報告
大げさな結婚式も、派手なパーティーもしない。ただ大切な数少ない人たちにだけ、静かに報告することにした。派手なお祝いなんて、泥沼をくぐり抜けて家族になった二人にはどこか似合わない。
カナが玄関を掃除していると、隣の部屋の玄関が開く音がした。
「あ!」
カナは思い切りドアを開けた。
「おばちゃん!」
「あら、カナちゃん、戻ってきたの?」
隣のおばちゃんが驚いたように足を止める。
「うん」
「……違う女の人が来てたわよ……?」
以前、ユリカがここにやってきていた時のことを覚えているのだろう。おばちゃんは少し気まずそうに、けれど心配そうに言った。
「うん、知ってる」
カナはフフッと笑って、まっすぐに告げた。
「おばちゃん、私、結婚する」
「え?」
おばちゃんは目を丸くして見つめた。
「え? まだ結婚してなかったの?」
「え、うん」
「……まあ! それは良かったじゃないの! おめでとう!」
おばちゃんの顔が一気に明るくなり、自分のことのように手を叩いて喜んでくれた。
「うん、ありがとう」
「うんうん、良かった良かった」
「おばちゃん、これからもよろしくね!」
誰かに認められたかったわけじゃない。けれど、日常の片隅で交わされたその素朴な「おめでとう」の言葉が、二人が本当の家族になったことを優しく実感させてくれた。
二人はそれぞれの親への報告をすることにした。
大げさな帰省や挨拶ではなく、まずは恭介の母親へ電話をかける。
プルル、と数回の呼び出し音のあと、受話器の向こうから母親の声が聞こえてきた。
「もしもし? どうしたの?」
「今いいか?」
「電話なんて珍しいわね。何かあった?変な話じゃないでしょうね」
恭介は呼吸を整え、意を決して切り出した。
「カナと結婚することにした」
「あら、そう。良かったじゃない」
拍子抜けするほどあっけない返事だった。恭介が少し拍子抜けしていると、横で聞いていたカナが「代わって」と手を伸ばす。恭介からスマホを受け取り、カナが耳に当てた。
「こんにちは、カナです」
「うん、カナちゃん、おめでとう」
「ありがとうございます」
母親の優しい声に、カナの緊張が少しほぐれる。
「またこっちにおいでね」
「はい、改めてちゃんと報告に伺います」
「うんうん、恭介のことをよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
電話を切り、ふーっと息を吐いたカナと恭介は顔を見合わせて笑い合った。派手な祝福ではなくても、身内からの穏やかな「おめでとう」が胸に温かく響いた。
カナは、自身の母親へ報告するために画面をタップした。
プルル、と鳴るコール音に、少しだけ手に汗が滲む。
『もしもし? ママ?』
『なに? どうしたの?』
受話器の向こうから、聞き慣れた母親の呑気な声が聞こえてくる。カナは息を吸い込み、隣で見守る恭介と目を合わせながら告げた。
『私、恭介さんと結婚することにした』
一瞬の間を置き、母親の声が跳ね上がった。
『え! 良かったじゃない! おめでとう!』
想像以上のテンションで返ってきた祝福に、カナの顔がほころぶ。電話の向こうで母が父に報告している声が聞こえた。
『ありがとう』
『いつ来るの?』
『うん、近いうちに。また連絡するから』
『ほんと良かったわ!』
弾むような母親の声に笑いながら電話を終え、カナはスマホを抱えるようにして息を吐いた。
お互いの親からの素朴で温かい祝福。二人が通ってきた遠回りや泥沼の苦しさをすべて知っているわけではないけれど、ただ純粋に「良かったね」と喜んでくれる声が、二人がこれから歩む「家族」としての道筋を優しく照らしてくれているようだった。
大げさな挙式も披露宴もしない二人にとって、どうしても報告しておきたい場所があった。
二人は『アンカー』へと向かった。
恭介とカナが初めて出会い、すべての物語が始まったあの店だ。
店内はいつもの落ち着いた灯りに包まれていた。カウンターの奥にいるマスターの姿を見つけ、恭介が静かに声をかける。
「マスター、ちょっといいかな……?」
「うん、どうしました?」
グラスを拭いていた手を止め、マスターが二人を交互に見つめる。恭介は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「恥ずかしいんだけど、俺たち結婚するんだ」
「え……!? ほんとに?」
