都市伝説になった令嬢
階段の最下層に一人取り残された私は、痛む膝を押さえながら、ゆっくりと身体を起こした。
骨に異常がないことだけが救いだったが、制服の裾は泥で汚れ、両肘には擦り傷ができていた。周りに人影はない。通りかかった生徒たちは、誰もが私という存在を「見なかったこと」にして、そそくさと去っていった。
「壁に向かって一人で演技をする変な生徒」という不名誉な認識すら、彼女たちの記憶からは数分で消え去るのだろう。私の影の薄さは、時として記憶の定着さえ拒害するのだから。
私は制服の埃を軽く払い、ため息を吐き出すと、足をひきずりながら保健医官の詰所へと向かった。
学園の救護室は、重厚な木製扉の奥にあった。
室内には薬草と消毒液の匂いが充満しており、年配の医官であるアントニウス先生が、机に向かって書類を整理していた。
「あの、失礼します。少し階段から転びまして……」
そう声をかけたのだが、アントニウス先生は顔を上げない。羊皮紙にペンを走らせるカリカリという音だけが室内に響いていた。
「先生」
私はデスクの前に進み出で、少し大きめの声で呼びかけた。だが、先生は「ふむ、今日の薬品の在庫は……」と独り言をつぶやき、そのまま私を透過するように視線を動かして、後ろの棚へ歩いていってしまった。
完全に存在を察知されていない。
声を張り上げて肩を叩けば気づいてはもらえるだろう。だが、今の私は全身の打撲で声を発するのも億劫だった。これ以上無駄な体力を消費するくらいなら、自力で処置したほうが早い。
私は黙って棚から消毒液とガーゼ、それから傷薬の軟膏をひとつ手に取り、机の上に銅貨を一枚置いておいた。正規の代金だ。そのまま自分で肘の傷を拭い、薬を塗ってガーゼを当てる。慣れた手つきだった。幼少期から些細な不運で日常的に怪我を負ってきたおかげで、手当の技術だけは無駄に上達している。
手当を終え、救護室をあとにしようとした時、後ろでアントニウス先生が「ん? なぜこんなところに銅貨が……不気味だな」と首を傾げる声が聞こえた。私は振り返ることもなく、静かに扉を閉めた。
自分の寮部屋に戻ると、全身の緊張が解けて、ベッドの上に倒れ込んだ。
私の実家であるカシウス男爵領は、王国の北西部に位置する貧しい土地だ。特産品といえば、硬い岩塩と、干した根菜くらいしかない。父は根っからの真面目人間だが経営の才能がなく、母は古いドレスを解いて新しい服を作る裁縫の技能だけが突出している。
そんな家から学園に通わせてもらっているだけでも感謝すべきなのだが、生活費は切り詰めに切り詰められている。
机の上には、今朝届いた実家からの小包が置かれていた。
中身を確認すると、母の手紙と、固く絞められた干し肉が数片、それに乾燥させた自家製の薬草茶が入っていた。
『クラウディアへ。学園での生活はどうですか。カシウス家の名は誰も知らないでしょうが、どうか身を低くして、無事に卒業することだけを考えなさい。追伸、お父様がまた新しい鉱山掘削の投資に失敗しました』
相変わらずの文面だった。波風を立てず、背景の雑草のように生きる。それがカシウス家の家訓であり、私に与えられた唯一の生存戦略だ。
「……ま、そうよね」
私は乾いた声で呟き、干し肉を一口かじった。塩辛くて硬い味が、疲れた身体にじわじわと染み渡っていく。
今日の階段での出来事は、事故だ。たまたま悪役令嬢のオクタウィア様と、ヒロインのユリアちゃんの争いに巻き込まれ、運悪く第一王子のルキウス殿下に踏みつけられただけ。
王子の側近が「後日お詫びを」と言っていたが、あの方々が私の名前を突き止められるはずがない。学園の学籍簿には私の名前が記載されているはずだが、事務員がそのページをめくる際、二枚重なってスルーされる未来が容易に予測できた。
