16 . ハッピーエンドで永遠の愛を誓う
月明かりが射す一室で、シャヘルは膝に乗せた小動物のように縮こまっていた。
紫色の髪がランプの灯りを受けてきらめいている。
「ねえ、ダイモン」
小さな声で呼びかけるシャヘルの目は潤んでいた。
「…わたしのこと、怖くないの?」
その問いは切実だった。
『悪魔』と罵られることに慣れ、血族魔法で周囲を脅していたシャヘルの口から出るにはあまりに弱々しい。
ダイモンは彼女の傍らに膝をつき、大きな掌でシャヘルの頬を優しく包んだ。
「怖くなんかないよ。姫様」
彼はまるで小さな子どもに説くように語り始めた。
「姫様は忘れちゃってるかもしれないけどね。10年以上前に城の庭園で会ったのを覚えてる?」
シャヘルの紫水晶の瞳がぱちぱちと瞬く。
ダイモンはすべて分かっているというように微笑んでいる。
「…覚えてない」
シャヘルは俯きながら呟いた。
その声には悔しさよりも諦めが滲んでいる。
「そりゃそうですよ」
ダイモンは大きく笑い飛ばした。
「だって姫様が幼かった頃の話だからね。でも」
彼は真剣な眼差しでシャヘルを見つめ直した。
「オレはずっと覚えてる。あの約束を」
シャヘルの指が無意識にドレスの裾を弄ぶ。
「わたし、ある時期から過去の記憶があやふやなの。昔のことがうまく思い出せなくて。もしかしたらそれが…」
シャヘルは自嘲気味に笑みを浮かべる。
「わたしが『悪魔』になったきっかけなのかも」
ダイモンは何も言わずにシャヘルの小さな手を両手で包み込んだ。
硬くて無骨な掌が、壊れやすい宝物を扱うように優しく触れる。
「姫のどこが悪魔なの?」
ダイモンの声は柔らかかった。
まるで拗ねた子どもを慰めるような優しさがあった。
シャヘルは微かに震える息を吐いた。
「だって…」
「だって?」
「人に関心がなくて」
彼女は自分の爪を見つめながら呟く。
「人を人と感じられなくて」
その言葉には深い孤独が滲んでいる。
「利用しても心が痛まないし」
さらに小さくなった声で続ける。
「代償があるのに血族魔法を使うのに躊躇いがない」
ダイモンは大きく首を振った。
「悪魔なんかじゃないよ。悪魔だったのは、姫の周りにいた奴らの方だ」
シャヘルが驚いて顔を上げると、ダイモンの瞳は炎のように燃えていた。
「幼い子供に酷い仕打ちをしてきた。嫌がらせや暴力はもちろん、命さえ軽んじてきた連中こそが悪魔だった」
彼は拳を握り締めた。
「だから姫が周囲に関心を持てず、時に冷酷な判断を下すのは当然の反応だよ」
ダイモンの熱い眼差しがシャヘルを貫いた。
「人間として当たり前だ。姫は傷ついただけなんだから」
「…そう、かな?でも…」
シャヘルは縋り付くような目でダイモンを見つめながらも、細い肩が小刻みに震えている。
嫌われるのが怖いのに、ダイモンに今までの全てを告白したくて堪らなくなったから。
「聞こえるの、いつも」
「聞こえる?」
ダイモンは慎重に問い返した。
シャヘルは頭を抱えるようにして俯いた。
紫水晶の瞳が暗く濁る。
「…たくさんの人の声」
彼女の声は風にかき消されそうなほど細かった。
「カナン王国の過去の王族たちの声なの。血族魔法の生贄にされて怨みを持った人たちの声。その人たちが」
シャヘルは声を詰まらせた。
「わたしに王女であれと。そうじゃなきゃ生きてる価値がない。もっと優雅に、もっと尊大に、もっと冷酷に。王女とは王族とは。こ、こんなわたしじゃ無理だよって、ボクは許されない、やっぱり生きてちゃいけないんだよ」
