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初出勤、浴槽が海になる

 魔法少女の仕事とは、世界の平和を守ることだ。


 少なくとも、私はそう教わった。


 魔物の討伐。災害への対応。暴走した魔法の鎮圧。


 どれも危険で、責任が重く、だからこそ憧れていた。


 けれど、正規魔法少女になって最初の月曜日。


 私が守ろうとしているのは、世界の平和ではなかった。


「星宮さん、こちらが入浴用のエプロンです」


「……はい」


「長靴は滑りにくいものを用意しました」


「ありがとうございます」


「それと、万が一に備えて防水結界の展開方法を確認しておいてください」


「普通の入浴介助で結界が必要なんですか?」


 施設長の黒田さんは、にっこり笑った。


「普通の入浴介助なら必要ありません」


「ですよね!」


「ここでは必要です」


「ですよね……」


 特別養護老人ホーム『黄昏の丘』。


 伝説の魔法使いや元勇者、元魔王などが暮らす、見た目だけは普通の老人ホームだ。


 先週、祖父に魔法少女の就任報告をしに来た私は、お茶を温めるために太陽の熱を召喚するおばあさんと遭遇した。


 その結果、談話室の天井には大穴が開き、巨大な樹木が生えた。


 ちなみに樹木はまだある。


 修復魔法で天井は直ったが、入所者たちが「立派だから残そう」と言い出したらしい。


 現在は三階まで伸びた枝に洗濯物が干されている。


 何をどう考えれば、あれを残す結論になるのだろう。


「本日の担当は、入浴介助の補助です」


 黒田さんが勤務表を指差した。


「まずは職員の佐藤さんについて、手順を覚えてください。身体状況の確認、移動の介助、着替え、洗身、入浴後の水分補給。判断に迷ったら必ず相談してください」


「はい!」


「魔法を使う場合も、必ず職員に声をかけてください」


「わかりました!」


「入所者の方が魔法を使おうとしたら、内容を確認してください」


「はい!」


「特に『ちょっとだけ』という言葉には注意してください」


「……はい?」


 黒田さんは真剣な顔になった。


「この施設で最も信用してはいけない言葉です」


 初出勤から、ものすごいことを教わってしまった。


 浴室へ向かうと、佐藤さんという女性職員が待っていた。


 三十代くらいの、明るくて頼りになりそうな人だ。


「よろしくね、ひなたちゃん。今日は見学と補助が中心だから、無理しないでね」


「よろしくお願いします!」


「じゃあ、最初に浴室を見ておこうか」


 案内された浴室は広かった。


 手すりのついた浴槽、シャワーチェア、滑りにくい床材。脱衣室には着替えを置く棚と、入浴前後の体調を確認するための記録用紙もある。


 思っていたより、ずっと普通だった。


「なんだか安心しました」


「何が?」


「もっとこう、溶岩の浴槽とか、空中に浮かぶシャワーとかあるのかと」


「あはは。そんなの危ないでしょう」


「ですよね!」


 私は笑った。


 佐藤さんも笑った。


 そして、浴室の壁に貼られた注意書きを指差した。


『浴槽内での海洋召喚は禁止』


『水温調整に火山活動を利用しないこと』


『入浴中の時間停止は職員の許可を得ること』


「……佐藤さん」


「何?」


「この注意書き、必要なんですか?」


「必要になったから貼ってあるの」


 笑顔のまま答えられた。


 それ以上、聞く勇気が出なかった。


 午前十時。


 最初の入所者が浴室にやって来た。


 車椅子に座ったおばあさんで、私を見るなり目を細めた。


「あら、新しい子?」


「はい。星宮ひなたです。よろしくお願いします」


「かわいいわねえ。魔法少女?」


「そうなんです!」


「昔は私もそうだったのよ」


「えっ、本当ですか?」


「ええ。変身するたびに髪が腰まで伸びてね。戦いが終わると絡まって大変だったわ」


