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まさに、物語のクライマックスにふさわしい激動の『婚約破棄劇』が開幕していた。
息をのむ生徒たち、ざわつく高位貴族たち、泣きじゃくるユリア、怒りに打ち震えるオクタウィア様。
そんな世界を揺るがすドラマチックな修羅場を背景に、私は心の中で(うわぁ、本当に婚約破棄なんてあるんだ……たいへんだなぁ)と他人事のように感心しながら、フォークでローストビーフをもう一枚口へ運んだ。もぐもぐ。んー、ソースがニンニク効いていて最高!
主役たちがスポットライトを浴びて泥沼の愛憎劇を繰り広げる中、モブである私は背景の壁と同化しながら、平和に胃袋を満たす。これぞモブ令嬢の正しく賢い生き残り戦略である。
次はあっちの魚料理を……そう、満足感に浸っていたその時だ。
「実に見事な食べっぷりですね、クラウディア嬢」
ふいに、すぐ隣から低く滑らかな声がかけられた。
「ふぐっ!?」
喉に肉を詰まらせかけた私は、慌てて果実酒をガブっと飲み干し、口元をハンカチで拭いながら横を向いた。
そこに立っていたのは、いつの間に近づいていたのか、隙のない黒の夜会服を纏ったマルクス・アウレリウス卿だった。
普段の制服姿も素敵だったが、フォーマルな夜会服を着こなした彼は、目のやり場に困るほど洗練された美男子だった。眼鏡の奥の瞳が、会場のシャンデリアの光を反射して怪しく輝いている。
「マ、マルクス様!? なぜここに……? 殿下の側近として、あちらの修羅場の助太刀をしなくてよろしいのですか……?」
私が背後の婚約破棄劇を指差すと、マルクス卿はチラリとも振り返らず、一瞥すら与えなかった。
「殿下のお言葉どおり、事態はすべて計画通りに進行しております。私が手助けする必要はありません。それよりも……私にとっては、今ここで貴女の隣に立つことの方が、何倍も重要な仕事なのです」
「は、はぁ……?」
マルクス卿は静かに歩み寄ると、私の目の前で立ち止まった。
大勢の生徒たちが中央の騒動に目を奪われ、誰も私たちのことなど見ていない。だが、彼の真っ直ぐな視線だけは、世界で唯一、私という人間を完璧に、正確に射抜いていた。
「クラウディア嬢。貴女のその常人離れした影の薄さは、時として大勢の人々の意識から貴女を消失させます。ですが……」
マルクス卿は、ゆっくりと私の手からフォークを取り外すと、私の小さな手を自分の大きな手で包み込んだ。
彼の掌の温もりが、肌を通じてダイレクトに伝わってくる。
「どれほど大勢の人混みに紛れようと。たとえ世界中の人間が貴女を見落とし、忘れてしまおうとも……私だけは、絶対にあなたを見失いません」
「……え? あ、はい……ん?」
私のもぐもぐ動いていた口が、完全に止まった。
マルクス卿はそのまま、胸ポケットから一枚の重厚な羊皮紙――婚姻承諾書と書かれた正式な公文書を取り出した。
「互いの実家には、すでに話を通してあります。カシウス男爵もお母上も、感涙にむせびながら快諾してくださいました。アウレリウス公爵家としても、君を私の妻として迎える準備はすべて整っております。……あとは君が承諾し、この書類にサインをしてくれればいいだけです」
「……はい……?????」
私の頭の中の思考回路が、音を立ててショートした。
互いの実家に話を……?
母の手紙……「マルクス様から手紙が届いた」「我が家に春が来た」と言っていたあの手紙は……早とちりでも何でもなく、完璧に外堀が埋め立てられた『確定事項の通知』だったというのか……!?
