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婚約者が外弁慶なボクを殺人犯だと疑ってるんだけど  作者: 御仕舞


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20/22

D-1 . 一人の女が言ったのさ、うちの娘は一日五かせの糸紡ぐ


 物心ついたときにはすでに剣を握っていた。

父の手は岩のように硬く、オレの小さな手に模造刀を握らせた。

「王国のために生きろ」というのが父の唯一の教訓だった。

母はいつも遠くからオレを見つめていた。

その眼差しは愛情でも嫌悪でもなく、憎悪だった。


 王国北東の辺境伯である父は、代々王家への絶対的忠誠を誇りとしてきた。

アレス殿下が幼いころから遊び相手となり、剣の指南役となり、時には盾となった。

父は自らの息子ではなく、王家の長子に全てを捧げていた。


 母は違った。


「あの王妃がいなければ」


 酒を飲むたびに泣いた。

どうやら若い頃に母は国王の婚約者候補だったらしい。

だが最終的に選ばれたのは別の女性で、現在の王妃だ。

屈辱と怒りを抱えたまま母は辺境に下げ渡されたのだと言う。

王妃候補として育てられたプライドが粉々に砕けたまま。


 父はオレを『騎士団の一員』として育てた。

家族として接した記憶はない。

朝の稽古で剣を叩き折られても、


「訓練不足だ」


 母はそれを見て嘲笑するだけ。






 6歳の誕生日の翌朝、オレは粗末な馬車に乗せられた。


「アレス殿下の護衛候補として王宮へ」


 と告げられた時、父は初めてオレの肩に手を置いた。

だがそれは祝福ではない。


「騎士団の名誉のために努力を怠るな」


 母は泣いていたが、


「やっと解放される」


という安堵の涙だったことは幼心にも理解できた。


 王都に到着するとすぐに騎士団宿舎へ案内された。

子供用とはいえ鎧を支給され、ベッドには簡素な藁布団。

食事は大人の騎士と同じ粗食。

世話係は何人かいたが皆任務上の義務で動く者ばかりで、友達は愚か、話し相手すら見つからない日々が始まった。






 初めてアレス殿下と対面した日を覚えている。

豪奢な謁見室でオレは膝をつき、頭を垂れた。

足音が近づき、小さな靴が視界に入る。


「お前が今日から俺の騎士か」


 その声は幼いのに威厳があり、驚くほど落ち着いていた。

顔を上げると翠玉の瞳がオレを値踏みするように見つめていた。

赤髪は炎のように輝き、白い肌には傷ひとつなかった。

同じ年齢のはずなのに、オレは自分をみすぼらしく思えた。


「名は何と言う」

「ダイモンと申します。アレス殿下」

「ダイモンか」


 殿下は僅かに口元を緩めた。


「お前は私を守るためにここに来たそうだな。ならば、俺の命令には絶対服従しろ」


 幼いながらも王者の風格に圧倒された。







 殿下は天才だった。

7歳にして既に高等数学を理解し、剣術ではオレに競り合うほどの技量を示した。

性格は強情だが純粋で、使用人に対しても傲慢な態度を見せることはなかった。

誰に対しても公正だった。


 だからこそ、この人に仕えられることを幸せと思え、と自分に言い聞かせた。

しかし毎晩枕元で疼く鬱屈した思いを鎮める方法が見つからなかった。

なぜオレだけが?

なぜ、愛されない?