ドレスの布地をぎゅっと掴んでも、紫水晶の瞳から透明な涙がこぼれ落ちる。
滴は夜明け前の宝石のように静かに頬を滑り落ちた。
ダイモンは優しくシャヘルの濡れた頬を拭うと、ゆっくりと語り始めた。
「姫、その声たちは」
彼の翠玉の瞳が静かな湖面のように揺らめく。
「もはやこの世界に存在していない亡霊だよ」
シャヘルは目を見開いた。
「亡霊…?」
「そう。亡霊」
ダイモンは頷いた。
その大きな掌が彼女の小さな手を優しく包む。
「生きていない過去の怨念が姫を縛ろうとしているだけなんだ」
シャヘルは唇を震わせた。
「でも」
「だからこそ危険だね」
ダイモンの声が少し強くなる。
「姫の心がその亡霊たちに囚われてはいけない」
彼は真剣な眼差しでシャヘルの瞳を覗き込んだ。
「聞いて」
ダイモンは自分の胸にシャヘルの手を導いた。
厚い胸板を通して聞こえる力強い鼓動。
「ここにいるのは生きた人間」
ダイモンはシャヘルの両手を自分の胸から引き剥がすと、今度は彼女の細い胸に押し当てた。
「あなたも生きた人間だ」
シャヘルは自分の鼓動を確かめるように目を閉じた。
速いリズムが彼女の手のひらに伝わってくる。
「姫」
ダイモンは膝をついて彼女の顔を正面から見上げた。
「亡霊たちは姫の中に住むことはできない。なぜならあなたにはもっと美しいものが住んでいるから」
彼の瞳が星のように煌めく。
彼の声が夜の静寂を貫く。
「でも…血族魔法の使い手の魂は歪んでいるんだよ」
彼女は自分の胸に手を当てた。
そこにあるのは鼓動ではなく、もっと重く淀んだ何か。
「どんなに祈っても死後は地獄へ行くしかない」
ダイモンは微動だにしなかった。
月光が彼の横顔を照らし、鉄のような輪郭を浮かび上がらせる。
「だったら」
その声は夜霧のように澄んでいた。
「地獄までお供する」
シャヘルは息を呑んだ。
目の前の騎士は揺らがなかった。
「オレの魂も歪ませてくれ」
ダイモンの拳が静かに握りしめられた。
「姫のためなら地獄の業火も甘美なものさ」
シャヘルの紫水晶の瞳が動揺に揺れる。
「…ダイモン」
その名を呼ぶ声は震えていた。
沈黙が降りた。
シャヘルの額に冷たい汗が浮かび上がる。
【血族魔法第一階位】
頭の奥で誰もが喚いた。
「やだ…」
シャヘルは喘ぐように呟く。
ダイモンはゆっくりと首を振った。
「姫、大丈夫。オレが道連れになる」
シャヘルの全身が震える。
紫色の髪が広がり、ドレスの裾が床を叩く。
部屋全体が不吉な振動に包まれた。
窓ガラスが悲鳴を上げる。
脳内で文字が踊る。
選ばれし者が他者の犠牲を請う儀式。
受け入れれば互いの魂は永遠に絡み合い、共に地獄へ墜ちる。
「嫌!」
シャヘルは自分の胸を押さえた。
心臓が狂ったように脈打つ。
「ダイモンを地獄に落とすなんて!」
ダイモンの大きな手がシャヘルの小さな拳を包み込んだ。
「それがオレの願いだ」
シャヘルの呼吸が止まった。
この男の瞳に偽りはない。
いやむしろ、願っている。
認識が脳髄を焼く。
目の前にいるのは狂信者の顔だった。
彼は本当に求めているのだ、地獄への同伴を。
だけどシャヘルは嫌だった。
だって世界で誰よりも何よりもダイモンを愛しているから!!
誰が愛しい人を地獄に落としたいと願う?!
「やめて!お願い!」
なんで?!
ダイモンはカナン国民じゃないのに!
