第三十二章 彼女はその高みへ ~空、きみは磨かれゆくダイヤに何を見たんだい?~
翌、早朝。
ホテル・ハイリヒトゥーム前。
空は、槍を手に八極小架をこなしていた。朝から仕事に行くサラリーマンや建築関係者は朝から変なことをしていると遠巻きに見やる者が多いが、中には武術に造詣のある者もいるようで立ち止まって「面白い武術だな」と頷いて去ってゆく。
――クリス少佐やアルスさん、ガムランさんにジーク殿下のように、この世界にはまだまだ強い人がいます。今まではゴロツキ相手に勝てていただけ。今後はそれが通用しないかもしれない。ましてやカリオストロ協会を相手にしていたら、奴らは今後どのような刺客を我々に送り込んでくるか分かったものではありません。黒衣の使者なる者のように、武術ではなく自爆テロを仕掛けてくるものもいるかもしれない。そんな連中に、わたしは負けることなど許されない。毎日少しずつでもいい。わたしは功夫を積むのみ。昨日より今日、今日より明日。確実に着実に強くならなければ、大切な人も、この心を守ることなどできやしないのですから。
套路の『起式』から『収式』までがひと通り。それを空は普段なら最低五十回こなすところを、百回通してもやめることはなかった。そんな空の姿を、アルスはガラス窓越しに見つめる。
「何かせずにはいられないんだろう。僕もそうだった。いや今でもそうか。当代頭首と言いながら、僕はじいちゃんに一度も勝てたことがないんだから」
そんな空に、ヴィントが声をかけてきた。
「師匠! 今から三十回、私に付き合ってよ!」
「ヴィント……。ええ。今日はそのくらいで朝ご飯にしましょう」
「あと、お風呂もね。師匠ってば滝に打たれたようにびっしょりだよ」
「滝行……。それはいいですね。帰ったら身を清めて、今一度わたしの中の八極拳と向き合うとしましょう」
「あ。私、絶っ対ぇー余計なの言っちまった」
そしてアルスも混ざり、八極拳の套路と太陽手の型を三十回こなし、一同は汗を落とす。空とヴィントはスイートルームの浴室で、アルスは社交もかねて朝から銭湯へ。
シュトラルラント城。
同、鍛冶工房。
バルムンクことジークは、ダイヤモンドを磨いては顕微鏡にかけ、磨いては顕微鏡にかけ、そのダイヤモンドが最も輝きを放つようになるまで磨き続ける。だが今日が三日目でもあるし、先日は空とアルスの実力を見るため時間を削ってしまった。王配としての仕事もあるため、あと一日か二日伸びることは考えられる。
そんなジークの工房に、空は朝から見学に来ていた。
「……見ても面白くないよ?」
「いえ。こういう場は、不思議と気持ちが引き締まるんです。我が国にはマグというヤマト文化の色濃い町があり、そこの鍛冶工房もこんな感じでしたから」
「そうか。今度一度見学に行きたいな、そのマグという町や本場のヤマトにも。でもダイヤモンドを研磨する仕事は本当に地味で本当につまらないと思うよ?」
「それでも構いません。少しでも気が散るようでしたら去りますので、それまでここにいさせてください」
「分かった。そこまで言うなら見て行って構わない。麦茶は好きに飲んでくれていいからね」
「ご厚意、感謝いたします」
そして空は自分とジークの分の麦茶を冷やして用意し、ジークはいつもなら鉄を熱する炉をストーブ代わりに温まりながらダイヤモンドを磨く。無音のようで『スカイフ(粉末ダ
イヤを付着させた研磨台)』とダイヤ原石がすれる音が静かに響く。ジークがダイヤモンドを研ぐ様子を、空はただひたすら無言で見つめる。まだ邪魔だとは言われない。ここにいることが許されている間は、自分は無と化す。
――……ん?
――無と化す?
――何でしょう、今の感じ。わたしは今、どうなってしまったのでしょうか?
すると、空はジークが磨くダイヤモンドに『吸い込まれた』。
吸い込まれてそのまま閉じ込められてしまったかのような不思議な感覚に陥った。
と思ったら。
「……ぅ? くう? 空? どうしたのさ、おい!?」
気付けば空は、ジークに肩を揺さぶられていた。
「ふぇっ?」
「いや、まあ、目を開けて背筋を伸ばしたまま寝てしまったようだから、どうしたのかと思って」
「寝っ!? あわわわ、こっ、これは、失礼しました!」
「あぁ、いや、別に。うーん、寝るというより一種の『トランス状態』にかかっていたのかもしれない。僕も最初の頃は無我夢中で宝石を磨き続けて、こんなの作っちゃったことが、ねぇ……」
そう言ってジークは、窓際に飾っていたガーネットを空に見せた。そのガーネットはある程度研磨されて途中でそれが止まっていた。
「きれいなガーネット。でもどうして途中で研磨が止まっているんですか?」
「今のきみみたいに目を開けたまま寝てしまったような状態になってなお磨き続けて、磨きすぎて削れてもうそれは宝石にならないんだ。だから自戒のために飾ってある。きみは僕が宝石を磨くさまに『何かを見た』んだろうね」
「何か……。そうです。なんだか不思議な感覚がしました。そのダイヤの中に吸い込まれて、でもそれがすごく心地よくて。そう、何もない世界に落ちて、でもそれが不思議と寂しくなくて。何でしょう、これは……?」
「まあいい。麦茶は淹れなおすから、飲んでくれ」
そう言って、ジークは麦茶を入れなおしたグラスを空に手渡した。だがそのグラスの底には不思議な模様が描かれていたのだが。
「『サンディング加工』?」
「よくわかったね、でも惜しい。これは『フッ酸』を塗った科学的『エッチング技法』だ」
グラスの内部ではなく外部底面に、文字を裏返した状態で刻まれている。つまりグラスを上方から内部を覗けば、透き通って正しい文字が見える仕組みだ。
「その模様は、大岑那族に伝わるおまじないだそうだ。心を落ち着かせるための呪文なのだとか」
「心を落ち着かせる……。わたしは今、落ち着いていないということでしょうか?」
「分からない。でもきみはトランス状態に陥って何かを見て、それに今戸惑っていることは間違いない。どう? 気分はよくなった?」
空は麦茶をひと口飲み、ふぅ、とひとつ息を吐いた。
「はい、心なしか」
「それはよかった。少しずつでもいいし一気飲みしてもいい。それと今日は帰るといい。今見ても何も得られないか、またトリップしてしまうかもね」
「お心遣いありがとうございます」
「うん。グラスはそこへ。あとで兵士が取りに来るから」
「はい。本日はお邪魔しました」
そして空は一礼し、ジーク=バルムンクの工房を出てゆく。
一方そのころ。
王都商店街。




