12 . 彼以外はどうでもいいけど
王宮へ戻る途中、鬱蒼とした庭園の中の小径に入ったときだった。
木立の影から、見慣れない人物が姿を現した。
ボクの兄であり、第一王子であるアベル。
薄紫の髪を肩まで伸ばし、涼やかな瞳がボクに向けられることはなく、彼はまるで道端の石ころでも眺めるかのような無関心さで通り過ぎようとした。
「おや」
アベルは立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
その視線がボクの上で止まったが、すぐに侮蔑の色を浮かべると逸らされてしまった。
そして、彼はボクの横にいるアレスとダイモンに向き直り、完璧な貴族の礼を取った。
「このような場所でお会いできたこと、光栄に存じます。アレス殿下。そしてダイモン卿」
その声は穏やかだったが、ボクに対する一切の言及がない。
まるでボクという人間など存在していないかのようだ。
ダイモンが一歩前に出て恭しく礼を返す。
「アベル殿下。こちらこそ驚きました。このような場所でお会いするとは」
アレスはわずかに警戒の色を示しながらも、皇族としての風格を崩さずに応じた。
「アベル殿下。シャヘル王女と同道しておりますこと、ご容赦いただきたい」
その言葉は牽制のようにも聞こえた。
第三王女を利用して何かを企んでいると誤解されては困る、という意図だろう。
アベルは興味なさげに頷いた。
「左様ですか。ソレがご迷惑をお掛けしてはおりませんか?」
言葉の選び方は丁寧だが、その声音には明確な棘があった。
ボクが他国の皇子に迷惑をかけるという前提で話しているのだ。
ボクは兄のその態度を予期していたから、特に表情を変えなかった。
ただ静かに立っているだけだ。
「…シャヘル王女が?」
アレスがわずかに眉を寄せる。
アレスやダイモンは知らなかったかも知れない。
アレスは特にボクを嫌ってるし、婚約者としての交流は少ないから、戸惑うのも無理ないか。
ボクは皆に嫌われてる。
逆にそれが、ボクだけがレム王女の事件に関わってないという証左にならないだろうか。
他の王家が何をしてるか知るわけないんだから。
アベルは微笑んだが、その目は笑っていなかった。
むしろ氷のように冷たい光を湛えている。
「ソレは時折、理解し難い行動を取りますので」
アレスは何か疑問に思ったようだったが、話題を変えるように、
「レム王女殿下のことなのですが」
アレスが慎重に言葉を選ぶ。
「大変痛ましい出来事であったと存じます。御心痛はいかばかりかと」
アベルはあからさまに顔をしかめた。
「レム…ですか?お気遣い痛み入りますが、それはもう過去の話です。今更気にされることでもありません。皆、前を向いておりますし、もしやレムのことで何か…?」
彼の声には一片の揺らぎもない。
まるで紙芝居の朗読でもするかのように平坦だった。
「家族を失った悲しみはそう簡単に癒えるものではないと思いますが」
控えめな抗議だったが、アベルは疾うの昔の出来事を今更何故蒸し返すのかと訝しげだった。
「時に必要になるのが忘却というものです。ところで殿下。本日はどのようなご用件なのでしょうか?」
アレスは一瞬眉をひそめたが、すぐに公式の表情に戻した。
「…授業の一環で合同で調査をすることがあり」
「ほうそうでしたか」
アベルは大げさに感嘆の息を漏らした。
「皇太子殿下自らご尽力いただいているとは、ソレが何か粗相をしていないかと心配になります」
「お気遣いは無用です」
ダイモンが静かに口を挟んだ。
「我々はあくまで共同作業として進めております。互いの立場を尊重しながら」
アベルはダイモンを値踏みするように見つめた後、僅かに頷いた。
その動きにはわずかながら敬意が込められていたが、それがダイモンに対してなのか、それとも帝国の権威に対してなのかは判然としなかった。
「ソレがお役に立てることを祈っております」
その言葉はまるで他人事のように響いた。
「では私はこれで失礼いたします。殿下、卿」
アベルは形式通りに挨拶を済ませると、踵を返して来た道を引き返し始めた。
その堂々とした背中は、まさしく王国を継ぐ者の風格を備えている。
しかしその足取りはどこか軽いように見えた。
そして彼が一行から十分に離れたあたりで、ふと立ち止まったアベルが、僅かに身体を傾けて何かを呟いた。
それは風に乗ってかすかに届いた。
「…忌々しい悪魔め」
ボクはいつものことなので気にしない。