 おばあさんは懐かしそうに笑った。


「今は髪を洗うのも手伝ってもらってるけどね」


 私は少しだけ言葉に詰まった。


 けれど佐藤さんは、ごく自然に声をかけた。


「今日はご自分でできるところ、どこまでやってみます?」


「顔と腕は自分で洗うわ」


「了解。背中はお手伝いしますね」


 おばあさんは満足そうに頷いた。


 私はそのやり取りを見て、少し安心した。


 ここでは伝説の魔法少女も、普通のおばあさんとして暮らしている。


 昔どれほど強かったかではなく、今できることを大切にしているのだ。


 入浴は無事に終わった。


 次の入所者も、その次の入所者も、大きな問題はなかった。


 私はタオルを準備し、着替えを運び、佐藤さんの指示で手すりの位置を確認した。


 案外、普通の仕事なのかもしれない。


 そう思ったのが、いけなかった。


「次は海堂さんね」


 佐藤さんが予定表を見た。


「海堂さん?」


「海堂潮三郎さん。九十一歳。昔は海洋魔術師として有名だった人」


「へえ。どんな魔法を使うんですか?」


「海を動かすの」


「海?」


「うん。海」


 佐藤さんはそれ以上説明しなかった。


 数分後、杖をついた小柄なおじいさんが脱衣室に現れた。


 青い甚平を着て、白い髭をきれいに整えている。


「海堂さん、おはようございます」


「おう」


「今日はお風呂の日ですよ」


「入らん」


 即答だった。


「昨日もそうおっしゃっていましたね」


「昨日も入らんと言ったなら、今日も入らん」


「でも、汗をかいていらっしゃいますよ」


「海の男は汗など気にせん!」


「ここ、海じゃないですからね」


 佐藤さんは慣れた様子だった。


 私は少し離れて見守った。


 無理に入浴させるわけにはいかない。本人の気持ちを聞き、理由を確かめることが大切だと、事前に教わっている。


「海堂さん、お風呂の何が嫌なんですか?」


 私が尋ねると、おじいさんは眉を寄せた。


「狭い」


「狭い?」


「湯船が狭い。あんな水たまりに入れるか」


「結構大きい浴槽ですよ?」


「わしは若い頃、海そのものを湯船にしておった!」


「それはお風呂じゃなくて海水浴です!」


 海堂さんは胸を張った。


「東の大海を温め、三千の船団を入浴させたこともある」


「船団を入浴させるって何ですか!?」


「よい時代じゃった」


「規模が大きすぎて想像できません!」


 佐藤さんが私の肩を軽く叩いた。


「ひなたちゃん、落ち着いて」


「すみません」


「海堂さん、今日はシャワーだけでもどうですか?」


「ふむ……」


 海堂さんは考え込んだ。


 そして、何かを思いついたように顔を上げた。


「そうじゃ。狭いなら広くすればよい」


 嫌な予感がした。


「海堂さん?」


「心配するな。ちょっとだけじゃ」


 ちょっとだけ。


 その言葉を聞いた瞬間、私は黒田さんの忠告を思い出した。


「待ってください!」


 けれど、遅かった。


 海堂さんが杖を床に突いた。


「大海招来!」


 浴室の床に青い魔法陣が広がった。


 ゴゴゴゴゴ、と低い音が響く。


 排水口から水が噴き上がった。


「うわっ!」


 私は反射的に佐藤さんの前へ出た。


 次の瞬間、浴槽の水面が大きく盛り上がった。


 水が渦を巻く。


 壁が透き通る。


 天井の向こうに青空が現れた。


 そして、浴室いっぱいに潮の香りが広がった。


「……え?」


 目の前に、水平線があった。


 どこまでも続く青い海。


 白い波。


 遠くを飛ぶカモメ。


 私は何度も瞬きをした。


「……佐藤さん」


「何?」


「ここ、浴室ですよね?」


「そうだね」


「なんで水平線が見えるんですか?」


「海堂さんが海を呼んだからだね」


「冷静すぎません!?」


 足元に波が押し寄せた。


 ザバーン!


