3 . 平穏な生活を望んでいるだけなんだけど
『レム』、ねえ。
聞いたことのない名前だ。
貴族であれば、皇太子妃教育という名目の虐待によって、文字通り血反吐を吐きながら詰め込まれていたから、覚えている。
であれば、平民だったりするかもしれない。
だけど、口にしたのは曲がりなりにも第一皇子である。
ピーノは例外中の例外で、本来平民はもとより、下手な貴族ですらよりつけない。
平民なら知り合うことはおろか、名前さえ知ることはないだろう。
知り合ったとしても、ピーノみたいに、一瞬で噂は駆け巡り、名前に聞き覚えがないなんてことは、ありえない。
しかも、不吉なことに、アレスの中で、ボクがなんかしたことになってなかった?
償うって何?
婚約破棄ならまだしも、冤罪で裁かれるのは勘弁してほしいんだけど。
日頃の行いが行いだから冤罪の危機は間近に感じた。
嫌われてる自覚はある。
「随分な言われようだね、姫様」
ダイモンが、先程までの軽薄な笑みを少しだけ引っ込め、しかし相変わらずの陽気さで肩をすくめた。
彼はアレスの後ろ姿をちらりと見遣ってから、改めてボクに向き直る。
その瞳の奥には、心配ともつかない光が宿っている気がした。
探り入れてきてるな。
ダイモンは、決して優しいだけの男じゃない。
アレスを通してだけど、何だかんだ長い付き合いだし、何となくボクにだってわかるものはある。
「アレス殿下、本気で怒ってたよ? まあ、あのくらいのことで怒る人じゃないけど、今日はいつになく感情的だったかもね。姫様、何か心当たりないの? ほら、殿下の『大切な何か』を傷つけたとかさ?」
まったくない。
そもそもアレスがボクに傷つけられるタマかよ。
「さあ?心当たりはございませんわ」
ボクは、いつもの完璧な仮面を貼り付けた。
唇に微かな笑みを浮かべ、ダイモンを見据える。
「もし殿下がわたくしに対して誤解されているのでしたら、いずれ明らかになるでしょう。その時を待つだけですわ。それよりもダイモン様、このような騒ぎの中で、あなたは何故殿下のお傍にいらっしゃらなかったのかしら? 護衛としてのお役目はどうなさいましたの?」
いつもの嫌味だ。
だが今はそれが一番楽だった。
考える隙を与えないための防御壁。
ダイモンはそれを熟知しているかのように、苦笑いを浮かべて肩をすくめる。
「いやあ、ちょっとね。姫様の活躍を陰から見守ってたんだよ」
「でしたら今後はもっと目立つ場所で見守っていただける?あなたのような方が隠れていらっしゃると、周囲が余計に騒ぎ立てますから」
「はは、手厳しい。肝に銘じます」
ダイモンはそう言うと、ふと真顔になってボクの顔を覗き込んだ。
「姫、本当に大丈夫?顔色が悪い」
「…あら、嫌ですわ。そんな風に見えまして?少しばかり魔力を使いましたから、そのせいかもしれませんわ」
ボクは小さく息を吸い込み、完璧な淑女の微笑みを取り繕った。
しかし、その目はまだボクの顔色を探るような色を残している。
「姫は、頑張り屋さんだから無茶しちゃうところがあるよね。オレらは若いから無茶できちゃうんだけど、それでも無理してたらいつかは倒れちゃうからさ」
「心配ご無用ですわ。ダイモン様に心配される謂れもございません。大体、人のことをとやかく言える立場ですの?」
ボクはそっぽを向き、
「あなたのその軽薄な態度が周囲の誤解を招いているのですわ」
「軽薄かな?ご令嬢の方々には好評いただいてるんだけど」
「その軽薄さのせいで、あなたが殿下に尽くしていることも、寝る間も惜しんでの勉学で優秀な成績を修めることも、偶然、まぐれなどと呼ばれたりするでしょう。あなた自身も、謙遜のつもりでしょうけど、おっしゃってましたわ。でも、それは偶然でもまぐれでもなく、あなた自身の努力と忍耐と知性でつかみ取ったものなのだから、誤解を正して、胸を張って、己を褒め称えるべきではありませんこと?正しい努力に見合わない間違った報酬は、意欲を削ぎ落とし、中を腐らせますわ」
