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朝、学園の正門へと続く並木道を歩いていた時のことだ。
私の不運体質は、今日も朝から元気に稼働していた。前方を走る貴族の馬車が、雨上がりの大きな水たまりの上を豪快に駆け抜けていく。
弾け飛ぶ泥水。完璧な放物線を描き、無防備な私の制服に向かって、津波のように押し寄せてきた。
(あ、終わった……着替え持ってきてないのに……)
私が諦めて目を瞑った、次の瞬間。
バサァッ!
目の前が漆黒の布地で覆われた。
衝撃も、泥の冷たさも来ない。代わりに香ってきたのは、高級な上着から漂う、ほんのりと香ばしい煙草と上質な石鹸の香りだった。
「……怪我はありませんか、クラウディア嬢」
恐る恐る目を開けると、そこには私をすっぽりと抱え込むようにして庇い、泥水のすべてを背中で受け止めたマルクス卿の姿があった。
彼の仕立ての良い高級マントの背中側が、泥でドロドロに汚れている。
「マ、マルクス様!? 大変です、お召し物が……! あんな高価そうなマントが泥まみれに……っ!」
「問題ありません。布切れ一枚、洗えば済むことです。それより、貴女のお召し物が汚れずに済んで良かった」
マルクス卿は眉ひとつ動かさず、至極当然といった体で懐から真っ白なハンカチを取り出すと、私の頬に飛んでいた小さな泥の粒を、優しく丁寧に拭い取ってくれた。
「あ……あの、自分で拭けますから……っ!」
「私に命じられた仕事ですから、遠慮なさらずに。さあ、行きましょう」
彼のあまりにも自然でスマートなエスコートに、私の心臓が不自然な跳ね方をした。なんだこの完璧すぎる男。
マルクス卿の『スパダリ』ぶりは、それだけに留まらなかった。
昼休み、図書室で資料を探していた時だ。
老朽化した書架の最上段から、重厚な革装丁の歴史書が数冊、なぜかタイミングよくバランスを崩して私の頭上へと垂直落下してきた。私の体質ではジャストフィットで頭を直撃する未来が確定している不運イベントだ。
「きゃっ――」
頭を抱えて身をすくめた瞬間、頭上からヒュッと風を切る音が聞こえた。
パシッ! ガシッ!
マルクス卿が、背後からスッと伸ばした長い腕で、落下してきた三冊の重本を、まるで熟練のジャグラーのように完璧にキャッチしていた。
しかも、私の身体をすっぽりと自分の体躯の陰に抱え込むような形で。
私の背中に、彼の堅牢な胸板の温もりが伝わってくる。
顔を上げると、すぐ至近距離に彼の整った顔立ちと、眼鏡の奥の鋭くも優しい瞳があった。
「……図書室の書棚の補強が甘いようですね。後で事務方に改善命令を出しておきます。怪我はありませんでしたか?」
「は、はい……大丈夫です……。あの、距離が近いです……」
「失礼」
彼はすっと身を引くと、抱えた本を棚に戻し、何事もなかったかのように私の手から重い鞄を受け取ってくれた。
「荷物をお持ちしましょう」
「えっ、でも、これは私の私物ですし……」
「貴女の不運体質を見るに、手荷物が多いと転倒した際の受身が取りづらくなります。私の手元に置いておくのが最も安全です」
反論の余地がない。論理的すぎて何も言えない。
さらに、講義が終わって廊下を歩いていると、清掃員の雑用係が私に気づかず、雑巾がけ用のバケツの水を盛大にぶちまけそうになった。
いつもなら私が全身びしょ濡れになって終わる場面だ。
だが、マルクス卿は雑用係がバケツを傾けたコンマ一秒前に、私の手首を掴んで引き寄せ、軽々と抱き上げるようにして数メートル後ろへバックステップを踏んでみせた。
マルクス卿の腕の中にすっぽりと収まったまま、私は呆然としていた。
(なに……? なになにこれ……!?)