振り返ることなく前を向き、アベルが去っていくのを視界の隅で見送るだけだ。
彼のその呟きは確かに鼓膜を震わせたが、心には届かない。
ダイモンが小さく息を呑む音が聞こえた。
彼は鋭い眼光でアベルの去っていく後ろ姿を睨みつけている。
その背中に向けられた視線には明らかな怒りがこもっていた。
ボクのために怒ってくれているのだろうか。
そんな考えが一瞬頭をよぎり、すぐに打ち消した。
期待するのは馬鹿げている。
「フン」
アレスが不機嫌そうな鼻を鳴らす音がした。
「さすがは王国の第一王子だ。なかなかどうして、高潔なお言葉を下賜してくださるな」
皮肉たっぷりの声だったが、ボクに向けられたものかアベルに向けられたものか判然としない。
彼は腕を組み、面白がるような、それでいて探るような視線でボクを見た。
「どうやら貴様は随分と嫌われているらしい。兄君に『悪魔』扱いか。なかなか愉快だな」
「そうでしょうか?」
ボクは淡々と答えた。
「愉快ではありませんが、呼び名にこだわりはありませんわ」
「虚勢を張るのも大概にしろ」
アレスの声が一段と低くなった。その翠玉の瞳がボクの紫色の瞳を射抜く。
「『悪魔』と呼ばれることに慣れきった奴がいるか?」
ここにいる。
ボクは無表情でアレスを見つめ、先に目をそらしたのはアレスの方だった。
「気味の悪い女だ」
「殿下」
吐き捨てる殿下をダイモンが怒ったように止める。
ダイモンに怒られるのが、あまりないことなのか、アレスは狼狽えたように見えた。
そんなアレスを無視して、ダイモンがこちらに向き直り、心配そうな表情をする。
ダイモンがボクのすぐそばまで歩み寄り、膝を軽く折って視線を合わせてきた。
彼の青灰色の瞳には、心からの憂慮が宿っている。
「…気分は悪くない?」
彼の声には切実な響きがあった。
まるで傷ついた小さな動物を気遣うかのように。
「お気遣い感謝致しますが、慣れているので、どうということもありませんわ」
実際、どうでもよかった。
アベルがどんな言葉を呟こうが、王宮中の人間がボクを悪魔と蔑もうが、彼らの存在はボクの中で薄っすらとした影のようなものなのだ。
彼らはただそこにいて、勝手に喚き散らしたりするだけ。
気にかける価値もない。
だけど。
「姫…」
ダイモンの手が無意識に伸びてきて、ボクの袖口に触れそうになった。
その温もりを期待してしまう自分がいる。
彼がボクのために怒り、心を痛めている。
その事実が、胸の奥の硬く閉ざした部分をわずかに溶かす。
「心配には及びません」
それでもダイモンは納得していないように見えた。
彼の眉根が寄り、ボクをじっと見つめる。
その眼差しは人間を見る目だ。
その視線を受けていると、落ち着かない気持ちになる。
慣れない。
こんなふうに誰かに心から心配されることも、自分のために感情を露わにされることも。
一方でアレスは、ボクたちのやり取りを冷ややかな目で見ていた。
先ほどまでの怒りとは違う、まるで珍奇な生き物でも見るかのような好奇と、そして僅かな困惑が混じった表情だ。
「貴様、本当に人間か?」
アレスが唐突に言った。
「兄君にあんな言葉を浴びせられて平然としているとは。しかも『慣れている』だと? 異常だ。精神が壊れている」
普通であれば怒るべきところだろう。
だがボクは特に何も思わなかった。
壊れているなら壊れているで構わない。
ボクにとって重要なのは、アレスでも血族でも国でもない。
「殿下」
ダイモンが低い声でアレスを咎めた。
ボクは二人から距離を取るように一歩下がり、アレスに向き直った。
「お褒めに与り光栄ですわ」
にこりと微笑む。
いつもの社交用の仮面だ。
「では殿下。そろそろ王宮に戻りませんか? 長居は無用でしょう」
アレスは何か言いたげに口を開いたが、結局は舌打ちと共に押し黙った。
彼はボクとダイモンを交互に見て、忌々しげに鼻を鳴らす。
「…全く気味が悪い」
彼は吐き捨てるように呟くと、先に立って歩き出した。
ダイモンが少し遅れてその後に続き、ちらりとボクを振り返る。
ボクは小さく頷いてみせた。
彼の気遣いが嬉しくもあり、同時に少しだけ重荷にも感じる。
ボクが『悪魔』と呼ばれるのは構わない。
だが、そのせいで彼が傷つくのなら、それは避けたい。
ボクは俯きがちなダイモンの横顔を見つめながら、そんなことを考えていた。
他のことなどどうでもいい。
ただ彼が笑っていてくれればそれで。
そんな利己的な考えが胸の中に渦巻く。
学園に戻るまでの短い道のりが、やけに長く感じられた。




