10年前の王宮庭園にて・3
ダイモンが来ない日が続いた。
いつものように噴水のほとりで待つレムの胸に不安が募る。
足を引きずる少年の姿が脳裏をよぎる。
まさか、あの時の人たちに…?
来なくなって三日目の夕暮れ。
レムが重い足取りで宮殿に戻ると、「玉座の間へ」と侍女から伝えられた。
その声は硬く、拒否できない威圧感を帯びている。
玉座の間。
そこは王家にとって最も神聖な場所であり、レムにとって最も忌むべき場所だった。
自分の存在そのものが王の怒りを買う場所だからだ。
巨大な扉が重々しく開かれると、謁見の間は冷たい空気に包まれていた。
高慢な笑みを浮かべた側室たちが座り、その中心には母上が立っていた。
母上の顔は蒼白で、目には深い憎悪と屈辱の色が宿っている。
「レム、穢らわしい子」
母上の声はかすれていた。
「今日、陛下より勅令が出たわ。魔力量測定の結果、あなたは『非認定』となった」
周囲の貴婦人たちが嘲るように囁き合う。
「やはりあの子は…」
「王家の汚点よ」
レムは俯いた。
魔力量測定は国家儀式だ。
しかし非認定となる貴族の子は稀で、それは『不足』『欠乏』という分類される。
そして、貴族としての生命を絶たれることを意味している。
「魔力不足。これがあなたの公式記録」
母上の声が玉座の間に響き渡る。
「陛下は激怒しておられるわ。王家の血筋に非認定者がいると知られれば、その愚かな頭でも理解できるわよね」
側室たちが高笑いする。
「まさか捨て子扱いになるんじゃないかしら?」
「いや、逆賊扱いかもしれませんよ」
「もう顔も見たくない」
母上の声が震えていた。
「あなたのような子を産んでから私がどれほどの地獄を見たか…」
「母上…もうしわけ」
「謝るな!お前のせいで私がどんな目に遭ったか!」
つかつかとレムに近づいたかと思うと、母上の平手打ちが飛んだ。
「悪魔!全てお前のせいだ!」
床に倒れたレムの髪を掴み、何度も何度も執拗に手をあげる。
無様な姿を笑いこそすれ、止める者などいない。
レムに味方はいない。
「早く消えろ!二度と私の前に姿を見せるな!」
引き摺られるように、追い出され、扉が閉められる。
廊下にうつ伏せになったまま、痛みに震えることしかできない。
ふと指輪が光っていることに気づく。
王家伝統の指輪で、血族の者は生まれた時から装着を義務付けられる。
しかし非認定となった今、これは象徴的な道具に過ぎない。
そのはずだった。
今まで一度も感じたことのなかった魔力の脈動。
指輪が淡く脈打っている。
紫色の妖しい輝きが血管のように腕を這い上がる。
《契約者確認》
《監査役により痕跡を感知しました》
《契約書を発動します》
どこからともなく声が響く。
天井?壁?それとも頭の中?
「誰…?」
レムは震える声で問う。
『我は古の契約の監査役。王家の血筋に宿りし永遠の見届け人なり』
『汝は血族魔法の継承権を有す』
『契約せよ。生命を捧げるならば』
『血族魔法の全てを汝に与えよう』
『カナン国創建以来代々王家のみに伝わる秘術』
『カナン国の土と血に眠る歴代王家の魂を喚び起こし共鳴させる』
『喚び声に応じし霊魂は血に溶け肉体を蝕んでゆく』
『死しても尚続く束縛の鎖』
レムは恐怖と興奮が入り混じる感情に戸惑った。
目の前に突如現れた『力』という餌。
だが引き換えに求められるのは己の命。
「魔法を使うたび寿命が減る、ということ?」
『然り』
『完全に使い果たせば』
『灰となる』
レムは呼吸を整えながら尋ねる。
「それでも、力を得られるの?」
『然り』
レムは考える。
今まで虐げられてきた日々を。
母に罵倒され父に見捨てられ孤独に喘いだ夜を。
そしてダイモンと過ごしたわずかな幸福の記憶を。
再び声が響く。
『契約の追加条件』
『次の継承者を育てよ』
『我が血族魔法を次代へ渡す役目を担え』
次の継承者を育てる?
それって、自分の生まれてくる子を差し出せと…?
レムはその残酷さに、這いつくばりながら、悶え、嗚咽をもらす。
それは、もしかしたら、ダイモンとの子かもしれない。
相手が誰であろうと、犠牲にすることはできても、レムはダイモンを、ダイモンだけは裏切ることができない。
『血族魔法は永続すべく設計されておる。汝一代で絶えてしまっては契約の意味がない』
声は変わらず平坦だが、どこか愉悦を滲ませている。
沈黙が落ちた。
レムの全身が震え始める。
ダイモンと将来を共にするとした約束。
殺意すら滲ませ憎悪してくる母上と父上、兄、姉、側室、家族、その家来たち、国民全て。
ダイモンの怪我。
守ると誓いあった日。
追放されれば野垂れ死ぬしかない。
野垂れ死んだら、既に出会ってしまった私を、ダイモンは切り捨ててくれるだろうか?