「きゃあああ!」


 私は佐藤さんを抱えて飛び上がった。


 魔法で身体を浮かせ、天井近くに避難する。


 下では海堂さんが満足そうに腕を組んでいた。


「うむ! やはり風呂はこれくらい広くなくては!」


「広いとかいう次元じゃありません!」


「安心せい。水深は浅くしてある」


「海がある時点で安心できません!」


 波の向こうから、巨大な影が近づいてきた。


 背びれ。


 鋭い歯。


 大きな口。


「サメええええ!」


「おお、懐かしいのう」


「知り合いなんですか!?」


「昔、餌をやったことがある」


「だからって呼ばないでください!」


 海堂さんが杖を振ると、サメはくるりと向きを変えた。


 どうやら危害を加えるつもりはないらしい。


 安心したのも束の間。


 今度は巨大なタコが浴槽の縁に足をかけた。


「タコもいる!」


「海じゃからな」


「浴室です!」


 私は叫んだ。


「ここは浴室なんです!」


 そのとき、廊下から黒田さんの声がした。


「何があったんですか!」


 施設長が扉を開ける。


 途端に波が廊下へ流れ出した。


「うわあああ!」


 黒田さんは流されかけ、必死に手すりにつかまった。


「海堂さーん!」


「おお、黒田君。よいところへ来た」


「何がよいところですか!」


「一緒に泳ぐか?」


「泳ぎません!」


 私は天井近くから叫んだ。


「施設長! どうすればいいんですか!」


「まず廊下への流出を止めてください!」


「はい!」


 私は杖を振った。


「防水結界、展開!」


 浴室の出入口に透明な壁が現れた。


 波がぶつかり、水しぶきが上がる。


 よし。これで施設のほかの場所には広がらない。


「次は海を戻します!」


「お願いします!」


 私は海堂さんを見た。


「海堂さん! 魔法を解除してください!」


「嫌じゃ」


「どうして!」


「まだ入浴しておらん」


「入る気はあるんですね!?」


「当然じゃ。せっかく海を呼んだのだからな」


 私は頭を抱えた。


 この人は入浴そのものが嫌なのではない。


 狭い浴槽が気に入らないだけなのだ。


 ならば、海を消す前に、本人が納得できる方法を考えなければならない。


「海堂さん!」


「何じゃ?」


「海を戻したら、浴槽を少し広く見せる魔法を使います!」


「少し?」


「見た目は水平線まで広げます! でも実際の水量は普通のお風呂です!」


「ふむ」


 海堂さんは髭を撫でた。


「それは面白そうじゃな」


「だから、まず海を戻してください!」


「よかろう」


 海堂さんが杖を持ち上げる。


「大海帰還!」


 青い光が浴室を包んだ。


 波が引いていく。


 サメが消えた。


 タコが消えた。


 水平線が閉じ、いつもの天井が戻ってきた。


 浴槽には、適温のお湯が静かに張られている。


 私はその場にへたり込んだ。


「……終わった」


 佐藤さんがタオルを差し出してくれた。


「お疲れさま」


「ありがとうございます……」


「じゃあ、海堂さんの入浴を始めようか」


「今から!?」


「今から」


 そうだった。


 大騒動は、まだ入浴前だった。


 私は浴槽の前に立ち、慎重に杖を構えた。


「幻影魔法、展開」


 浴槽の縁が光り、周囲に穏やかな海の景色が広がった。


 水面の向こうには青空。


 遠くには小さな帆船。


 けれど、実際の浴槽の形も深さも変わっていない。


「どうですか?」


 海堂さんは目を細めた。


「……悪くない」


「本当ですか!」


「うむ。これなら入ってやろう」


 佐藤さんが笑った。


「ありがとうございます。では、いつもどおり手すりを使って入りましょうね」


「わかっておる」


 海堂さんは介助を受けながら、ゆっくり浴槽に入った。


 そして、肩まで湯につかると、深く息を吐いた。


「……よい湯じゃ」


 その顔は、とても穏やかだった。


 私は少し嬉しくなった。


 魔法を使って世界を救うことばかり考えていたけれど、誰かが気持ちよくお風呂に入れるようにするのも、立派な仕事なのかもしれない。


「ひなたちゃん」


 佐藤さんが小声で言った。


「ありがとう。海堂さん、最近なかなか入浴してくれなかったから」


「いえ。私はほとんど叫んでいただけで……」


「でも、海堂さんの希望をちゃんと聞いてくれたでしょう?」


 私は浴槽を見た。


 海堂さんは幻の水平線を眺めながら、鼻歌を歌っている。


 昔、本当にあんな海を自由に泳いでいたのだろう。