これでいいのだ。王子様と関わっても良いことなど何一つない。
明日からは、さらに存在感を消して暮らそう。私はそう心に決めて、早々に眠りについた。
──
翌日。
昨日の全身打撲の痛みが残る身体を抱え、私は朝の講義室へと向かった。
いつも通り、一番後ろの窓際、日陰になる席に身を置く。隣の席の令嬢は、私が座ったことにも気づかず、友人と熱心に噂話をしていた。
「ねえ、聞いた? 昨日の午後、東校舎の階段に『幽霊』が出たんですって」
「まあ、幽霊? どんなの?」
「うんとね、誰もいないはずの壁に向かって、擦り切れた服を着た少女が何か怨念を呟いていたらしいわ。第一王子殿下もお通りかかったのだけど、殿下のお姿すら認識できないほど強い怨念に囚われていたとか……」
「おそろしいわね……近寄らないようにしないと」
……都市伝説化していた。
しかも「壁に向かって一人芝居をしていた怪しいヤバい奴」から「階段に巣食う怨霊」へと、尾ひれがついてアップグレードされている。
自分の名前すら残っていないのは好都合だったが、冤罪で幽霊扱いされるのは少々複雑な気分である。私は黙って教科書を開き、顔を伏せた。
午前中の「魔法基礎論」の講義を担当するのは、厳格で知られるセネカ教授だった。
セネカ教授は一通り講義を終えると、教壇から生徒たちを見渡した。
「では、前回の課題について、誰かに答えてもらおうか。……そうだな、アウレリウス」
「はい、教授」
指名されたのは、最前列に座る公爵家の令息だった。彼は滑らかに模範解答を口にし、周囲から感嘆の視線を浴びる。
「うむ、完璧だ。……では次に、カシウス」
セネカ教授が私の名前を呼んだ。
珍しいこともあるものだ。出席すら飛ばされる私が、講義中に指名されるなんて。
私は軽く息を整え、席から立ち上がろうとした。
「……カシウス? 不在か。まあいい、では次、ブルトゥス」
「……え」
立ち上がりかけた私の存在を、セネカ教授は一切認識することなく、視線を次の生徒へと移動させていた。
私は中腰の姿勢のまま静止した。
呼んだ。確かに教授は私の名前を呼んだのだ。だが、呼んだ次の瞬間に私の存在を網膜からロストしたらしい。
周囲の生徒たちも、誰も私を見ていない。私はそっと、何事もなかったかのように椅子に座り直した。
自分の存在感がここまで空気と同化していると、もはや怒りや悲哀を越えて、一種の職人技のような誇りすら芽生えてくる。そう、私は背景。この世界の美しいグラフィックを構成する、一枚の壁紙なのだ。
講義が終わると、私は一人で学園の裏手にある薬草園へと足を運んだ。
アルビヌス魔法皇立学園の薬草園は、広大な敷地の隅にあり、珍しい魔法植物から雑草同然の薬草までが整然と植えられている。
ここは人通りがほとんどなく、私にとって最高の隠れ家だった。
何より、薬草の手入れを黙々とおこなう老庭師のルーファスさんは、耳が遠くて目も悪いため、私がいても「そこに誰かがいるような、いないような気」くらいのスタンスでいてくれる。互いに干渉しない、完璧な距離感だった。
私は土の匂いが漂う温室の影に腰を下ろし、鞄から取り出した自家製のノートを開いた。
ここでの私の日課は、自分の持つ「生活魔法」の微調整と、薬草の観察である。
この世界の人々は、火や水といった攻撃的な属性魔法を重宝する。第一王子のルキウス殿下などは、圧倒的な光属性の魔法の使い手らしい。
一方、私のような貧乏貴族のモブに使えるのは、「洗浄」や「乾燥」といった、日常に役立つ程度の微小な生活魔法のみだ。