「ちょ、ちょっと待ってくださいマルクス様! 意味が分かりません! なぜ公爵家の貴方が、私のような影の薄い貧乏男爵令嬢と婚約を……!? これは殿下の命令による『事故の後始末』ではなかったのですか!?」
混乱の極みに達した私は、思わず声を上ずらせて問い詰めた。
すると、マルクス卿はふっと目元を緩め、普段の冷徹な仮面の下から、見たこともないほど柔らかく、そして熱を帯びた微笑みを覗かせた。
「最初は、確かに殿下の過失に対する補償の意味合いもありました。ですが……」
彼は私を包み込む手足の力を、ほんの少し強めた。
「日々、あなたの傍らに立ち、小さな不運から守り、あなたの素朴な笑顔や、美味そうに干し肉をかじる姿を見つめているうちに……気づけば私の目は、あなた以外のものを映さなくなっていたのです」
「っ……!」
「理屈ではなく、夜も中々眠れぬほど、愛おしい。とにかく放っておけないのです。そのあまりにも危うい影の薄さも、愛おしい不運体質も……他の誰にも渡したくない。私の手の中で、死ぬまで安全に守り抜きたいと、そう心から望むようになりました。……クラウディア嬢。私は君のことが好きなのです」
言葉が、胸の奥深くにストレートに突き刺さった。
ウソじゃない。
彼の瞳は、一切の揺らぎもなく、真剣そのものだった。
嘘や義理でこんな顔ができるはずがない。このハイスペックで完璧な側近は、本気で私という『背景の雑草』に恋をしてしまっていたのだ。
背後では、絶賛「言い逃れはさせませんわー!」というオクタウィア様の叫び声と「退場だ!」という殿下の怒号が響き渡るカオスな修羅場。
そして私の目の前では、学園屈指の極上クラスのスパダリによる、情熱的で、真剣すぎるプロポーズ。
温度差で風邪をひきそうな異次元の空間の中で、私は完全に呆然としていた。
「さあ……サインを。クラウディア嬢」
マルクス卿から羽ペンを手に握らされ、私は半分魂が抜けかけた状態で、言われるがままに婚姻承諾書の署名欄に『クラウディア・カシウス』と名前を書き込んだ。手が勝手に動いていた。
「……よし。これで君は、私の許嫁だ」
書き終えた羊皮紙を愛おしそうに懐に収めると、マルクス卿は間髪入れずに、私の腰を引き寄せた。
「あっ――」
次の瞬間、視界が反転した。
背後の婚約破棄劇の騒音をかき消すように、マルクス卿の顔が至近距離まで迫り――私の唇に、温かく、深く、確かな角度で彼の唇が重ねられた。
大勢の生徒たちが集まる舞踏会の会場で。
誰の目にも留まらないはずだった壁際の影の中で。
私は、学園中の令嬢が羨む最高の男性に、全身を強く抱きしめられながら、奪うような甘い誓いのキスを授けられていたのだ。
「ん……っ……!?」
息が詰まり、頭の中が真っ白になる。
唇が離れた時、マルクス卿は私の朱に染まった頬を指先で優しく撫で、満足そうに囁いた。
「これで、もう逃がしませんよ。私の可愛いクラウディア」
こうして、私クラウディア・カシウスの「モブ令嬢として静かに過ごす第二の人生」は、完璧すぎるスパダリの強硬な求婚によって、あっけなく幕を閉じたのだった。
───
後日。
「あの影の薄い、空気のようなカシウス男爵令嬢が、なぜあのアウレリウス公爵家の若き英傑と婚約したのか」と、社交界の一部で噂された。もっとも、主役の婚約破棄にかき消されたけれど。
「何か恐ろしい古代魔法で魅了したのではないか」「実は王国の隠された聖女だったのではないか」などと首を傾げる者たちばかりだったが、当のマルクス卿はどんな噂に対しても一切揺らぐことはなかった。
派手でドロドロとした表舞台や社交界を嫌う私の意思を何よりも尊重してくれた彼は、卒業後、王都での華やかな出世コースをあっさりと蹴り、私を伴って温かく穏やかな自領へと移り住むことを選んでくれた。
緑豊かな領地の屋根つきのテラスで、今日も私はマルクス卿が淹れてくれた紅茶を飲みながら、穏やかな午後を過ごしている。
相変わらず、私の影の薄さは健在だ。
街へ買い出しに行けば店員に悪気なくスルーされかけ、庭を歩けば新米の庭師に植木鉢と間違えられそうになる。
――けれど。
「クラウディア、風が冷たくなってきた。中に入ろう」
マルクス卿が、私の小さな手をぎゅっと力強く握りしめてくれる。
不思議なことに、彼とこうしてしっかりと手を繋いでいる時だけは。
世界中の人々が、通り過ぎる街の人々が、私の方を振り返り、優しく微笑んで「そこにいる大切な人」として、ハッキリと私を認識してくれるのだ。
「はい、マルクス様」
私は彼の手を握り返し、幸せな笑みをこぼした。
もう、不運に怯える必要はない。
透明人間のようだった私の世界に、一番確かな温もりをくれた大好きな人と一緒に、私はこれからも穏やかで幸せな日常を歩んでいくのだから。




