです
「さて、戻る前に伝えておきたいことがあるんだ。」
屋台飯を楽しみ、カフェに戻ろうとしていたところでシルビアはヴィルノアを呼び止めた。
「フェリシア、ヴィルに少し話があるから先戻っていてくれるか?」
「うん、分かった。またあとでね。」
シルビアに軽く手を振りフェリシアは教室に戻っていった。
「たぶん後で聞くより、早い方がいいだろうから午前中に起きたちょっとしたトラブルについて話しておくな。」
シルビアは淡々と話し始めた。
当たりくじを引いたのは一つ下の学年の伯爵令息だった。彼もフェリシアを指名し、「あーん」をしてもらっていた。令息の口の端にクッキーのかけらがついていることに気付いたフェリシアはかけらを取った。
「かけらがついていますよ。もう一度あーん。」
フェリシアはそう言ってかけらを令息の口に入れた。
「あっ、ごめんなさい。唇に指が触れてしまいました。」
「きっ、気にしないでください。」
令息ははにかんで応えた。
「ふふ、優しいのですね。それにしてもエリックといいノアといい殿方の唇は柔らかいのですね。」
フェリシアはにっこり微笑んだ。
「比べてみますか?」
令息は真顔で提案した。
「僕と殿下の唇、どちらが柔らかいかです。そのぅ、キスしてみますか?」
たぶん学園祭の浮かれた雰囲気が令息の気を大きくしたのかもしれない。
フェリシアは顔を一気に赤らめ、両手で頬を押さえた。
「キスなんて、無理ですわ。口づけは神聖なものですもの。無理です。」
「神聖?」
「えぇ。口づけは結婚する男女の愛の深さを神様が見るものでしょう。だから結婚式にされるのですわ。」
フェリシアははにかんだ笑顔を浮かべた。
「それに神様が間違えて赤ちゃんを下さったら困りますでしょう。」
「えぇっと赤ちゃんですか?」
「そうですよ。神様は口づけをした男女の愛の深さを見て天使様に赤ちゃんを届けさせるのですわ。ほら、誰もが知っている絵本にあるではないですか。」
絵本とは困難を乗り越え気持ちの通じ合った王子様とお姫様が神殿で口づけを交わし、のちに天使がかわいい男の子を二人に届けてくれるといった内容のこの国に住む子供たちが一度は読んでいるものだ。
「だから口づけはできませんの。」
フェリシアは両手で口元を押さえた。
令息は困惑しつつも、素直に疑問を口にした。
「ええぇっと、それではフェリシア様は婚約者の殿下とキスしたことがないのですか?」
「もちろんです。結婚してませんもの。」
「う、嘘ですよね?」
「本当だぞ。」
エリックがヤレヤレと会話に入ってきた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。」
フェリシアは顔を真っ赤にして応えた。
令息はまだ困惑から抜けきれないのか質問を重ねた。
「殿下とフェリシア様は婚約して長いですよね?」
「あぁ、6年だ。」
「そうですよね。フェリシア様のような素敵な方が婚約者で指一本触れずにいられるのですか?」
「あぁ、手は出していないな。」
エリックはきっぱり言った。
「えぇぇこんなにかわいらしい方を側に置いて、我慢できるのですか?」
「できる。というか我慢もしていない。ベール子爵婦人を知っているか?」
「はい。実践的な閨の指導で有名なご婦人ですよね。授業の中で実際にプロの方が男女の営みを見せて下さりますよね。僕も教わったことがあります。」
授業の内容を思い出したのか令息はもじもじと落ち着かない様子になった。
「そうだ、その夫人だ。その夫人はフェリシアの王子妃教育の一環である閨教育を担当したんだ。」
「あの授業をフェリシア様も受けられたのですか?」
「あぁ、受けた。が、始まって10分足らずで終了した。フェリシア、ベール子爵夫人の授業覚えているか?」
「ベール子爵夫人?覚えているわ。私のことを姫って呼んでくださった夫人よね。今日の授業は子供の作り方ですっておっしゃるから、子は天使様が神様から託されてお届けくださるものだから作るものではありませんってお伝えしたの。そうしたら子は男性と女性が協力して作るものだとおっしゃったの。作るなんて不思議なことをやっぱりおっしゃるから、いいえ違いますわとお伝えしたの。互いに想い合う男性と女性が神聖な場で口づけをすることで神様が愛の深さを見て、祝福としてて赤ちゃんを天使様に届けさせるのでしょう。誰もが知っている絵本にもあるではないですかって。そうしたら夫人が急に私の手を握ってなんて穢れのない姫君なんでしょう、姫様は時が来るまで清らかなままいて下さいまし、と部屋を出ていかれたのよ。」
