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婚約者が外弁慶なボクを殺人犯だと疑ってるんだけど  作者: 御仕舞


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21/22

D-2 . 娘を妻にしよう、ただし毎日五かせの糸紡げ


 視察の日程が進むにつれ、殿下の行動が決まったものになってきた。

午前の公務を終えると昼食もそこそこに抜け出し、必ずあの庭園へ向かう。

毎日欠かさず。オレは影のように付き添い、二人の交流を見守るしかなかった。


 最初の数日はぎこちなかった。

殿下が話題を振っても少女はほとんど応えず、俯いているばかり。

それでも殿下は粘り強く話しかけ続けた。


「今日は暑いね」

「あの花は何色に見える?」

「他国には大きい水たまりでできた海というものがあるんだよ」


 少女の反応は日に日に変わっていった。

ある時は短い返事を返し、またある時は小さく笑みを浮かべた。

水晶の瞳が潤んだり輝いたりするたび、オレの胸は奇妙に揺れた。


 なんていう名前なんだろう?

オレは少女を見ながら思索に耽る。


 ダリア?アリシア?いいや違うね。

レイチェル、ミッチェル。なんだか違う。

ルビー、ローラ。全然違う。


 彼女の名前を呼んでみたい。

名前を呼んだら、オレに振り向いてくれるだろうか。

知らない人間だと怯えるだけだろうか。


 少女の名前を知りたかったけど、二人とも決して名乗らず、ただ『君』『あなた』と呼び合うだけだった。

まるで秘密の逢瀬を重ねる恋人同士のように。









 視察最終日。

別れの時が迫っていた。


「アレス殿下!もう出発の準備ができております!」


 視察隊のお偉方の声が響く中、殿下は躊躇うことなく、


「あと少し時間をくれ!」


 と叫んで庭園へ走り出した。

オレは慌てて後を追う。

侍従たちの制止の声も聞かず、殿下は全力で石畳の通路を駆け抜けていく。

それは帝国にいた時の大人びた王子からは想像できないほど、年相応の姿だった。


 侍従たちが追いかけてきたため、焦ったのだろう、角を曲がった瞬間、殿下は石畳の凹凸に足を取られて転倒していた。

右足首が不自然な方向に曲がり、ズボンに赤い染みが広がる。


「くっ…!」


 殿下は唇を噛み締めたが、すぐに立ち上がろうとする。


「あいつに会わないと…」

「殿下!無理をしないでください!」


 オレが駆け寄ると殿下は首を横に振った。


「大丈夫だ、歩ける」


 その頑なな表情には幼さゆえの頑固さと同時に、切実な恋慕が滲んでいた。

オレはそれ以上声をかけることができなくなった。

殿下は、足を小さく引きずりながらも、侍従たちに見つからないように、庭園へと急ぐ。







 庭園の隅。

少女は殿下と僅差でやってきた。

木陰で蹲る殿下の姿を見るなり目を見開く。


「大丈夫?怪我してる」


 慌てて駆け寄った少女は、自分のドレスの裾を破いて手当てを始める。

慣れてないのだろう、不器用な手つきだったが、殿下の足元に跪き、丁寧に傷口を拭き始める少女。

その姿に胸が締め付けられる。


「ありがとう。優しいね」

「なんで怪我したの?」


 手当てを終えた少女が小さな声で尋ねると、殿下は少し困ったように空を見上げ、口ごもる。

殿下は、まだ自分の正体を告げていない。

告げたら、面倒なことに少女を巻き込んでしまうのではないかと不安なんだろう。

だから、誤魔化そうとした。


「城壁の上で遊んでたら足を滑らせちゃって」


 清廉潔白で、嘘一つ吐いたことのない、ぎこちない殿下の台詞に、


「本当は?」


 少女の真実を見極めようと、じっと見つめる視線に耐えきれなくなったのか、やがて小さなため息をついた。


「… 人に追いかけられて、転んだんだ」

「怖かったね」


 少女の声は震えていた。

殿下はゆっくりと首を横に振った。


「もう大丈夫だよ。それに君が手当てしてくれたし」


 静かな時間が流れる。

オレは離れた茂みから二人を見守るしかなかった。


(もし俺があの場所にいられたら)


