メガネと復讐
――僕は、ヒメカにキスをした。
思考ごと喰らうような、最高に気持ちの良いキス。
息の仕方を知らないのか、ヒメカは口の端から涎を垂らしながら、ふうふう言っている。
全身がぴくぴく痙攣し、徐々に脱力していく。
否が応でも熱が上がるような、良い反応だ。
やがて、完全に力が抜け切ったので、ゆっくりと解放してあげた。
って……気絶してるし。
「………………ひどい」
それを見ていたツバメが、小さく言う。
「それは私が、私のために教えたキスなのに……そんなつまらないギャルにあげるなんて……!」
あれ、泣いている。
さっきまでの悪の幹部ヅラはどこへいったのやら。
ヒメカの逆・賜魔術に包まれて、毒気が抜かれちゃった?
「何を今更。僕を捨てたのは君の方でしょ?」
「でもっ……だからって、そんなコに……っ」
「……『そんなコ』じゃないよ」
僕は、ヒメカを抱き締める。
僕のために傷を負った彼女を、大事に大事に抱き締める。
「少なくとも僕は、ヒメカといる方が楽しい……ツバメといるよりもね」
「っ……!」
その目から、また涙が流れる。
それを見ても愛しさが湧かないことに、僕は少しほっとした。
「そんなに悲しまないで。ほら、ツバメが見たがっていたもの……見せてあげるから」
さぁ……いよいよ、復讐の総仕上げだ。
僕はヒメカを抱くのと反対の手を、上にかざす。
そして……今しがたのキスでヒメカにもらった規格外の貰魔力を使い、分厚い雲を顕現した。
同時に、漂い始める冷気。
白くなる吐息。
やがて、黒い雨の代わりに、ふわふわとしたものが空から降り始めた。
「これは…………雪……?」
……そう。
あの冬降らなかった、約束の雪。
ツバメは覚えていないかもしれないけれど。
「……一緒に作ろうって、言ったよね」
言って、僕は……顕現する。
学院の時計塔よりもずっと背の高い――超巨大な雪だるまを。
「あれから何度も練習して、やっと上手に作れるようになったよ……可愛いでしょう?」
ツバメの顔が引き攣る。
汗を垂らし、ガクガク震えてる。
へぇ、そんな顔もできるんだ。知らなかった。
僕は心の底から満足して……
にこっと笑いながら、こう伝える。
「――ありがとう、ツバメ。そして…………さようなら」
僕は、手を振って……
超巨大雪だるまを、ツバメに叩きつけた。
「………………!!」
雪に埋もれ、見えなくなるツバメ。
そのまま声もなく落下し…………
ホトギが張ったシールドの上に、ボフッと落っこちた。
あれだけ柔らかな雪にしておいたから、死ぬことはないだろう。たぶん。
これで僕の復讐は完了。
嗚呼、すっきりした。
ツバキさんにインカムで終わったことを伝えると、ツバメを回収しに来てくれると言う。
学院の内外で暴れていた邪神徒もすべて鎮圧したらしい。一件落着だ。
問題は、僕の腕の中で気絶したままのヒメカ。
ツバメの前でヒメカにキスすることは、最初から計画していた。
ヒメカが齎す膨大な貰魔力を集めるため、そして、ツバメに嫉妬させるために。
つまり、僕は……ヒメカの大事なファーストキスを、復讐のために奪ってしまった。
僕をときめかせようといつも頑張り、僕のために傷だらけになってくれたヒメカを、利用してしまった。
今さらだけど……罪悪感に押し潰されそうだ。
――またデートに。
そんな約束をしていたけれど……
「…………もう、合わせる顔がないな」
目覚める気配のないヒメカを、もう一度そっと抱き締めた――その時。
明るくなったはずの空が、再び暗くなった。
ハッとなって見上げると……あの悪夢のようなオーロラが、どういうわけか再び現れていた。
そして、ツバメが落ちた場所から黒い靄が上がり、上空に集まり始める。
まさか……ツバメと融合していたアメノの断片が、分離し始めている……?
「ツバキさん、非常事態だ。アメノの断片が……っ」
そこで、猛烈な風が吹き荒れ、言葉が止まる。
伊達メガネが、どこかへ飛ばされてゆく。
なんとか目を開けると、そこには――禍々しい異形が、音もなく浮遊していた。
光をも吸い込む漆黒の巨体。
人の形を模してはいるが、不安定な液体で構成されており、端から重油のような雫が絶えず零れている。
背にはドロリと溶けた黒い翼。
頭上には、人の頭蓋骨を集めて出来た三重の輪。
そして、頭にあたる部分には、濁った真紅の目玉が一つ、埋まっていた。
アメノの断片に遭遇したことは何度かあったが、これは明らかに異質……見ているだけで精神が恐怖と絶望に染まってゆく。
彼こそが絶対的な捕食者で、自分は非力な被捕食者。
抗うだけ無駄。
享受しろ、己の立場を。
そう本能が、全力で訴えかけてくる。
『――足りない……』
聞くだけで吐き気を催す悍ましい声が、脳に直接降ってくる。
『――供物を……我が再誕に相応しい贄を……もっと……寄越せ……』
吐き気と頭痛に霞む視界が捉えたのは……巨大な手。
暗雲を割り、オーロラを裂き、地上の全てを掌握せんとする、枯れ枝のような手。
その手が、闇を凝縮してゆく。
放たれたら最期、人々の心を永久に蝕むであろう邪念の塊……
この断片は、アメノ本体に限りなく近い存在のようだ。
ヨコハマ中の人々のゾウオウラを集め、力をつけて、本体を復活させるつもりなのだろう。
……止めなければ。
なのに、身体が動かない。
諦めろ。享受しろ。
それが理なのだと、本能が囁く。
「……くそ…………ッ」
それでも僕は抗う。
だって、僕の腕にはヒメカがいる。
ここで動かなければ、ヒメカが……ヒメカの笑顔が、永久に失われることになる。
それだけは、絶対に許せない。
僕は本能に逆らい、腕を振るった。
残りわずかな貰魔力で炎を、雷を、風を、氷を顕現し、放つ。
しかし、まるで歯が立たない。
頭を飾る髑髏の輪の一つを僅かに破壊しただけ。
アメノの断片は目玉をこちらに向け、言う。
『――虫けらが無駄な足掻きを……まずは貴様から我が贄にしてやろう……』
泥のような身体から、鋭利な槍が顕現する。
その切先が、こちらに向く。
残りの貰魔力ではとてもじゃないが防げない。
……終わりだ。
せめてヒメカだけは護らなきゃ。
ヒメカだけは、絶対に……
『――死ね……虫けら』
ヒメカを庇うように背を向ける。
空を裂く槍の音。
迫り来る痛みと絶望に、すべてを覚悟した――
――その時。
「――虫けらなんかじゃない」
……腕の中から、声がした。




