記録は語る、そしてヒーローの足音。
学園の朝は、相変わらず穏やかで、そして私にとっては相変わらず理不尽なトラブルの連続で幕を開ける。
登校中、校門の手前で足元に転がっていた小さな石ころに躓きかけ、なんとか姿勢を立て直したと思ったら、頭上からカラスが落とした小さな木の実が額にクリーンヒットした。痛さよりも「またか」という諦めが先に立つ。
私はポケットからハンカチを取り出し、額を軽く拭うと、ため息とともに学園の敷地へと足を踏み入れた。
昨日の今日だ。階段で第一王子殿下に背中を踏みつけられ、その挙句に「壁に向かって独り言を呟く気味の悪い幽霊」として生徒たちの間で都市伝説化された傷は、未だに心の奥でジクジクと痛む。
とはいえ、私はカシウス男爵家の長女だ。雑草のような生命力と、背景と同化する光学迷彩めいた存在感の薄さだけが取り柄である。目立たず、騒がず、静かに息を潜めていれば、噂なんて数日も経てば新しいゴシップの中に消えていくはずだった。
しかし、どんなに存在感が薄く、光学迷彩レベルで気配が消えていようとも、この世には決して嘘をつかないものが存在する。
それは「数字」と「記録」だった。
午後の講義が終わった放課後、私はいつものように学園の裏手にある薬草園の温室の影で、自家製の干し肉を小さくかみちぎっていた。
固い干し肉を噛み締めながら、午後の講義で教授達に完全に無視された悲しみを噛み殺していた、まさにその時である。
カツン、カツン、と規則正しい靴音が近づいてきた。
先日までの静けさを破るその足音は、迷いがなかった。まっすぐに、私が座り込んでいる温室の陰へと向かってくる。
(……え? 嘘でしょう?)
私は干し肉を口に咥えたまま、静止した。
普段なら、私という存在の認識を拒絶するかのように通り過ぎるはずの足音が、ぴったりと私の目の前で止まる。
「――見つけましたよ、クラウディア・カシウス様」
頭上から降ってきたのは、冷徹なまでに落ち着いた、しかしどこか晴れやかな声だった。
見上げると、そこには眼鏡のフチを指先で軽く押し上げながら、私をまっすぐに見下ろす人物がいた。第一王子ルキウス殿下の筆頭側近、マルクス・アウレリウス卿である。
彼の視線は、私の頭上でも、背後の温室でもなく、完璧に私の「両目」を捉えていた。
異世界に転生して以来、これほどまでに他人と正真正銘の「目線」が合ったことがあっただろうか。私は恐怖のあまり、咥えていた干し肉をポロリと落としそうになった。
「あ……あの、マルクス様……? 私が、見えているのですか……?」
「ええ、見えていますとも。カシウス男爵家長女、クラウディア様。……ふむ、なるほど。近くで見ても、周囲の風景と同化するかのような独特の密度の低さですね。意識を他所に逸らした瞬間、認識から滑り落ちそうになります。……ですが、記録は誤魔化せません」
マルクス卿は胸ポケットから一冊の小さな革張りの手帳を取り出し、パラパラとページをめくった。
その手帳には、細かな文字と数字がぎっしりと書き込まれていた。
「……あの、なぜ私の名前を? 誰も私に気づいていないはずですが……」
「魔法や噂話などという不確かなものに頼ったわけではありません」
マルクス卿は淡々と、しかし極めて事務的なトーンで語り始めた。
「私は学園内の『不整合』を洗いました。まず、昨日のセネカ教授による『魔法基礎論』の講義。教授が回収した出席表は32枚でした。しかし、講義室の着席人数を教授が目視で確認した際、彼は31人とカウントしている。1枚の出席表が、誰の姿も確認できないまま回収されているのです」
(うわぁ……私の出欠票、しっかり出されてたけどスルーされてたやつだ……)
「次に、救護室のアントニウス先生の管理記録です。昨日の午後、外傷用の消毒液とガーゼ、そして軟膏の在庫がそれぞれひとつずつ減少していました。しかし、受診患者の名簿には誰も記録されていない。代わりに、机の上には理由不明の銅貨が1枚置かれていた。……アントニウス先生は『怪奇現象だ』と首を傾げておられましたが、正規の代金を支払って勝手に処置をして去った真面目な生徒がいた、と考えるのが合理的です」
(痛いところを突かれすぎている……! 救護室での自力手当までバレてる……!)