思わず早口で捲し立ててしまった。
間違ったことは言ってないつもりだけど、ドン引きしたかな、とダイモン伺うと、ダイモンは虚を突かれたように目を見開いていた。
それから、顔の半分を片手で覆い、仄かに赤らみかけた色を覆い隠そうとする。
「えっと、その…姫様、オレのこと、そんな風に考えてくれてたの?」
あー、オレ今滅茶苦茶カッコ悪い、という声に驚きと照れが滲んでいる。
普段の軽口とは違う、柔らかく感じる声音に、なぜかボクは動揺し、不整脈が起きる。
「わ、わたくしは別に思いついたことを述べただけで」
「…うれしい」
ダイモンがボクの方へ半歩踏み出した。
ボクは微かに身体を硬くする。
彼の大きな手が、躊躇いがちにゆっくりとこちらへ伸びてくる。
その手が、白磁のような頬にそっと触れた。
指先が微かに肌に触れただけ。
ほんの一瞬なのに。
電流が走ったように全身が粟立つ。
温かい手の感触。
シャヘルの仮面の下で、息が止まった。
「ご、ごめん!つい…で触ったらダメなんだけど、ほら、さっきのでどこか怪我してないかと思って」
ダイモンは驚いたようにハッと目を見開き、すぐにパッと手を引く。
焦ったように視線を泳がせ、耳まで赤くなっているのが見えた。
普段あれだけ女慣れしているように見えるのに、ダイモンの狼狽えた姿に、ボクは自分の心臓の鼓動の大きさを体感する。
「うわー、まずいまずい。姫の顔に勝手に触っちゃうなんて命知らずもいいとこだ。アレス殿下にバレたら明日の朝日拝めないな」
冗談めかして笑ってみせるが、声は上擦っていた。
ボクは完全に動きを止めていた。
何が起きたのか理解するのに時間がかかって、ダイモンの手の温もりが脳内でぐるぐると回る。
けれど次の瞬間には、シャヘルの完璧な仮面が自動的に作動した。
「わわわわたくしに許可もなく触れるなどっ、宣戦布告と捉えられても文句は言えませんわ!」
完璧って何だったんだよ。
何に対しての宣戦布告?
シャヘルってこんな好戦的じゃないのに!
ダイモンもいつもの調子を取り戻そうと無理やり笑顔を作る。
「いやいや、許して!あ!ほら!鐘が鳴りそうだよ?授業大丈夫?先生怖いぞー!?」
逃げるように視線を逸らし、壁に掛けられた時計を指差す。
確かにもうすぐ午後の授業が始まる時間だ。
シャヘルは深く溜息をつき、くるりと踵を返した。
「ご忠告ありがとう存じます。ですがダイモン様のお手を煩わせる必要はありませんわ。どうぞお先に」
背中越しに拒絶の意思を示す。
これ以上彼と一緒にいると、ボロが出てしまいそうだ。
ダイモンは何か言いたげに口を開きかけたが、結局は何も言わずにボクと違う方向へ歩き始めた。
「じゃあ、またね」
足音だけが静かな廊下に響く。
人気はほとんどないが、遠くの角からは生徒たちの話し声がかすかに聞こえてきた。
廊下を歩き出すと、先程までの騒がしさが嘘のように静まり返っている。窓から差し込む午後の日差しが、埃っぽい廊下を眩しく照らしていた。
ボクはゆっくりと深呼吸をする。
肺に満ちる空気がやけに重く感じられるのは、きっと気のせいだ。
馬鹿の考え休むに似たり。
皇子様の企みや謎の人物『レム』について頭を悩ませても答えが出るはずがない。
問題は山積みだが、この学園での日々を平穏に過ごすためにも、余計な詮索は禁物。
思考を放棄したボクにとって、目の前の現実はただの通過点でしかない。
ただ時間割通りに授業を受け、最低限の礼儀を保ち、夜になればベッドで寝る。
それだけが全て。
「…お昼ご飯、食べそびれちゃったな」
空腹感が急に蘇ってくる。
いつもなら侍女が用意してくれる軽食も、今日は期待できそうにない。
レムという名前は、まるで遠い世界の出来事のように、意識の隅へと追いやられていった。