 アレス殿下は時折我儘だった。

そしてそれが原因で教育係に叱責されることがあると、必ずと言っていいほどオレが代理で罰を受けた。







 初めて鞭で打たれたのは7歳の夏。

殿下が教師に反論して授業を中断させた際だった。


「無礼な口答えをした罰だ!」


年老いた教育係は容赦なくオレの背に革製の鞭を振り下ろした。


「ぐっ…!」


 皮膚が裂ける痛み。

血の匂い。

屈辱と怒りが入り混じった感情で視界が赤く染まった。

その時初めて理解した。

これが、騎士の務めという名の拷問なのか。

 後ろで殿下が慌てた声を上げるのが聞こえた。


「待て!それは俺の…!」

「殿下の代理はこの者です。殿下への罰を代行するのが彼の役目です」


 教育係の言葉に殿下は絶句していた。

悔しさと自責の念に苛まれるような表情で。

オレは歯を食いしばって耐えた。

次期皇帝を守れたのだから誇りにさえ思えた。


 以降も何度か似たような事態はあった。

王宮暮らしは冷徹な修行の場だった。

だが辛いことばかりではなかった。

定期的に父が面会に来ると、


「よくやっている」


と褒められた。

そして必ず


「アレス殿下のお役に立てるよう鍛錬を怠るな」


と釘を刺された。


 母は一度も訪れなかった。







 8歳の頃のことだ。

カナン国への視察は唐突に命じられた。


「カナンの統治状況を視察せよ」


 皇帝陛下の指示は簡潔だった。

アレス殿下も若干8歳。

幼すぎると反対する声もあったが、


「皇太子たるもの早いうちから現場を知るべき」


という陛下の鶴の一声で決定した。


 カナン王国は奇妙な土地だった。

数百年前に帝国に併合されたはずなのに、自治権という名目で独自の文化や政治機構を維持していた。

首都アルマは城壁都市でありながら独特の建築様式を持つ。

建物はみな淡い青や緑で彩られ、空気には異国の花の香りが混ざっていた。


 視察初日は無事に終わった。

宮殿で高官たちの報告を聞き、市場や工房を見学した。

すべてが整然としており、表面的には問題はないように見えた。


 だが二日目の午後、予想外の出来事が起きた。


「少し休憩したい」


 アレス殿下が珍しく弱音を吐いた。

一日中歩き回って疲れたのか、あるいは見知らぬ土地での緊張が限界に達したのか。

どちらにせよ珍しいことだった。


「殿下、あと一時間で帰路につきますので」


 宰相が諭すと、殿下は突然言い放った。


「庭園を見たい」


 カナン王宮の庭園は広大で有名だった。

殿下は執拗に要求し、ついには休憩が認められた。


「ですが警備のため、最低限の人員は配置させていただきます」


 宰相が条件を付け加えると、殿下は意外な提案をした。


「いや。少しの間だけ一人にしてほしい」


 一同が驚愕する中、殿下は毅然と続けた。


「俺の護衛は優秀だ。見えないところから警護してくれるだろう」


 全員の視線がオレに集中した。

言外の意味を悟る。

仕事が始まれば、オレが子どもだとかは関係ない。

頼りないだろうが、庭園の周りは他の警護たちが固め、出入りを厳しく制限するだろうし、カナン王宮で何かがあるとは思えなかった。


「承知しました」


 だからこそ、宰相が折れた。

宰相の視線が再びオレに向けられる。


「彼のみ、常に視界に入らぬ位置で警護を」


 こうしてオレは庭園の陰に潜むことになった。

花々の茂みに身を隠し、殿下の姿を追う。

庭園は広大で様々な木々や花が植えられており、身を隠す場所には事欠かなかった。


 アレス殿下は独りで、庭園を歩いていった。

小さな背中が大理石の通路を行く。

黄金の陽光が彼の赤髪を煌めかせる。

いつも毅然としている殿下が今日はどこか寂しげに見えた。


 政略の道具として使われて、疲れているのだろう。

同情とも憤りともつかない感情が胸を締め付ける。

8歳の少年が次期皇帝としての責務を課される光景は見るに耐えないものがあった。


 突然、殿下の足が止まった。


 何かを見つけたのか?

オレは茂みから注意深く様子を伺う。


 そこには、小さな人影があった。

殿下よりやや小さい少女だ。

珍しい銀色の長い髪は風に揺れ、華奢な体が震えている。

灰色のドレスは汚れていたが、品自体は高価なもののように見えた。


 泣いているのか?

オレの観察眼が研ぎ澄まされる。

少女の肩が小刻みに震え、嗚咽のような声が漏れている。

なぜこんなところで?


「…どうしたの?」


 アレス殿下の声が少女にかけられた。

普段の威厳ある声色ではない。

どこか遠慮がちで困惑したような声だ。


 少女は弾かれたように顔を上げた。

目が赤く腫れている。

燃えるような炎の色をした赤い髪を持つ殿下の姿に驚いた様子だ。

動きやすいように、と王族としては簡素な服を着てはいたが、威厳までは隠しきれない。


「 なんで泣いてるの?」


 殿下の問いかけに少女は怯えたように後ずさった。

逃げ出しそうになる。


「ご、ごめんなさいごめんなさい」


 殿下はきょとんとした顔で首を傾げた。

少女の謝罪は予想外だった。


「ごめんって何が? 泣いてたのを見て声かけただけだよ」


 殿下は一歩近づき、噴水の縁石に腰を下ろした。

二人の間にはまだ微妙な距離がある。


「だって…」


 少女は俯いたまま、ドレスの裾をぎゅっと握りしめた。


「勝手に泣いてたから、ごめんなさい」


 勝手に泣いたから謝る?

