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溜まりに溜まった『不運のダム』がいつ大爆発を起こすのか――。
私は毎朝、生きた心地がしない思いで目を覚まし、怯えながら学園生活を送っていた。
今日の朝食に危険な虫が入っているのではないか、廊下の天井が一部崩落して私だけを押し潰すのではないか、あるいは学園全体を巻き込む巨大な魔導事故の爆心地に私が指定されるのではないか。
幸運と不運の収支決済は絶対だ。これまでの人生がそうだった。マルクス卿によって日々の些細な不運がすべて打ち消された反動は、必ずや命に関わる規模で降りかかってくるに違いない……と。
――だが。
私のそんな壮大な予想とは裏腹に、驚くほど穏やかで平和な日々が、ただただ淡々と続いていったのである。
一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎても、巨大な不運どころか、小指をタンスの角にぶつけるような小不運すら私を襲うことはなかった。
理由は極めて単純かつ論理的なものだった。
マルクス卿が、私の身に不運が降りかかる『原因』そのものを、片端から根本解決していったからだ。
たとえば、私が躓きそうになった登校路の歪んだ石畳。翌日には学園の土木作業班が一夜にして完璧に平坦に舗装し直していた。
私が鳥のフンに狙われやすい校舎の中庭。そこには『鳥類忌避の微小魔導具』がいつの間にか設置され、鳥一匹近づかない平和な空間へと変貌を遂げた。
図書室で倒れてきそうになった老朽化書架に至っては、週末の間に全書架が最高級の耐震補強金属で壁面にがっちりと固定され、大地震が来ても一ミリも動かない安全地帯となっていた。
「……マルクス様、あの、学園の設備がどんどん変化しているような気がするのですが……」
「ええ。クラウディア嬢が安心して過ごせる環境を整えるのも、私の職務ですから」
片眼鏡のブリッジを押し上げ、さらりと宣うスパダリ側近。
彼が施す徹底的な『不運の予防措置』と『環境改善』のおかげで、気づけば私は人生で一度も味わったことのない「泥も飛ばず、物も落ちてこず、怪我もしない」という、完全に普通の、快適すぎる日常を手に入れてしまっていた。
ふかふかのベッドで眠り、汚れひとつない綺麗な制服を着て、誰にも脅かされずに過ごす日々。
あんなに恐れていた不運のダムは、爆破される前にマルクス卿という危機管理のプロのによって、綺麗に水抜きされてしまったらしい。
そんな奇跡のような平穏の中、実家の母から一通の便りが届いた。
『愛しいクラウディアへ! なんということでしょう! あのアウレリウス公爵家の次男、マルクス様から我がカシウス男爵家に丁寧なお手紙と豪華な特産品の詰め合わせ(柔らかい干し肉と上質な塩!)が届きましたのよ! お手紙には「クラウディア嬢の身の回りの安全を一生涯にわたって保障したい」と書かれてありました! これはもしや、我がカシウス家に空前絶後の春が訪れたのではございませんか!?』
手紙の端々から母の興奮と鼻息が聞こえてきそうな勢いだった。
しかし、私はその手紙を読み終えると、「やれやれ」と小さく首を振ってため息をついた。
(お母様ったら、相変わらず早とちりなんだから……)
私は手紙を折りたたみ、引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
マルクス卿が私を守ってくれているのは、あくまで誠実すぎる第一王子ルキウス殿下の命令であり、彼にとっては職務の一環に過ぎないのだ。公爵家からの手紙も、王族の過失に対する丁寧すぎる賠償手続きのようなものだろう。
私のような影の薄い貧乏男爵令嬢に、あの完璧な公爵家のマルクスが本気で好意を寄せるはずがない。
(変な期待をして、あとで傷つくのは自分だものね。私は私らしく、背景の雑草として静かに過ごすのが一番だわ)
私は自分に言い聞かせるようにうなずくと、学園生活の締めくくりとなる、大舞踏会の準備へと向かった。
───
アルビヌス皇立学園の卒業記念舞踏会。
絢爛豪華な大ホールは、色とりどりのドレスを纏った貴族の令嬢たちや、威風堂々とした正装の令息たちで埋め尽くされていた。頭上に飾られた巨大なシャンデリアが眩い光を放ち、管弦楽の華やかな旋律が空間を満たしている。
周囲の視線を一身に集めているのは、やはり『物語のメインキャラクター』格の人たちだ。
公爵家の威光を背負い、豪華絢爛な真っ赤なドレスで身を包んだオクタウィア様。
そして、その横で気品あふれる白銀の礼服を着こなすルキウス殿下。
さらには、控えめな薄桃色のドレスに身を包み、不安そうに瞳を揺らす特待生のユリアちゃん。
そんな眩しすぎる主役たちの輝きから遠く離れた会場の最果て――壁際の影になった一角で、私は静かに感動に打ち震えていた。
(すごい……! これが最高峰の舞踏会のビュッフェ料理……!)
目の前の長いテーブルには、普段の貧乏暮らしではお目にかかれないような豪華な料理が山のように並べられていた。
柔らかく焼き上げられたローストビーフのジューシーな切り身、濃厚なクリームソースがたっぷりかかった白身魚のソテー、色鮮やかな果物がこれでもかと盛られたタルトや、宝石のように輝くゼリー。
華やかな社交界のドロドロとした人間関係など、私には一切関係がない。
パーティーの醍醐味とは、なんと言っても美味しい料理をタダで食べられることなのだ!
「もぐもぐ……ふはぁ、美味しい……! このお肉、歯がなくても噛み切れるくらい柔らかい……! タルトの生地もサクサクで甘くて幸せ……」
私の存在感の薄さは、ここでも遺憾なく発揮されていた。
給仕の給仕長すら私の存在に気づかないため、私は誰に気兼ねすることもなく、無心で皿に料理を盛り、もぐもぐ、パクパクと勢いよく口に運んでいた。
社交界の蝶たちが優雅に扇子をあおいで噂話に興じている横で、私ひとりだけが「バイキング」の様相を呈している。だが、誰の視界にも入っていないのだから問題ない。
まさにその時だった。
会場の中央から、ジャーン! と管弦楽団の演奏を切り裂くような、派手なグラスの破片の音が響き渡った。
「オクタウィア・アウレリア! 貴女との婚約を、本日限りで破棄させてもらう!」
ルキウス殿下の朗々とした、しかし冷徹な通告がホール全体に響き渡る。
会場が一瞬にして静まり返った。
「な……なんですって、ルキウス殿下!? 私との婚約を破棄とおっしゃいましたの!?」
オクタウィア様が金髪の縦ロールを激しく揺らし、真っ赤な顔で叫ぶ。
「そうだ! 貴女がユリア嬢に行ってきた数々の陰湿な嫌がらせ……そして果ては、殺めようとしたその苛烈な悪行! もはや看過できん! 貴女は王妃の座にふさわしくない!」
演奏は止まり、 他の貴族たちも静かに聞いている為か、様々な口論がここまで聞こえてきていた。
「ち、違いますわ! あの時階段から突き落としたのはユリアではなく、誰だか分からない影の薄い女で……あ、いえ、そうではなくて!」
「言い訳は見苦しいぞ、オクタウィア!」