 少しだけ、その景色を見てみたいと思った。


 そのとき。


「おお、そうじゃ!」


 海堂さんが顔を上げた。


「何ですか?」


「海には魚がおらんとな!」


「え?」


「せっかくだから、鯨でも一頭――」


「呼ばなくていいです!」


 私の声が浴室に響いた。


 海堂さんは不満そうに口を尖らせた。


「小さい鯨にするぞ?」


「小さくても鯨です!」


「イルカならどうじゃ?」


「生き物を呼ばないでください!」


 佐藤さんが横で笑っていた。


 笑い事じゃない。


 この施設の人たちは、どうして何でも大きくしようとするのだろう。


 午後四時。


 ようやく仕事が終わった。


 私は職員室の椅子に座り、ぐったりと机に突っ伏した。


「お疲れさまでした」


 黒田さんが温かいお茶を置いてくれた。


「初日から大変でしたね」


「大変なんてものじゃありません……」


「でも、海堂さんが入浴できてよかったです」


「それは、はい」


 私は顔を上げた。


「ところで施設長」


「何でしょう?」


「この施設では、毎回あんなことが起きるんですか?」


 黒田さんは少し考えた。


「毎回ではありませんよ」


「よかった……」


「今日は比較的穏やかなほうです」


「比較対象を教えてください!」


 そのとき、職員室の扉が開いた。


「ひなたー!」


 祖父だった。


「初仕事はどうじゃった?」


「おじいちゃん……」


「黒田君から聞いたぞ。海を鎮めたそうじゃな!」


「海を呼んだ人を止めただけだよ」


「立派じゃ! さすが我が孫!」


 祖父は満足そうに頷いた。


「祝いに何か欲しいものはないか?」


「今は何もいらない」


「遠慮するな。島でも一つ造ってやろう」


「いらないってば!」


「温泉つきじゃぞ?」


「お風呂の話から離れて!」


 祖父は残念そうに肩を落とした。


 その後ろを、紫色のカーディガンを着たエレノアさんが通りかかった。


「あら、玄一郎さん。お孫さんのお仕事、終わったの?」


「お、おお。今終わったところじゃ」


 祖父が急に背筋を伸ばした。


「ひなたはなかなか優秀でのう。わしの若い頃にそっくりじゃ」


「あら、そうなの?」


「うむ。わしも昔は海を鎮めたことがあってな」


「あなた、昔から大げさだったものね」


 エレノアさんは楽しそうに笑った。


 祖父の耳が、ほんの少し赤くなった。


「……おじいちゃん?」


「な、何じゃ?」


「何で急に格好つけてるの?」


「つけておらん!」


 エレノアさんは微笑みながら廊下の向こうへ歩いていった。


 祖父は、その背中をしばらく見送っていた。


 私は首を傾げた。


 大賢者にも、苦手な相手がいるらしい。


 帰宅してから、私は今日の業務日誌を思い出しながら、自分の魔法少女活動記録を書いた。


『本日の活動』


『入浴介助補助』


『海洋召喚魔法の鎮圧』


『サメ一頭、巨大タコ一匹を確認』


『負傷者なし』


 ……本当に、これでいいのだろうか。


 私はペンを置き、ベッドに倒れ込んだ。


 明日は火曜日。


 施設の仕事は休みだ。


 やっと普通の魔法少女として活動できる。


 そう思った瞬間、携帯電話が鳴った。


 画面には『黒田施設長』の文字。


「……もしもし?」


『星宮さん、すみません。確認したいことがありまして』


「何でしょう?」


『明後日の水曜日も、予定どおり出勤できますか?』


「はい。大丈夫ですけど……」


『よかった!』


 電話の向こうで、黒田さんが心底安心した声を出した。


『実は次回、元魔王の田中さんの入浴予定なんです』


「……元魔王?」


『ええ。最近、浴室を自分の玉座の間に改造しようとされていまして』


「ちょっと待ってください」


『では、水曜日もよろしくお願いします!』


 電話が切れた。


 私は天井を見つめた。


 魔法少女になって、まだ一週間も経っていない。


 なのに、すでに世界の危機より厄介なものを知ってしまった。


 老人ホームの入浴日だ。


「……水曜日、休みたい」


 けれど、きっと休まない。


 あの海堂さんが、気持ちよさそうにお湯につかっていた顔を思い出したから。


 私は深くため息をつき、活動記録の最後に一行書き加えた。


『次回の目標――浴室を浴室のまま維持すること』


 魔法少女として、あまりにもささやかな目標だった。

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