(それはシャヘル女王にも言えたこと。初代女王は、異世界人だから本来はカナンの呪いは効かなかったのに、結婚し、縁付いてしまった)
(だからしょうがないんだよ)
(呪いは広がるものだから)
「誓うよ。オレの魂は永遠に姫と共にあると」
シャヘルの脳内で何かが弾けた。
頭蓋骨の内側で砕け散るような衝撃。
物理的な重量を持って降り注ぐ。
シャヘルは頭を抱え込んで座り込んだ。
ダイモンの手が彼女の肩を掴む。
熱い掌の感触が死の烙印のように感じられる。
「姫」
背筋が凍った。
ダイモンの唇が動き始める。
その先の言葉を想像するだけで、
「さあ、血族魔法を使ってくれ」
シャヘルの世界は闇に堕ちた。
…嬉しい?
背筋を電流が駆け抜ける。
恐怖と快感が混ざった未知の感触が体内を巡る。
シャヘルは唇を噛みしめた。
血の味が広がる。
喜びを拒否しようと必死に抗う。
地獄行きを求める男への憐れみが心を貫く。
なのに。
地獄でも一緒にいられる。
その考えが甘い蜜のように染み渡っていく。
冷たい墓場で独り朽ちる恐怖より、灼熱の業火に抱かれて彼と寄り添う未来の方が温かいと錯覚してしまう。
「ダメ…」
声が裏返った。
喉がヒリヒリ痛む。
シャヘルは自分の肩を掴むダイモンの手を振り払おうとした。
しかし鋼鉄のような力は微動だにしない。
「何故?」
ダイモンの声は水面のように静かだった。
「姫が望むなら」
「望まない!」
シャヘルは絶叫した。
紫水晶の瞳が炎のように燃える。
「貴方を道連れになんて絶対に!」
ダイモンはゆっくりと彼女の前に跪いた。
まるで最期の祈りを捧げる修道士のように。
月光がその顔に銀色の影を落とす。
「でも」
彼は優しく微笑んだ。
「嬉しいでしょう?」
シャヘルの全身が硬直した。
衝撃が稲妻のように走る。
「違う…」
声がかすれた。
否定の言葉は砂のように虚ろだった。
「違うってば!」
ダイモンの親指が彼女の震える頬に触れた。
乾いた皮膚の感触が現実を突きつける。
ダイモンは決然と頷いた。
その瞳に迷いはなかった。
彼はシャヘルの手を取り、自らの胸に導いた。
熱い鼓動が皮膚を通して伝わってくる。
シャヘルの世界が音を立てて砕けた。
視界が血のように赤く染まる。
喉の奥から灼熱の塊がせり上がる。
もう、どうにもならない。
「お願い…」
それは懇願ではなく、諦めに似た呪詛。
「わたしと一緒に地獄へ行って」
言葉が空気を切り裂いた。
部屋全体が突然真空に包まれたような静寂。
蝋燭の火が不規則に点滅し始める。
ダイモンはただ静かに頷いた。
月光が彼の輪郭を切り取り、影絵のように動かない。
シャヘルは自分の手の平を見つめた。そこには何もなかった。
だけど。
血管の中を赤黒い液体が逆流していく幻影。
命の糸が絡まり、解けない結び目を作る様が網膜に焼き付く。
彼女は立ち上がった。
ドレスの裾が風もないのに翻る。
「【殉難の使命】」
シャヘルの声が室内に響く。
紫水晶の瞳が血のような深紅に染まり始める。
ダイモンはただ静かに跪いたまま。
《契約者確認》
《監査役により痕跡を感知しました》
《契約書を発動します》
シャヘルの指先が蛇のように蠢いた。
爪が鋭利に尖り、月光を受けて白く光る。
『血の盟約を交わし』
『誓いを立てよ』
その声は女王の勅令のようでありながら、泣きじゃくる幼女の嘆願のようでもあった。
ダイモンは迷わず自身の指を噛み切り、痛ましい傷口からは液体が滴り落ちる。
「姫」
彼の声が闇を切り裂く。
『我が血と魂を汝が血をもって』
二人の視線が交錯した。