些細な泥跳ねから、上空からの落下物、清掃員のバケツの水に至るまで。
私が十六年間の人生で当然のように受け入れてきた「日々の地味で理不尽な不運」の数々が、マルクス卿という存在によって、完璧かつスマートにすべてブロックされていく。
それどころか、危機に瀕するたびに彼に抱き寄せられ、庇われ、優しい言葉をかけられる。
(なにこの状況……!? 私、まるで乙女ゲームのヒロインみたいじゃない……!?)
カシウス男爵家の雑草令嬢クラウディア。背景の街路樹以下と自負してきたこの私が、学園屈指のハイスペック側近騎士に、つきっきりで守られたりしているのだ。
登下校の際、ふと気づくとマルクス卿が私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれている。
私が「あ、可愛いお花」と路傍の小花に視線を送れば、彼が静かに足を止めて私が満足するまで待ってくれる。
お腹が鳴りそうになれば、どこからか最高級の焼き菓子をサッと差し出してくれる。
完璧だ。完璧すぎるスパダリである。
前世で読んだ数々のWeb小説や乙女ゲームの中でも、ここまで至れり尽くせりなヒーローはそうそういなかった。
……胸が、キュンとする。
こんな風に大切に扱われたことなんて、今世で一度もなかった。
冷徹に見えて、実は私の些細な動きや不運の予兆を誰よりも鋭く察知し、身を挺して守ってくれるマルクス卿。眼鏡を外した時の美形ぶりや、時折見せる真面目ゆえの不器用な優しさに、私の心臓は何度も跳ね上がっていた。
「……ふふ、ちょっとだけ……幸せかも……」
夕方。講義がすべて終わり、寮への帰り道。
夕日に染まる中庭のベンチに座り、マルクス卿が淹れてくれた温かいハーブティーを飲みながら、私はぽつりと呟いた。
不運続きだった私の第二の人生に、ついに本物の春が訪れたのかもしれない。
影が薄くても、貧乏でも、こんな風に誰かに守られて生きる人生だって悪くない。むしろ最高だ。スパダリ万歳である。
……だが。
ハーブティーの湯気を眺めながら、私の頭の片隅で、長年培ってきた「不運体質としての経験則」が、静かに警鐘を鳴らし始めた。
(……ちょっと待って?)
私はカップを持つ手を止め、冷や汗をかいた。
私の体質は、「異常なまでの幸運と不運の偏り」だ。
今までの人生、小さな不運が日常的に小出しに排出されていたからこそ、命に関わるような大事故(巨大な不運)は免れてきたのではないだろうか?
なのに、ここ数日。
マルクス卿という最強の盾によって、私に降り注ぐはずだった「小さな不運(泥跳ね、落下物、バケツの水など)」が、すべて完璧に打ち消されている。
排出されるはずだった不運のエネルギーが、どこにも行き場を失い、私の周囲にどんどん「貯蓄」されているのではないだろうか?
さらに言えば、マルクス卿という最高峰のスパダリに守られるという「過剰なまでの大幸運」が、今現在進行形で私に降り注いでいる。
幸運と不運の収支決算。
エネルギーの法則。
(……これ、不運のダムが、限界まで溜まりまくってるんじゃない……?)
小出しにされなかった不運たちが、マルクス卿の護衛によって堰き止められ、巨大な濁流となって私の頭上に溜まっているイメージが脳裏をよぎる。
もし、この溜まりに溜まった不運のエネルギーが、何かの拍子に一気に爆発したら――?
「クラウディア嬢? どうかされましたか、顔色が悪いようですが」
隣に立つマルクス卿が、心配そうに屈み込み、私の顔を覗き込んできた。
眼鏡の奥の整った顔が、夕日を受けて黄金色に輝いている。本当にかっこいい。完璧なスパダリだ。
「あ……いいえ! なんでもありません、マルクス様……!」
私は引きつった笑顔で答えたが、背中を冷たい汗が吹き抜けていくのを止められなかった。
胸の高鳴りと、ヒロイン気分に浮かれる甘い高揚感。
そしてそれ以上に、背筋を凍らせる「近々、とんでもなく巨大で最悪な不運がドカンと爆発するのではないか」という予感。
夕空を見上げながら、私は静かに喉を鳴らした。
私のモブとしての日常は、スパダリの登場によって、より一層怪しく、そして危険な方向へと加速し始めていた。