「そして決定打は、階段での騒動です。オクタウィア公爵令嬢は『似た色の服を着た者と間違えて突き落とした』と周囲に漏らしていた。昨日、特待生ユリアと同じ淡い水色の衣類を着用して登校していた生徒を事務室の登校記録から照合した結果――当てはまるのは、カシウス男爵家のクラウディア様、あなたただ一人でした」
マルクス卿はパタンと手帳を閉じ、眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「魔法的な気配遮断でもなく、特別な隠密スキルでもない。単に『極端に影が薄く、周囲に認知されにくい』という定常体質。それゆえに現場に残された事務的な数値のズレ……それらを消去法で精査すれば、あなたがそこにいたという事実は自ずと導き出されます」
……警察の鑑か。
乙女ゲームの世界観で、まさか監査役のような事務的・消去法的アプローチで自分の存在を割り出されるとは思ってもみなかった。魔法バトルでもドラマチックな運命でもなく、記録の不整合から追跡されるヒロイン(モブ)がどこにいるというのか。
私が脱力していると、マルクス卿の背後から、ガサガサと音を立てて誰かが姿を現した。
「マルクス! 本当にいたのかい!?」
眩いばかりの金髪を揺らし、息を切らせて駆け寄ってきたのは、第一王子ルキウス・アルビヌス殿下その人であった。
殿下は私を見るやいなや、マルクス卿に「あ、そこかい? どこだ? あ、そのあたりの空間か!」と確認しながら、ぐっと腰を落とし、私に向かって大きく頭を下げた。
「クラウディア嬢! 本当に申し訳なかった!」
「ひえっ!? で、殿下!?」
王国の第一王子が、泥の上にしゃがみ込んでいる貧乏男爵令嬢に向かって、深々と謝罪の礼を捧げている。前代未聞の光景であった。
「私の不注意で君を階段の下で踏みつけてしまい、あろうことか介抱もせずに去ってしまった! さらに……私の不手際ゆえに、君が周囲から『誰もいない壁に喋りかける不審者』などという心ない誤解を受ける原因を作ってしまった! すべては私の不徳の致すところだ。どのような処罰でも受けるつもりだ!」
「ち、違います殿下! 頭をお上げください!」
私は慌てて手をぶんぶんと振った。
「すべては私の存在感が薄すぎるのが原因なのです! 殿下が踏んでしまわれたのも、私の背中がたまたまそこに転がっていたからで……! それに『不審者』扱いなんて、日常茶飯事みたいなものですから! だからどうか、大ごとにしないでください。この件は今すぐ綺麗さっぱり忘れていただくのが、私にとって一番の救いなのです!」
本心だった。王子様と関わって目立ってしまえば、それこそ悪役令嬢のオクタウィア様や、ヒロインのユリアちゃんを巡るドロドロの愛憎劇に巻き込まれかねない。モブはモブらしく、日陰で静かに干し肉をかじっていたいのだ。
しかし、私の切実な願いは、真面目すぎる王子様には届かなかった。
「忘れるなど、王家の名誉と私の良心が許さない!」
ルキウス殿下は固い決意を秘めた瞳で私を見つめ(若干、視線は私の左耳のあたりにズレていたが)、言った。
「君のようなつつましく、害のない令嬢が、私の不手際で不利益を被り続けるなどあってはならない。……マルクス!」
「ハッ」
「本日より、そなたに命じる。クラウディア嬢の側に付き、彼女の日常を全面的にサポートするんだ。彼女がこれ以上、理不尽な不運や誤解に晒されないよう、王家の名において護衛・補佐を!」
「……かしこまりました。元より、私もあの日、違和感を放置した責任がございます。誠心誠意、サポートさせていただきます」
マルクス卿は滑らかな動作で胸に手を当て、完璧な一礼を私に捧げた。
「え、あ、ちょっと待ってください! マルクス様は殿下の筆頭側近で、学園でも超有名人ですよね!? そんな方が私についていたら、逆に目立ちすぎて死んでしまいます!!」
「ご安心ください、クラウディア様」
マルクス卿はフッと静かに微笑んだ。その笑顔は完璧な貴族のそれであり、一切の反論を許さない圧があった。
「目立たぬよう同行しよう」
こうして、私の「静かなモブライフ」は、王子の側近という伯爵令息兼優秀すぎる補佐官がピッタリと追従するという、予期せぬ事態へと突入したのだった。
───
翌日から、私の日常生活は劇的な変貌を遂げた。
マルクス・アウレリウスという男は、恐ろしいほどのスパダリであった。