フェリシアは頬に手を当て首を傾げた。
「あんなに短い授業はあの授業だけよ。」
「そうだな。そのあと夫人は俺の執務室に来て言ったんだ。私にはあんな純粋な姫君の閨指導はできません、あんな無垢な姫に男女間のアレコレを伝えるなんてできませんわ、ですから殿下が結婚してから実戦で教えて差し上げて下さいまし、と。」
エリックはどこか遠くを見た。
「あの時の夫人はかなり取り乱していましたね。」
ちょうどその場に居合わせた時のことを思い出し、オスカーも遠くを見た。
エリックはヤレヤレと手を挙げ言った。
「こんな奴に誰が手を出したいって思うんだ?姫って言えば聞こえはいいが、単なる誤解による無知だからな。」
「姫…無垢な姫…。」
令息は感激したようで、ぽつぽつと言葉を発した。それは当たりくじを引いた令息のみならず、この場にいた男性陣の心を打ったようで、あちらこちらから姫という声が聞こえた。
「姫君、失礼なことを申し上げて申し訳ありませんでした。姫は僕のようなものが汚していい存在ではありませんでした。清らかな姫君に僕はなんて失礼を…。」
令息は頭を抱え机に突っ伏してしまった。
「お気になさらないでください。分かっていただければ、それでいいのですわ。そういえば物語では主人公たちが口付けをしても子を授かることはあまりないですわね。神様はお気づきにならなかったのかしら?」
最後はフェリシアの独り言のようになった、
「姫君の仰る通りです。姫君はこのままでいて下さい!」
令息は顔を上げ、フェリシアに懇願した。すると他の生徒達もうんうんと頷いていた。そして令息はキラキラした目でエリックに言った。
「殿下の姫君への対応尊敬します。」
「はは、それは何よりだ。ただな、フェリシアも公爵令嬢で俺の婚約者だ。今日のような言動は控えるべきだな。」
エリックはやんわりと令息をたしなめた。令息はサッと青ざめ頭を下げた。
「申し訳ありません!!」
「分かればいいんだ。学園祭だしな。」
令息は顔を上げ、ほっと胸を撫で下ろした。
「まぁフェリシアの無知だけが理由ではないけどなぁ。」
エリックは小さな声で呟いた。
一通り話し終えた後、シルビアは付け加えた。
「この騒動の後からフェリシアは姫と呼ばれているらしい。」
「何から突っ込んでいいのか分からないけど、取り敢えずすごいねシアって。シアらしいって言えばそれまでなんだけどね。」
「あぁ、フェリシアだからって言えば納得な出来事だな。」
二人は頷き合った。
「やっぱりこの企画中止すべきじゃない?シアが危険だよ。」
「フェリシアという存在が一種の爆弾のようだよ。」
「そうだねシアは天然でそこがかわいいんだけど、危険だね。」
「相変わらずだなヴィル。」
ふふふ、と不敵な笑みをヴィルノアは浮かべた。
「ところでさ、不埒な発言をした令息って誰?切り刻んでいいよね?」
黒い笑顔でヴィルノアはシルビアを見た。
「そう言うと思って先に伝えたんだ。教えるわけないだろう。切り刻むな。頭冷やしてから後夜祭に来い。黒い笑顔全開だぞ。」
「笑顔が黒い?面白いこと言うね、シルビア。それならカフェを潰しとこうか?」
「ダメだな。フェリシアが楽しんでるぞ。まぁ、こんな感じだからヴィルは来ない方がいいな。実際に見たら冷静でいられないだろう?」
シルビアは苦笑いを浮かべた。
「冷静?無理だよね。あんな格好させて、あーんして、キスマークつけて、何一つとして許せるとこないよね?なんであんなことシアにさせてるのさ。」
「それ、私に言っても意味ないぞ。」
「分かっているさ。八つ当たりだって。」
ヴィルノアはぷいっと顔をそむけた。
シルビアはふっと笑ってヴィルノアの頭をポンと叩いた。
「分かっていて良かった。フェリシアが楽しんでいるんだ、水を差すな。まぁ、さっきのにゃあのポーズを見たのは私とヴィルだけだ。かわいいよな。それにフェリシアのファーストキスはまだだ。」
シルビアはニヤッと笑った。ヴィルノアは少し目を見張り。小さく笑った。
「いつもありがとう、シルビア。八つ当たりしてごめんね。」
「気にしていない」
片手をすっと上げ、シルビアはカフェへと戻っていった。