その言葉にオレは眉を顰めた。


「怒ってないよ」


 アレス殿下は静かに言った。

普段の凛とした声ではなく、どこか優しい響きがあった。

そして、少女を安心させるように、笑ってみせた。


「君が泣いてるのが心配だったから聞いたんだ」


 少女の肩がピクリと震えた。

しかし、おかしい。

泣いている子供に声をかけるのは普通のことだが、あの怯え方に、勝手に泣いたから謝るという異常な発言。

何か、問題を抱えているんじゃないだろうか。


 オレは幼いながらも、彼女の背景を勝手に心配し、彼女を慰めたい、解決してやりたいという思いに駆られ、二人の間に飛び出さないようにするのを必死に堪えた。


「どうして泣いてたんだ?」


 殿下が核心に迫る質問を投げかけた。

庭園の芝生が夕日に染まり、橙色の光が二人を包み込む。

殿下は少女に優しく声をかけ、名前を明かさなかったが、ドレスから見て、貴族か王族の子どもだと推測できた。


「言いたくない?」


 質問されても答えにくいのか、怯えたように震えて答えない。


「泣くのは自由だよ」


 殿下の言葉に少女は驚いたように顔を上げた。


「でも…勝手に泣いたら怒られるわ」

「誰が怒るの?」


 殿下の声は優しさを増した。

少女は唇を噛んだ。


「みんな…」


 沈黙が落ちた。

大理石の噴水の水音だけが涼やかに響く。

遠くから眺めるオレは、自分の息を殺して二人を見守った。

アレス殿下は不思議そうに首を傾げた。


「少なくとも、その皆に俺は入ってない」


 少女は俯いた。

二人の間に奇妙な空気が流れた。

殿下は、少女を怒る人間がいることを、それ以上追及はしなかった。

代わりに別の質問を投げかけた。


「何が悲しかった?」


 少女の肩が震えた。

ドレスの袖をさらに強く握りしめ、顔を覆うように俯いた。


「もし何かあってもなくても、泣いてもいいと思う」


 その言葉に少女の全身が固まった。

まるで雷に打たれたように。

風が吹いた。

少女の銀色の髪が花のように揺れ、瞳から再び涙が溢れた。


 その時の少女の表情。

そこに存在しているはずなのに、風の前に佇む小さな花のように、どこか官能的にさえ見える儚さ。

オレの胸に奇妙な感情が湧き上がった。


 認めたくない本音が心の底から這い出てくる。

幼い二人の交流が芸術作品のように完璧に見えた。

カナン国の不思議な空気感も相まって、ここだけ時間が止まったような気すらした。


 慌てて自分を律する。

今は警備任務中だ。


 だが視線を逸らせない。

二人は夕陽に照らされ、まさに絵画にもなりそうな光景を、オレはただ遠くからぼうっと見るしかなかった。


 その時、殿下はおもむろに立ち上がると、傍らに咲いていた薔薇を一本摘んだ。

棘を丁寧に取り除くと、少女に差し出す。


「あげるよ」

「え…」


 オレの頭が一瞬混乱した。

あの薔薇は王家の紋章入りじゃないか!


 カナン王国の庭園の薔薇は特別なものだ。

枝には王家の紋章が彫刻された金属製の札が付けられている。

それを知らずに摘んだのか、それとも、だとしたら、代理で罰を受けるのはオレだと分かっていて…?


 棘を丁寧に取り除くと、殿下は少女に差し出した。

少女は呆気に取られ、白い頬が夕陽に照らされて薄紅色に染まる。

殿下は構わず微笑んだ。


「これで元気出して」

「で、でも」

「大丈夫。ここには俺たちしかいない」


 殿下は屈託なく笑った。

少女は俯き、長い銀髪が顔を覆う。

震える手が薔薇を受け取る。


「ありがとう」


 小さな声だったが確かに聞こえた。

少女が薔薇の香りを嗅ぐと、僅かに表情が和らいだ。

水晶の瞳にわずかな安堵の色が灯る。


「君の髪色にぴったりだと思うよ」


 殿下が言うと少女は驚いたように顔を上げた。

その言葉に少女の頬が更に紅潮した。

オレは思わず見入ってしまった。


「…私の髪、変じゃない?」


 殿下は首を傾げた。


「変じゃないよ。とても綺麗だ」


 胸の奥で何かが軋んだ。

アレス殿下は、オレが忠誠を誓い、命を捧げるべき相手で、優秀で、若くして帝王学を身につけ、民への配慮も忘れない理想の皇子で…。


 だけど。

 だけど?


 両親からの愛情も、子供らしい自由も、将来を選ぶ権利も、全て殿下に捧げられた。

オレは殿下の影となり、盾となるために生まれてきたと言われ続けてきた。


 そこにオレの意思はあったか?

そうなるように、父に認められたくて、振り向いてほしかったから、そうしただけで、これはオレの意思だろうか。


 絶対服従を近い、初めて心を動かされたかもしれない相手を遠くから見ることしかできない。

主君に奪われる予感が胸を締め付ける。


 歯を食いしばった。

こんな感情を持ち続けるわけにはいかない。

オレの意思で、こんな感情は留めなければならないのに、一方で別の考えがオレを誘惑しようとする。


 果たしてどちらがオレの意思で、望みなのか。

気付いてはいけない。


 オレは、何も失いたくないのだから。


「…嬉しい」


 恥ずかしそうに視線を泳がせる様子がいじらしくて…オレの胸に一滴の黒いものが落ちる。

濁りのない透明な泉に墨汁を垂らしたような。

忠誠と義務の中に埋もれてきたはずの個人的感情が鎌首をもたげる。


「ありがとう」


 少女の声が震えている。

夕陽に照らされたその横顔の儚さに、胸が疼いて仕方なかった。





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