翡翠と紫水晶の瞳が磁石のように引かれ合う。
『契約を履行する』
次の瞬間、シャヘルの鋭い爪が自らの指を切り裂き、ダイモンの傷口へ触れ合う。
シャヘルが恍惚としたため息を漏らした。
熱い血が肌を伝う感触。
生命の奔流が皮膚の毛穴を通じて浸透していく。
ダイモンの両手が伸びた。
大きな掌がシャヘルの頬を包み込む。
温かい血と冷たい肌が溶け合う。
《契約を受諾しました》
突如として部屋の温度が急上昇した。
燃え盛る炎の中のように空気が渦巻き、壁紙が焦げ付く匂いが立ち込め始める。
床には真紅の血溜まりが広がり、まるで古代の祭壇のように光沢を放つ。
シャヘルの額に汗が滲んだ。
痛みではなく、陶酔感が全身を駆け巡る。
これは、祝福だった。
愛する者との魂の結合。
地獄への招待状を共に受け取る悦び。
ダイモンの翠玉の瞳が妖しく輝いた。
傷口から溢れる血が宝石のように煌めく。
「姫」
その呼びかけだけでシャヘルの膝が震えた。
恐怖ではなく期待で。
「地獄でも、ずっと一緒だよ」
もう、絶対に離さない。
「喜んで」
血液が混ざり、化学反応を起こすように煙が立ち上る。
紫と赤の粒子が螺旋を描きながら天井へと昇っていく。
突如として室内が真空になったかのように静寂が訪れた。
蝋燭の火が完全に消え、完全なる闇が支配する。
「聞こえる?」
シャヘルの声が闇に溶ける。
「契約の声が」
「ああ」
ダイモンの声が応える。
二人の肉体が淡い光を放ち始めた。
互いの血液が共鳴するように脈打つ。
鼓動と鼓動が重なり合い、一つの大きな心音となって部屋中に響き渡る。
シャヘルは目を閉じた。
瞼の裏に灼熱の地獄の情景が浮かび上がる。
煉獄の炎に抱かれて永劫の時を過ごす光景。
本来なら恐怖でしかないはずの光景が、彼女の唇から笑みが零れた。
それは喜びと悲しみが混ざり合った奇妙な表情。
ダイモンも同じ笑みを浮かべていた。
血と汗に塗れた顔に安堵の色が広がる。
「姫」
ダイモンの掌が優しく彼女の髪を梳いた。
「ダイモン」
二人の名を呼び合う声が甘美な調べとなって空間を満たす。
血の香りが官能的に漂い、媚薬のように二人を酔わせる。
光が徐々に収束し始めた。
最後の輝きが二人の結合部分に集まっていき、小さな炎となって静かに燃え尽きた。
「できた」
シャヘルの囁き声。
それは勝利の宣言ではなく、祈りのように儚かった。
ダイモンはただ静かに頷いた。
彼の傷は痕跡すら残さずに消え去っている。
代わりに二人の左手首には不思議な紋章が浮かび上がっていた。
複雑な文様は絡み合う二人の運命を象徴するかのように絡み合い、時折脈動するように淡く輝いている。
シャヘルはその紋章を愛おしそうに撫でた。
冷たい感触と熱い血液の流れが奇妙に共存している。
彼女の声は震えていた。
悲しみではなく感動で。
ダイモンの親指がその紋章を優しく辿った。
この契約は祝福であり呪いでもあった。
自由を失う代わりに永遠の絆を得たのだ。
二人は長い間見つめ合った。
瞳が静かな海のように穏やかに揺れている。
死を共有する者同士の確かな繋がりがそこにはあった。
「眠ろう」
ダイモンが静かに言った。
疲労感が二人の間に重く垂れ込める。
「明日からは新しい人生が始まる」
シャヘルは小さく頷いた。
寝台に向かう彼女の足取りは覚束なかった。
血を失ったせいもあるが、それ以上に魂の半分を交換した衝撃が大きい。
寝台に横たわった二人は自然と互いを求め合うように寄り添った。
ダイモンの腕がシャヘルの肩を包み込み、彼女の頭が彼の胸に収まった。