驚きで目を見開くマスターに、恭介は優しく微笑む。
「うん……マスターには伝えとこうと思ってね」
「それはおめでたいですね!」
「なんだか照れ臭いな」
そう言って恭介が笑うと、マスターは「ちょっと待って」と言い残し、奥の棚へと向かった。戻ってきたその手には、見るからに高そうな赤ワインのボトルが握られていた。
「こういう時はお祝いでしょう! これは私から」
マスターは慣れた手つきでコルクを丁寧に開け、深い赤色の液体を二人のグラスへと注ぎ入れた。芳醇な香りがふわりと立ち上る。
「では、おめでとうございます」
「ありがとう」
「ありがとう、マスター」
カナも弾んだ声でお礼を言った。
『チン』と、静かな店内にグラスの重厚な音が心地よく響く。
迷い、傷つけ合い、遠回りを重ねた二人が最初に出会ったこの場所で、注がれた祝いの酒。グラス越しに見つめ合う二人の瞳には、もう過去の迷いはなく、家族として歩む未来への確かな光が宿っていた。
恭介とカナは、次に後輩のタクヤの店に向かった。
「おっす」
「お久しぶりです。2人でなんて珍しいっすね」
「まぁ、タクヤに言いたいことがあってな」
「ん? なんすか?」
少し緊張するタクヤに、恭介はサラッと告げた。
「俺たち、結婚するんだ」
「は……? はぁぁぁ!?」
タクヤは素で声をひっくり返した。
「カナと結婚するんだよ」
恭介の横で、カナは後ろに隠れるようにしながら恥ずかしそうにしている。タクヤは口をぐぐっと開けたまま、2人の顔を何度も交互に見た。
「ちょ、ちょ、ちょ、急すぎません!?」
「そうでもないだろ」
「いやいやいや、勘弁してくださいよぉ!」
「何がだよ(笑)」
「突然すぎるでしょ!もっと前もってなんかあるでしょ!」
焦りまくるタクヤのリアクションに、恭介は思わず吹き出す。
「だから今報告してるだろ」
するとタクヤは何かを思い立ったように奥へ走り、恭介が好きなウィスキーの新品のボトルを持ってくると、カウンターにドンと置いた。
「これ飲んでってください。余ったら持って帰ってください!」
「お、いいのか?」
タクヤは手早くグラスを準備し、琥珀色の液体を並々となみなみ注いでいく。
「おめでとうございますっ!」
タクヤは少し涙ぐんでるような笑顔だった。
「ありがとな」
「タクヤくん、ありがとう」
賑やかな声と祝福の笑顔。気心の知れた後輩からの最高のプレゼントを受け取りながら、二人はまたひとつ、大切な絆を確かなものに刻み込んだ。
ーー
大切な場所へ巡り、自分たちの「選択」をそっと報告し終えたカナは、一人でいつものスーパーへと買い物に出かけた。
道並みも、スーパーの陳列棚も、手に取る買い物かごも、いつもと変わらない。普段の生活と何一つ変わらないルーティンだった。
けれど、その世界は以前とはまるで違っていた。
(恭介さん、今夜は何が食べたいかな)
「自分のため」でもなければ、「つなぎ止めるため」でもない。
「家族のために考える。家族のためにご飯を作る。」
ただそれだけのことが、胸の奥をじんと温かく満たしていく。
同じ街の、同じスーパーで、同じように買い物をしているのに、目の前の景色はまったく別の色に輝いていた。
買い出し袋を抱えて歩きながら、カナの脳裏にふと昔の記憶が蘇った。
かつて恭介と一緒に歩いていた時、立ち寄った店の店員から何気なく「奥さん」と呼ばれたことがあった。
あの時、胸が踊るほど嬉しかったのを覚えている。
まるで本当に恭介の妻になれたような甘い錯覚に包まれ、一人で密かに舞い上がっていた。
けれど、あの頃の喜びの裏には、いつだって冷たい切なさが潜んでいた。どれだけ嬉しくても自分たちは「本当の夫婦」ではなく、一歩外に出れば互いに他人へと戻らざるを得ない現実があったからだ。
でも、今は違う。
特別な浮ついた高揚感も、嘘を重ねている背徳感も、そこにはもうない。
「奥さんと呼ばれるのが当たり前になるんだ。私は奥さんなんだ」
胸の奥でその言葉を反芻すると、じわじわと腹の底から静かな実感が満ちてきた。
自分は恭介の帰る場所であり、彼の生活を支え、共に人生を歩む存在。
遠回りして、泥を被って、たくさんのものを傷つけ、そして失って手に入れたのは、甘い恋の妄想などではなく、この「当たり前」という何よりも頑丈で温かい家族の席だった。
カナは買い出し袋を持ち直し、恭介の待つ二人だけの部屋へ、夫が待つ部屋へと歩調を早めた。




