プリン一個で魔王軍
水曜日の朝、私は人生で初めて、プリンが怖いと思った。
正確には、プリンそのものが怖いわけではない。プリンを欲しがる元魔王が怖いのだ。
「星宮さん、今日の注意事項です」
特別養護老人ホーム『黄昏の丘』の職員室で、施設長の黒田さんが一枚の紙を差し出した。
『田中さんへの対応』
一、本人の希望をよく聞く。
二、入浴中に玉座を召喚させない。
三、甘いものの話題は慎重に扱う。
「最後の項目、どういう意味ですか?」
「昨日、プリンが食べたいとおっしゃいまして」
「普通の希望ですね」
「夕食前だったので、おやつの時間に相談しましょうとお伝えしました」
「普通の対応ですね」
「その後、食堂に暗黒城が建ちました」
「どこから普通じゃなくなったんですか!」
黒田さんは眼鏡を押し上げた。
「今日は看護師とも相談して、午後のおやつに小さなプリンを用意しています。食事や体調のこともありますから、無制限には出せません」
「それなら解決じゃないですか」
「そう願っています」
願望だった。
私は入浴用のエプロンを着け、浴室へ向かった。月曜の大海召喚事件から二日。床も壁も元どおりだ。ただ、脱衣室の時計にはなぜか潮の満ち引きが表示されている。
「ひなたちゃん、おはよう」
先輩職員の佐藤さんが、入浴予定表を見せてくれた。
「田中さんは十一時から。まずは他の方の介助をしながら、今日の体調を確認していこうね」
「はい。あの、田中さんって、どんな方なんですか?」
「穏やかな人よ。昔の部下の話になると、ちょっと長いけど」
「元魔王ですよね?」
「そうね」
「世界を征服しようとした、あの?」
「今は園芸クラブの会計係」
「経歴の落差がすごい!」
十一時ちょうど。
「余の出番か」
低い声が脱衣室に響いた。
現れたのは、小柄で丸顔のおじいさんだった。薄い水色の上着を着て、手には園芸雑誌を持っている。
「田中さん、おはようございます」
「うむ。今日もよい朝だな、佐藤よ」
田中さんは私を見ると、目を細めた。
「新しい娘か。名を申せ」
「星宮ひなたです。今日からよろしくお願いします」
「星宮……大賢者の血筋か。なるほど、あやつに似て騒がしそうな目をしておる」
「私、まだ何も騒いでません!」
「これから騒ぐ顔だ」
否定しきれないのが悔しい。
「田中さん、今日はお風呂、どうしましょう?」
佐藤さんが尋ねると、田中さんは頷いた。
「入る。だが一つ条件がある」
「何でしょう?」
「浴槽の前に玉座を置きたい」
「置きません」
「まだ大きさも言っておらぬぞ」
「前回、天井まで届きましたから」
「今日は小さめにする」
私は反射的に叫んだ。
「その『小さめ』が信用できないんです!」
田中さんは心外そうな顔をしたが、佐藤さんが「手すりが使えなくなりますよ」と説明すると、素直に引き下がった。
意外だった。
世界を恐怖に陥れた元魔王が、手すりの必要性を理解している。
「余も転びたくはないからな」
「それは本当に大事です」
田中さんは佐藤さんの介助を受け、ゆっくり浴槽へ入った。
「ふう。よい湯だ」
ほっとした、そのときだった。
「ところで、ひなたよ」
「はい?」
「プリンは好きか」
空気が変わった。
佐藤さんの手が止まる。
「好きですけど……」
「余もだ」
「そうなんですね」
「特に、上に生クリームがのったものがよい」
「おいしいですよね」
「かつて余の城では、毎日千の菓子職人がプリンを作っておった」
「千人も必要ですか!?」
「一人一個作れば千個だ」
「計算は合ってますけど!」
田中さんは遠い目をした。
「だが今は、一個も自由にならぬ」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
食べたいものを好きなときに食べられない。それは確かに寂しいことかもしれない。
「今日のおやつにはプリンが出る予定ですよ」
佐藤さんが穏やかに伝えた。
「一個か?」
「はい。一個です」
「……一個」
田中さんは考え込んだ。
「ならば、皆の分も用意してやろう」
「えっ?」
「余の旧臣どもに命じればよい」
浴槽の湯が黒く染まった。
「田中さん、待って!」
「案ずるな。ちょっと呼ぶだけだ」
「その言葉も禁止にしてください!」
田中さんが湯の中で指を鳴らした。
「魔王軍、集結せよ!」
浴室の床に巨大な紫色の魔法陣が現れた。
ゴゴゴゴゴ。
聞き覚えのある音だ。月曜日も聞いた。
「また床から!?」
湯気の中から黒い鎧が浮かび上がる。角の生えた兜、巨大な斧、背中には蝙蝠の翼。
完全武装の魔族が一人、浴室に片膝をついた。
「我が王! 千年の時を超え、御前に!」
「うむ。久しいな、ガルド」
「再び世界を闇に沈める時が来たのですな!」
「プリンを頼む」
「……は?」
「プリンだ。生クリームを忘れるな」
魔族の将軍は、しばらく動かなかった。
「我が王。敵国の名でしょうか」
「菓子だ」
「新兵器の名でしょうか」
「食べる菓子だ!」
「千年ぶりの招集が、おやつの買い出し!?」
「あなたもツッコむんだ!」
私は思わず将軍に親近感を覚えた。
だが次の瞬間、魔法陣がさらに広がった。
「待ってください、将軍さんだけじゃないんですか?」
「軍を呼んだのでな」
「軍!?」
浴室の壁の向こうから、重々しい行進の音が響いた。
