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しかし、不運体質と影の薄さを長年抱えてきた私は、この無害な生活魔法を独自に極めていた。
たとえば「洗浄」の魔法の出力を極限まで絞り、ピンポイントで服についた特定の泥汚れだけを落とす技術。あるいは「微風」の魔法を自身の周囲数ミリだけに展開し、鳥のフンが落ちてきた瞬間に軌道をほんの数センチだけ外す緊急回避術。
「うーん……昨日は不意をつかれたから避けられなかったけれど、オクタウィア様の突っ張りも、あらかじめ『微風』を背中に張っておけば緩和できたかもしれないわね……」
ノートに細かい魔法陣の改変案を書き込みながら、私は呟く。
転生者らしい便利能力など何一つないが、日々の地道な工夫こそが、モブとして平穏に生き残るための武器なのだ。
その時だった。
薬草園の入口付近から、静かな靴音が近づいてくるのが聞こえた。
ルーファスさんの引きずるような足音ではない。洗練された、重厚な足音だ。
(……誰かしら。珍しいわね、こんな場所に人が来るなんて)
私は息を潜め、温室の観葉植物の陰からそっと外を覗き込んだ。
そこにいたのは、二人の青年だった。
一人は、一目でそれと分かる、まばゆい金髪を持った青年――ルキウス・アルビヌス殿下。
そしてもう一人は、黒髪をきっちりと切りそろえ、鋭い眼鏡をかけた知的な雰囲気の青年。王子の側近であり、皇立騎士団の若き幹部でもあるマルクス・アウレリウス卿だった。
「殿下、このような場所にまでお探しに来られたのですか。あの階段での不審な出来事の真相など、放っておけばよろしいものを」
マルクス卿が、呆れたような、しかしどこか諦めたような溜め息をつきながら言った。
「そう言うなよ、マルクス。私は確かに何かを踏んだ感触があったのだ。それに、あの場にいた令嬢は、怪我をしていたかもしれないだろう?」
ルキウス殿下は、真剣な表情で周囲の薬草を見渡している。その眼差しは非常に高潔で、王族としての慈愛に満ちていた。
……ただし、彼の視線は、完全に私から数メートル離れた空のプランターに向けられていた。
「ですが殿下。学園の出席簿や名簿をすべて確認しましたが、昨日あの時間にあの階段を通る予定のあった令嬢など存在しません。そもそも、生徒たちの間では『階段の幽霊』などと噂されている始末です」
「幽霊なものか。温かみのある……いや、少し貧相な背中の感触だった。間違いなく人間の令嬢だ」
(……貧相な背中で悪かったわね)
私は心の中でそっとツッコミを入れた。
どうやらルキウス殿下は、思った以上に生面目な性格らしい。わざわざ私という存在(踏み台)を探すために、わざわざこんな学園の隅まで足を出向いているのだから。
「殿下、そろそろ午後の戦略戦術論の講義が始まります。お戻りになりましょう」
「ふむ……そうだな。だが、私は諦めないぞ。あのような影の薄い……いや、可憐な令嬢を放置するのは、アルビヌス王家の名誉に関わる」
ルキウス殿下は力強く拳を握りしめると、くるりと踵を返した。
その拍子に、彼の豪華な金糸の刺繍が施されたマントの裾が、プランターの角に引っかかった。
あ、と思う間もなかった。
マントが強く引っ張られ、その上に置かれていた重い陶器製の鉢植えがグラリと傾く。
そのまま落ちれば、ルキウス殿下の足元に直撃するか、あるいは高価な衣装が泥まみれになる位置だ。
王子様が怪我をすれば、この薬草園が立ち入り禁止になるかもしれない。そうなれば、私の貴重なサボり場が失われてしまう。
私は反射的に、指先をわずかに動かした。
(『微風』――局所指向、出力最小)
パシッ。
目に見えない小さな風の塊が、倒れかけた鉢植えの側面をかすかに叩いた。
ほんの数ミリ、軌道が変わる。
鉢植えはルキウス殿下の靴のわずか数センチ横の地面に落ち、泥を跳ね上げることなく、カチャンと軽い音を立てて転がっただけで留まった。
「おや……? 鉢植えが落ちてきたか。危ないところだった」
ルキウス殿下は足を止め、足元の鉢植えを見下ろした。
「不吉ですね。やはりこの場所には何か……」
マルクス卿が眉をひそめ、周囲を警戒するように見回す。
私は観葉植物の陰で、完全に気配を消し、呼吸すら止めていた。
二人の視線が薬草園全体を走る。だが、当然ながら私の姿が彼らの意識に捉えられることはない。私はただの背景であり、そこに存在する空気と同じなのだから。
「……気のせいか。風が吹いたのかな」
ルキウス殿下は首を傾げると、それ以上は追及せず、マルクス卿とともに立ち去っていった。
遠ざかっていく靴音を聞きながら、私は大きく息を吐き出した。
「ふう……危なかったわ」
胸を撫でおろし、腰を上げようとした、その時。
カツン。
一度立ち去ったはずの足音が、ひとつだけ、すぐ近くで止まった。
「……誰だ?」
低い、凛とした声が頭上から降ってきた。
驚いて顔を上げると、そこには立ち去ったはずの側近――マルクス・アウレリウス卿が立っていた。
彼の鋭い眼鏡の奥の瞳が、まっ振りに私を捉えている。
……いや、正確には違った。
彼の視線は、私の顔ではなく、私の頭上十センチほど上、温室のフレームあたりを凝視していた。
「……妙だな。誰もいないはずなのに、確かに今、誰かが息を吐く気配がした」
マルクス卿は眉間に深いシワを寄せ、私のすぐ目の前で腕を組んだ。
私の鼻先と、彼の服の生地との距離は、わずか数十センチ。彼が半歩前に出れば、私と激突する位置関係だ。
「気のせいでしょうか……。しかし、先ほどの鉢植えの動きも不自然でした。まるで、目に見えない何かが軌道を外したかのような……」
彼は独り言をつぶやきながら、私という人間がそこに「立っている」ことには気づかないまま、じっと私の頭上の空間を見つめている。
息を吸うことすらできない。ここで私が動けば、彼の体にぶつかり、確実に「不審者」として捕縛されるだろう。
私は石のように硬直し、目だけをパチパチと動かした。
(お願いだから……早く行って……私の足が痺れちゃう前に……)
マルクス卿は数分間、じっとその場に佇み、思案に暮れていた。
彼のような優秀な側近は、違和感に対して非常に過敏なのだろう。私の影の薄さという光学迷彩を前にしても、空間の「歪み」のようなものを感じ取っているのかもしれない。
「……マルクス! どうした、遅いぞ!」
遠くから、ルキウス殿下の呼ぶ声が響いた。
「……失礼いたしました。今参ります」
マルクス卿は最後にもう一度、私の頭上の空間を鋭く睨みつけると、ゆっくりと踵を返して去っていった。
今度こそ完全に静寂が戻った薬草園で、私はその場にへたり込んだ。
「……心臓に悪いわ……」
痺れた足を擦りながら、私は深くため息をついた。
どうやら、私の平穏なモブライフは、私が思っている以上に薄氷の上にあるらしい。
関わりたくないメインキャラクターたちが、なぜか私の周囲をうろつき始めている。
私は静かに立ち上がると、泥のついたスカートを払い、午後の講義に向けて静かに歩き出した。
どうか明日こそは、何も起こらない普通の一日になりますように――そう、心の中で小さく祈りながら。




