混乱
静まり返った部屋のなかに、時計の秒針の音だけがやけに大きく響いていた。
もう誰に遠慮する必要も、隠し立てする必要もない。本当の意味で、完全に自分たち「だけ」の時間が始まったのだ。
恭介はソファの端に腰掛けたまま、ぼそっと呟いた。
「……2人きりか」
「そうだよ。ずっと2人きりだよ」
カナが嬉しそうに、けれどどこか落ち着かない様子で微笑む。
そのあまりにもドラマチックで、綺麗すぎる結末に、恭介は急にむず痒いような気恥ずかしさを覚えた。胸の奥がこそばゆくて、この甘い空気に真っ向から向き合うのがたまらなく気恥ずかしい。
何かこの気まずさを誤魔化さなければ、自分の気恥ずかさが爆発してしまいそうだ。
恭介はわざと悪びれたような、冷めた響きの軽口を吐いた。
「……彼女と別れたからといって、カナと一緒になるとは言ってないだろ……?」
瞬間、部屋の空気が凍りついた。カナの目が点になり、次の瞬間には信じられないものを見るような色に変わる。
「は? はぁぁぁぁ?」
「そんな約束したか?」
「ちょっと? 本気で言ってるなら、恐いんだけど……?」
引きつった笑顔で睨みつけてくるカナの反応を面白がりながら、恭介はわざとらしく彼女の体に手を伸ばし、肩を引き寄せた。
「え、ちょっと!ちょっと!それが目的なわけ? 私の体が目的なの?」
「そうだよ。セフレのつもりだけど?」
フッと息を吐くように言ってやった恭介に、カナはあきれたように首を傾げたあと、どこかふっきれたような笑みを浮かべる。
「ま、私も最初から恭介さんのことは体目的だから丁度良かったわ」
トゲのある言葉とは裏腹に、その声にはもう一切の不安の影もなかった。
恭介はニヤっと笑った。つられるように、カナも同じようにニヤっと笑い返す。
――ふと、言い訳のように軽口を叩き合ったあとの、わずかな静寂。
ふざけ合った手のひらの隙間から、カナがそっと指を伸ばし、恭介のそれに絡めた。さっきまでの冗談めかした空気とは違う、確かめるような、冷めない体温。
恭介はそれに驚きながらも、握られた手をしっかりと力強く握り返した。
すべてはこの繋いだ手のひらの下に溶けていく。不器用な二人の、これが彼らなりの新しい始まりだった。
カナは再び恭介の部屋へと自分の荷物を運び込む。
少しの間だけ、別の女に生活の匂いを荒らされ、邪魔をされたけれど——そんなものはすぐに追い払った。やっぱりこの部屋は、私の城なのだ。
今まで離れ離れになっていた空白の時間をすべて帳消しにするかのように、カナは貪欲に、そして執拗に恭介を求め続けた。
失いかけた恐怖と、ようやく取り戻したという確信が、彼女の指先や吐息のすべてに熱を帯びさせる。
恭介もまた、その拒めない重みと圧倒的な熱量を受け止めながら、泥沼の底のような、けれど誰にも邪魔されない二人だけの世界。
再び始まった二人だけの生活。その日常のなかにふと訪れる静寂の中で、恭介は別の現実的な問題に行き当たっていた。
——お互いにもう、いい歳だ。
このままなあなあで関係を続けるのではなく、大人の「けじめ」として結婚するべきなのだろうか。
けれど、頭に浮かんだその選択肢を、恭介はすぐに自分で引っ込める。
お互いに一度離婚を経験している、いわゆる「バツイチ」だ。形骸化した結婚制度や、それに伴う面倒なしがらみに、二人とも幻想を抱いてなどいない。何より、今の危うくて泥臭い関係が気に入っているカナが、果たして「結婚」という枠組みを望んでいるかと言えば、答えはむしろ「NO」に近い気がした。
婚姻届という紙切れや世間体なぞよりも、今、この部屋で肌を合わせ、お互いの存在を貪り合う密室の絆のほうがよほど確かだ。
けじめなんて言葉でこの関係を型に嵌めてしまったら、せっかく取り戻したこの絶妙なバランスが壊れてしまうかもしれない——。
カナはどう思ってるんだろう…?
いつか聞いてみよう。
恭介は煙草の煙を吐き出しながら、答えの出ない思考を頭の片隅に追いやるのだった
ーー
カナはソファに座って大好きなバラエティ番組を見ながら笑っていた。
「結婚しよう」
「あはは……え……? なに?」
テレビから流れる陽気な笑い声と、突然落とされたあまりにも不釣り合いな一言のギャップに、カナの表情が完全に固まる。
(え? 今、結婚しようって言った……?)
目の前にいる男の顔を、カナはただじっと見つめたまま、動けなくなる。
(この目の前にいる男……私に、結婚しようって言った?)
耳に入ってきたはずの音が、頭の中で文字に変換されていくのに、なぜか意味だけが滑り落ちていく。
(私に? 私に言った?)
(今、私、結婚しようって言われたの……?)