ドン、ドン、ドン。
窓の外を見ると、丘の斜面に黒い旗が並んでいた。
鎧の兵士たちが整列し、巨大な飛竜が空を旋回している。施設の駐車場には攻城兵器が置かれ、送迎車が一台、完全に囲まれていた。
「プリン一個のために軍隊を呼ばないでえええ!」
私は杖を取り出した。
「佐藤さん、田中さんをお願いします!」
「了解。ひなたちゃん、まず落ち着いて」
佐藤さんは田中さんの肩にタオルを掛け、湯から上がる準備を始めた。
「田中さん、のぼせる前に出ましょうね」
「む。そうか」
魔王軍を呼んでおいて、入浴の声かけには従うんだ。
廊下から黒田さんの悲鳴が聞こえた。
「誰ですか! 玄関に城門を建てたのは!」
「田中さんです!」
「またですかああ!」
私は浴室を飛び出した。
「ひなた!」
祖父が談話室から現れた。
「何事じゃ。外が騒がしいぞ」
「おじいちゃん! 田中さんがプリンのために魔王軍を呼んだの!」
「ほう。昔の仲間を大切にしておるのう」
「感心するところじゃない!」
「よし、わしが一瞬で片づけてやろう」
祖父の足元に金色の魔法陣が浮かんだ。
「全軍を別次元へ――」
「待って! 元の場所に帰せばいいだけだから!」
「同じことじゃろう?」
「違うよ! 別次元に置き去りにしないで!」
祖父は口を尖らせた。
「最近の若者は注文が多いのう」
そのとき、魔族の将軍ガルドが駆け込んできた。
「我が王の命令は絶対! 菓子を確保するまで撤退はできぬ!」
「それなら、プリンを買ってくればいいんですか?」
「うむ!」
「でも何千人分も必要ないですよね?」
「我が王は『皆の分』と申された」
私は考えた。
田中さんが欲しかったのは、自分のプリンだけじゃない。
昔のように、誰かと一緒に甘いものを食べたかったのかもしれない。
「将軍さん、田中さんに確認してもらえますか? 『皆』って誰のことか」
ガルドは目を丸くした。
「王の真意を尋ねるのか」
「はい。勝手に決めると、また大変なことになりますから」
ガルドは少し考え、深く頭を下げた。
「承知した。かつて我らは、王の言葉を聞くより先に世界を征服しようとしていたのかもしれぬ」
「反省の規模まで大きいですね」
しばらくして、田中さんが佐藤さんに付き添われて現れた。
着替えを済ませ、髪も乾かしている。さっきまで浴室で魔王軍を召喚していたとは思えない、穏やかな姿だった。
「陛下!」
将軍が膝をつく。
「『皆』とは、我ら魔王軍のことでしょうか!」
「違うわい」
「違う!?」
「ここにいる皆じゃ。玄一郎も、佐藤も、黒田君も、ひなたも。皆で食べればうまいじゃろう」
玄関ホールが静かになった。
田中さんは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「昔は大勢で食卓を囲んだものじゃ。今の仲間にも、あれを味わわせたくてな」
私は杖を下ろした。
「……それなら、最初からそう言ってください」
「言ったぞ。皆の分、と」
「魔王軍には伝わりませんでした!」
佐藤さんが笑った。
「おやつの数は決まっていますけど、皆さんと一緒に食べるのはできますよ。今日のおやつの時間、同じテーブルにしましょうか」
「おお。それがよい」
「プリンは予定どおり一個ですけどね」
「……うむ。一個でよい」
田中さんは、ちょっと残念そうに頷いた。
「ではガルドよ。軍を戻せ」
「はっ!」
将軍は立ち上がり、外へ向かって叫んだ。
「全軍、撤収! 本日の作戦は終了した!」
丘に並んだ旗が消え、飛竜が雲の向こうへ溶けていく。攻城兵器も、兵士も、魔法陣の光となって消えていった。
ようやく、静かな老人ホームに戻った。
……と思ったら。
「陛下!」
消える寸前のガルドが、懐から小さな箱を取り出した。
「せめて、これを!」
箱の中には、金色のスプーンが一本入っていた。
「かつて陛下が愛用された、魔王の食卓の宝具でございます!」
「おお、懐かしい」
田中さんが受け取った瞬間、スプーンから巨大な闇の翼が広がった。
「ちょっと待って! スプーンにまで魔法が!?」
「安心せい。食べ物を口まで運ぶだけの道具じゃ」
翼が天井にぶつかり、照明が三つ揺れた。
「運ぶだけで翼が必要ですか!」
黒田さんが無言でスプーンを預かった。
夕方、私は活動記録を書いた。
『本日の活動』
『入浴介助補助』
『魔王軍召喚への対応』
『攻城兵器一式、飛竜複数を確認』
『プリン一個で解決』
最後の一行を見つめる。
「……これ、報告書として信じてもらえるかな」
背後から黒田さんが覗き込んだ。
「大丈夫です。うちの事故報告書には、もっとすごいものがありますから」
「聞きたくないです!」
帰りのバスで、私は今日の目標を思い返した。
『浴室を浴室のまま維持すること』
達成できた。少なくとも、海にはならなかった。
代わりに魔王軍が来たけれど。
携帯電話が震えた。黒田さんからのメッセージだ。
『金曜日の入浴予定について、ご相談があります』
私は画面を見つめた。
続く一文を読んで、思わず声が出た。
『元勇者の方が、入浴前に魔王討伐を希望されています』
「もう討伐する相手、同じ施設にいるんですけど!?」
バスの乗客が一斉にこちらを見た。
私は小さく頭を下げた。
魔法少女としての三日目。
次の目標は、どうやら世界平和より難しそうだった。