「ダイモン…」
名前を呟くと胸に火が灯った。
城壁で傷ついた彼の青ざめた顔。
泥に汚れた膝小僧。
それでも笑ってくれたあの優しい少年。
その彼が、私が死んだと知って、何もしないわけがない。
レムは、ダイモンを信じていた。
信じていたから、
「契約するわ」
あの日、泣いていた少女はもういない。
愛する唯一のために、全てを捨てる覚悟を決めたのだ。
自身の過去も未来も魂も、捧げられた愛情さえも。
少女に残るものは何一つない。
それでも少女は、この世で一番幸福なのだというように、満面の笑みを零した。
『警告』
声が一段低くなる。
『契約を結ぶなら即座に準備を始めよ。最初の魔法行使で汝の生命力が半分以下に減る』
生きながら半死人になる。
血族魔法を使えばそれさえも削られる。
それでも、
「それで十分」
恐怖と痛みは追いやられ、少女の瞳は決意で燃え、目まぐるしく頭を回転させる。
指輪の光が瞬く間に増幅し、血管のように脈打つ模様が手首まで広がる。
『同意と見做す』
声が轟く。
《契約履行を開始します》
指輪が灼熱の杭となって掌を貫いた!
「っあ゛ぁあ゛あ!!」
獣のような絶叫が石造りの廊下に反響する。
痛みは物理的現象を超えていた。
全身の細胞が暴れ狂い、内側から爆ぜそうになる。
視界が白と紫の渦に飲み込まれる中、ダイモンの笑顔だけが鮮明だった。
意識が闇に墜ちる刹那、不思議な確信が胸を満たした。
血族魔法を司る祖先の霊魂が流れ込んでくる。
彼ら彼女らの絶望と怨嗟が皮膚を焼きながらも、確かに力へと変わっていく。
廊下に残されたのは一人の少女の遺骸、ではない。
薄い朝靄に似た光に包まれたレムの姿は変わり果てていた。
銀色の髪は高貴な紫に変わり、瞳も紫水晶のように輝いている。
痩せぎすだった身体に異様な濃密な気配がまとわりついていた。
「…ふふ、はははは」
体内を駆け巡る膨大な魔力はすでに彼女を蝕んでいるが、同時に鋼のような意志を与えてくれた。
ふと手を見る。
血のにじむ掌に古い紋章のような痣が浮かび上がっていた。
血族魔法継承の証だ。
「なぜ半分なのかわかったよ、悪魔」
少女は笑う。
魂を撹拌され、薄れていく記憶と自我に揉まれながら。
「半分でも十分だもんね、人間の自我は弱い」
少女の中で悪魔も笑う。
生命力の堕ちた人間の自我を喰らうのは簡単だから、鼠を追い詰める猫のように、甚振って遊ぶだけだから。
「でも、悪魔の国の言葉かな?『窮鼠猫を噛む』」
少女は、隠し持っていたナイフを取り出す。
誰もが見くだす故の油断。
凶器を持っていてもバレないなんて、ザル警備だなあ。
そのまま、微弱な魔力を込めながら振り下ろされるナイフに、体の奥底から絶叫が聞こえた。
《契約違反発生》
《直ちに契約の損害を賠償してください》
《賠償しない場合強制的に損害を補填します》
《永久的な契約不履行に移行する前に、損害を強制的に補填》
《監視役シャヘルに対し強制執行》
《損害が補填されました》
《契約を続行します》
簡単な話だ。
最初から、あの悪魔は人間に対して、圧倒的に不利な契約を交わすつもりだった。
おそらく、読み上げていたのは、古代の王族と王国民たちと交わした契約書だったんだろう。
有利に契約するために契約書も見せず口頭説明で済ませ、考える暇を与えず押し進めた。
だから油断していたんだろう。
悪魔は言った。
『血族魔法は永続すべく設計されておる。汝一代で絶えてしまっては契約の意味がない』と。
つまり、わたしが死んでしまえば、契約不履行となる。
その場合、責任をとらせられるのは誰か。
悪魔だ。
死んだわたしに責任も賠償もできないし、監視役として、命を絶たないように見張るという役目もあったのだろう。
つまり、自分が結ばせた契約に、滅ぼされた。
「監査役、君の名前がわかったよ。そして、これからのわたしの名前も」
刻まれた紋章に、名前が浮かび上がる。
「シャヘル…せいぜい利用させて貰うよ」
少女は、それから一年間眠りにつくことになる。
作り変えられた体の負荷に耐えられなかったせいだ。
そして、目が覚めた時、世界も少女自身も激変する。
王家の落ちこぼれから、血族魔法の継承者の一人として。
だが、目覚めた少女は、元の少女ではない。
魂の撹拌に耐えられる精神力の人間などいない。
悪魔の魂で補填された魂はとうに歪んだ。
記憶も愛も覚悟も約束も、歪み、忘れられた。
王家は姿が変わったレムを、レムとして認めることはできなかった。
認めたら、国家機密に関わるからである。
だから、手っ取り早い手段に出た。
レムの存在は記憶からも記録からも消されることとなった。
だれもそれを悲しむものも、意義を唱えるものもいない。
ただ、彼女を愛する者を除いて。