 そんな願望が脳裏を掠めた。

冗談を言って少女を笑わせてみたい。

彼女のどこか薄幸そうな顔が、笑顔で輝くところを見てみたい。

それは、きっと素敵な笑顔だ。


 想像上の少女の笑顔が鮮やかに浮かぶ。

きっと柔らかい声で笑い、瞳がキラキラと輝くはずだ。

帝都に戻ったら冗談のネタを考えておこうか。

なんて、馬鹿げた話だ。

少女に冗談を披露する機会などない。

オレたちは未だに知り合ってすらいないのだから。


 少女が立ち上がり、殿下の肩に手を置く。


「無理しないで」


 殿下は小さく頷き、「ありがとう」と囁いた。

二人の距離が自然と縮まっていく。


 オレは無意識に握り得ていた拳の硬さに気づく。

胸の中で渦巻くものの正体に名前をつけたくない。


(主君の恋路を邪魔する騎士などいない)


 理性が感情を押さえ込む。


「じゃあもう行くよ」


 殿下が立ち上がりながら言う。

少女は悲しそうに頷いた。


「うん」


 名残惜しそうな沈黙が続く。


「また会えるよね」


 殿下の問いに少女は答えなかった。

ただ静かに微笑み、頷くだけだった。








 それぞれの胸に秘めた想いと共に、秋がやって来る。

頻繁に視察しようとする殿下に、陛下は事情を知っているようであったが、黙認されていた。

その秋の日は、特に印象深い情景だった。


 舞い散る落葉が庭園を金色に染め上げる中、アレス殿下とあの少女は肩を寄せ合うように座っていた。

枯葉が風に舞い、二人の周りをくるくると踊る。

夕陽が大理石の床に長い影を落とし、まるで世界が二人のために特別な舞台を設えたかのようだった。


「私ね」


 少女の声が微かに空気を揺らす。


「レムっていうの」


 その瞬間、心臓が激しく跳ねた。

初めて聞く少女の名前。

その響きさえ甘美に感じる。

殿下は驚いたように少女を見つめ、長い睫毛が夕陽に透けて宝石のように輝いているのが見えた。


「魔力も弱くて、みんな私のこと役立たずだって言うの」


 震える声。

握りしめた白い拳。

オレは茂みの中で息を詰めた。


「本当はこのお城にもいちゃいけないんだけど」


 レムの目尻から涙が溢れそうになっている。

押し殺してきた辛さが堰を切ったように。


「でも、でもね!」


 突然レムが顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになりながらも必死に笑顔を作った。


「あなたが初めて。私に優しくしてくれたの。ありがとう」


 そして差し出したハンカチ。

拙いながらも丁寧に施された花柄の刺繍。

夜な夜な針仕事をしたのだろうか?

アレス殿下の頬が真っ赤に染まる。


「僕こそ!」


 ハンカチを受け取り、胸に抱きしめる。

そして突然、殿下がレムの瞳を真剣に見つめた。


「大切にする」


 小さな手をそっと取る。

まだ幼いが、その握る力には揺るぎない決意が満ちていた。


「レム」


 殿下が地面に片膝をつき、まるで物語の王子のように恭しく手を差し伸べた。

殿下の耳が一瞬赤くなるのをオレは見逃さなかった。


「僕はダイモンというんだ」


 オレの名前…? 

殿下の言葉に、オレは思わず息を呑んだ。

事情はわかる。

身分を明かさないために偽名を使ったのだろうが、よりによってオレの名を…。


「ダイモン?」


 レムが不思議そうに首を傾げる。

水晶の瞳が夕陽を映してキラキラと輝く。

まるで宝石のような純粋さだった。


「帝国の人なの?」

「ああ」


 殿下は平静を装いながら頷いた。

その嘘に胸が締め付けられる。

忠誠を誓う主君がオレの名を使って自己紹介しているという奇妙な現実。

しかも彼女は真摯にその言葉を受け止めている。


 自分の中に奇妙な痙攣を感じた。

腹の奥が熱くなる一方で、喉元が氷のように冷える感覚。

茂みの陰で固く握った拳に、爪が食い込んでいるのに気づかない。


「ダイモンでいいよ」


 殿下が微笑み、レムの顔がパッと明るくなった。

その刹那、心の奥底で何かが崩れたような感覚がした。

忠誠と欲望の狭間で揺れる感情。

主君が使った偽名が、まるで運命の悪戯のように思えた。


 もし本当にオレが『ダイモン』として彼女の前に現れたら…?


 レムは嬉しそうに何度も、ダイモンと呼んだ。

その無垢な声色に、罪悪感と喜びが入り混じる。

殿下がこの先ずっとオレの名を使うのかと思うと複雑だが、彼女の口から自分の名が出るたびに胸が熱くなるのも確かだった。


 夕暮れの庭園で交わされる二人の会話は、儚い夢のようだった。

落葉が舞い散る中で行われる秘密の、ダイモンという偽りの名のもとに育まれる恋心。


「ねぇレム。これからもずっと一緒にいようね」

「うん!」







 

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