そんな言葉がこの人から発せられるなんて微塵も思っていなかった。
思考の回路が完全にショートして、目の前の現実と自分の認識が噛み合わない。
カナは苦笑いを浮かべ、乾いた声を漏らした。
「あはは……え……? こ、怖いよ……な、なに?」
あまりの予想外と衝撃に、感動するどころかパニックを起こして完全に反応を間違えてしまう。
普段の元気さや強がりがすべて剥がれ落ち、うろたえるあまり変な汗が噴き出す。
乾いた笑いを引きつらせたまま、カナは後ずさりそうになる足を必死で踏みとどめる。
思考のキャパシティを超えてパニックを起こしたカナは、この圧倒的な現実から一旦逃げ込むように、すたすたと浴室へ向かった。
「ちょ、ちょっと……シャワー浴びてくるね……」
上擦った声を残して脱衣所に駆け込み、服を脱ぐとそのままシャワーの蛇口をひねる。
冷たい水か、あるいは熱すぎるお湯か。感覚の麻痺した頭のまま、カナは目を開けたまま、顔から直接シャワーの水を被った。
ざあざあとかかる水音の中で、びしょ濡れの髪を張り付かせながら、ようやく脳内の歯車がゆっくりと回り始める。
「え……? けっこんしよう……? えーと……これは……さっきの男と私が、結婚するということ……」
目の前にいたあの男……うん、恭介さんだ……。
そうだ、あの真剣な顔をした恭介さんが、私にそれを望んだんだ。
「うん……うれしいな……」
口から出たその声は、驚くほど平坦で、まったく感情の乗っていない棒読みだった。
頭では言葉の意味を理解している。
それがどれほど尊くて、ずっと望んでいたはずの奇跡のような事実かもわかっている。
なのに、まだその重みを受け止めきれず、ただ茫然と水のカーテンの向こうを見つめていた。
水音が響く浴室の中で、呆然と突っ立っていたカナの胸の内で、突然、静寂が破られた。
心臓の鼓動が助走を開始した。
ドッ………ドッ………ドッ…ドッ…ドッ…ドドドドドドドド!!!!!
「え!?」
冷たい水に打たれながら、止まっていた思考が一気に暴走を始める。
その瞬間、頭の中でバラバラになっていたパズルのピースが、音を立てて激しく引き寄せられた。
——結婚。
——恭介さんが、私に。
——私たちが、夫婦に。
すべての歯車がカチっと噛み合う。
遅れてやってきた衝撃の波が、全身の血液を沸騰させるように駆け巡り、カナはびしょ濡れのまま、その場で大きく息を呑み込んだ。
水音と激しい鼓動のなか、すべての理解が追いついたその瞬間、歓喜の津波がカナの心を一気に飲み込んだ。
ドクン、と波打つたびに体温が跳ね上がり、視界のすべてが熱を帯びる。
さっきまで不安を告げていた耳鳴りが、まるで世界中から祝福されているかのような盛大なファンファーレに変わった。
(うるさい……っ!)
頭の中で鳴り響く音も、自分の胸の鼓動も、何もかもが大きすぎて、うるさくてたまらない。
けれどそのうるささが愛おしくて、涙なのかシャワーの水なのか分からないものが、次から次へとあふれて止まらなかった。
「あっ! 返事しないと! すぐに返事しないと!ここから出ないと!」
歓喜の奔流に背中を押されるように、カナは顔に張り付いた濡れ髪を乱暴に跳ね除け、浴室のドアを勢いよく開け放った。
タオルで体を拭く時間も、服を着る理屈も、脳のメモリからは完全に消え去っている。
びしょ濡れのまま全裸でリビングに飛び出したカナの足元から、ぽたぽたと水滴が床に落ちていく。
湯気立つ浴室の向こうから突然現れたその衝撃的な姿に、リビングのソファに座っていた恭介は、開いた口が塞がらないまま固まった。
思考回路が追いつかず、ただ目を見開いて全裸と滴る水を見つめる恭介の前で、カナは濡れた足音を響かせながらまっすぐに立ち止まる。
「うん、結婚しよ……よろしくお願いします……」
カナはスタスタと何事もなかったかのように浴室へと戻っていった。
残されたリビングで、恭介は唖然としたまま固まっている。
(なんなんだ……?)
リビングから戻ってきたカナは、丁寧に、時間をかけてしっかりと体を拭き上げていた。
胸の高鳴りは収まらず、体全体がまだふわふわと浮いているような感覚だった。
地に足がついていない。頭がぼーっとしたまま、カナはそのまま脱衣所を出て、リビングのソファにいる恭介の隣へとちょこんと座った。
「お、おい……服着ろよ……」
カナはうつろな瞳で正面を見つめたまま、ただ小さく頷く。
「え、うん」
返事だけはするものの、全裸のまま平然とソファに座り込んでいる。
正面一点を見つめながら、カナは夢うつつのような声でポツリと呟いた。
「私、恭介さんと結婚する……」
「うん。……返事が遅かったな」
呆れと困惑が入り混じった顔をしながらも、恭介はどこか愛おしそうに小さく笑う。
「長かったな……」
「うん……」
「……おい、だから服着ろよ……」
困ったように言いながら、恭介がカナの胸にそっと手を伸ばす。いつもなら「キャッ!」と反射的に顔を真っ赤にして拒絶するはずだった。
しかし今のカナは、ぼーっとしたまま正面をまっすぐ見据えたままで、身じろぎもしない。
次の瞬間、ぽろり、と。
カナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「はぁ……嬉しい……すごく、嬉しいな……」
止まらない涙を拭うこともせず、カナはただ、ずっと欲しかった現実の重みをその身でかみしめていた。
ーー
結婚したからといって、劇的な変化が起きるわけではない。明日になれば同じ朝が来て、昨日と同じように街へ繰り出し、同じ部屋へ帰ってくる。世界の風景は何ひとつ変わらない。
けれど、二人の胸を満たしている感覚は、これまでとはまるで違っていた。
二人はどこまで行ってもただの「他人」でしかなかった。いつ壊れてもおかしくない儚い関係にしがみつき、暗闇の中を手探りで彷徨うような日々。
二人は初めて「他人」ではなく、かけがえのない「家族」になるのだ。




