決着
静まり返ったカナの部屋。
行き場のない空気が重く淀む中、カナはまっすぐに恭介を見据えて問い詰める。
「……どうするの?」
「うん……」
「うん、じゃないでしょ? 彼女と仲良いのにここに来てるの? 私とのことはどうする気なの? 別れる気がないなら、はっきりしてよ」
核心を突いた鋭い追及に、恭介は目を泳がせる。
「いや……うん……」
「はっきりしてよ。どういうつもり? 二股なんて絶対嫌なんだけど」
逃げ場のない言葉の刃を向けられ、恭介のなかの余裕が音を立てて崩れていく。
追い詰められた焦りと苛立ちが混ざり合い、恭介は思わず声を荒らげた。
「うるせーよ。静かにしてろッ!」
その乱暴で冷たい一言に、カナはびくっと肩を震わせる。
これ以上踏み込めば、二人の関係が取り返しのつかない形で壊れてしまう。
そう肌で感じるほど、部屋の空気が凍りついた。
しばらくの重苦しい沈黙の後、恭介は気まずそうに、けれど絞り出すように言った。
「……少し、時間をくれ」
「…………う、うん」
怯えと不安を滲ませながらカナが頷いたその言葉も、結局は破局へ向かう時間稼ぎでしかなかった――。
カナの部屋を後にし、彼女と過ごす重苦しい時間から引き裂かれるように離れたあと、恭介の頭にはその問いがずっとこびりついて離れなかった。
何事もなく、穏やかに笑い合えるユリカと一緒にいるほうが、これからの人生にとって正しい選択なんじゃないのか……?
数日後、カナの部屋に呼ばれ、足を踏み入れた瞬間から、重苦しい沈黙が二人を包み込んでいた。
彼女のことが気になって仕方がないカナは、もう目をそらすことなく、真っ直ぐに恭介を見据えて問い質す。
「……どうなったの?」
「うん……」
「恭介さんは私にどうして欲しいの?」
「いや、特に……」
「そんなに彼女のことがいいの? そんなに彼女のことが好きなの?」
「いや……」
「ねぇ……素直に教えてくれる? 彼女のどういうところがいいの?」
詰問するような鋭さは影を潜め、代わりにすがるような、すり減った声が部屋に響く。
恭介は不意を突かれたように目を見開いた。
「え……?」
「ううん、怒らないから。普通に教えて欲しいだけ」
「うーん……優しいとこ……?」
その答えに、カナの瞳が揺れる。自分に向けられたものではない焦燥と、切なさが混ざり合う。
「私だって優しいでしょ……? 私は優しくない?違うの?」
「そうだけど……」
「もっと優しくしてほしいの?」
「いや……」
「ねぇ、どうして欲しいか言ってよ……」
これ以上追い詰められたって、綺麗事の答えなんて出てこない。それでも何かを言わなければこの場が終わらないと悟ったように、恭介は掠れた声を絞り出す。
「うん……だから、もう少しだけ待ってくれ」
「うん、待ってるからね」
その言葉に込められたカナの健気さと、縋るような重みを受け止めきれず、恭介の心は音を立ててすり減っていく。
本当は、カナのことが好きだ。
心の底から惹かれているのは彼女の方なのだと、自分でも分かっている。
だからこそ、なんの落ち度もないユリカを、自分の都合で突然切り捨てることに対して、拭い去れない激しい罪悪感が恭介の足を縛り付けていた。
だが、別れは突然、呆気なくやってきた。
ユリカが温かいお茶のお代わりを淹れようと、台所へ立ったときだった。
テーブルの上に置かれたユリカのスマホが、静かな部屋にブブッと振動した。
画面が明るくなり、ポップアップが表示される。恭介の視線が吸い寄せられるようにそこへ向かった。
そこに表示されていたのは、見覚えのない男の名前。
そして、隠す気すらないかのような一文。
『昨日はありがとう。忘れ物はまた取りに来ればいいよ。次はゆっくり出来るよね?』
ん?思考が白く染まった。
自分を気遣い、酒やタバコを窘め、大きな愛で包み込んでくれていた聖母のようなユリカ。
その完璧な「凪」の裏側に隠されていた、決定的な裏切り。
自分だけが罪悪感に苛まれ、葛藤していた時間が、一瞬にして猛烈な虚無と滑稽さに変わっていく。
台所から「お待たせー」と柔らかい声が聞こえ、ユリカが戻ってきた。恭介の手元にある缶ビールに目を留めると、いつものように優しく微笑む。
「もうお酒は終わり」
そう言って、恭介の手にあった缶を取ろうと、ユリカがそっと手を伸ばしてきた。
「うるせぇ」
低く、冷めきった声が部屋に落ちた。
「……え?」
びくっと肩を揺らし、ユリカの手が空中で止まる。恭介が一度も向けたことのない圧迫感に、彼女の表情が固まった。
「え? なに……?」
「関係ないだろ」
「なに? どうしたの……?」
困惑し、探るように手を伸ばそうとするユリカの手を、恭介は素っ気なく振り払った。
「俺に触るなよ……」
「え……? 恭介くん? どうしたの? 怖いよ……」
動揺を隠せないユリカの瞳が揺れる。そんな彼女を、恭介は底冷えするような目で見つめ返した。
「浮気してるだろ?」
「え……」
ユリカの顔からすっと血の気が引いた。言葉を失い、喉を鳴らすだけのユリカに向かって、恭介は静かに、けれど二度と覆らない拒絶を突きつけた。
「何やってんだよ?ふざけてんのか?今すぐ出ていってくれ…」
ユリカは反論も言い訳もせず、ただ静かに涙を浮かべたまま、テーブルの上のバッグを手に取って部屋を出ていった。
扉が閉まるカチリという音が、二人の関係の終わりを告げていた。
恭介はリビングに残された虚無感と冷めた苛立ちを振り払うように、服を着替えた。
迷う余地など、もうどこにもなかった。
部屋を出て、夜の街をカナの部屋へと足早に向かう。
途中でポケットのスマホが震えた。画面を見ると、ユリカからのLINEだった。
『本当にごめんなさい』
たった一言のメッセージ。恭介はそれを一瞬だけ見つめると、何も返さずに既読だけをつけ、そのままスマホをポケットの奥へと押し込んだ。何度かスマホが振動するが、開くことはなかった。罪悪感も、情も、今の恭介には一切残っていなかった。
画面をカナとのトークに切り替え、素早く文字を打ち込む。
『今から行く』
すぐに既読がつき、返信が届く。
『え?今から』
『いいから。待ってろ』
『うん』
タクシーを拾い、カナのマンションの前で降りる。カナの部屋のドアノブに手をかけた。鍵は開いていた。
ドアを開けると、部屋の奥から驚いたような表情のカナが顔を出した。
「どうしたの……?」
恭介は答えなかった。靴を脱ぐ間すらもどかしく、玄関に立ったまま、目の前にいるカナを力任せに強く抱きしめた。
「恭介さん……?」
カナの驚く声と、伝わってくる確かな体温。
自分を縛りつけ、揺さぶり、狂わせる嵐のような存在。けれど、完璧な偽物の安らぎに裏切られた今の恭介にとって、この重く泥沼のような執着だけが、唯一の確かな現実だった。
玄関で恭介の手が伸び、カナのパジャマのボタンをひとつ、またひとつと強引に外していく。なりふり構わないその荒々しさに、カナは驚きを隠せない。
「え……どうしたの?ねぇ、待って」
息を弾ませながら、カナが恭介の胸元を軽く押さえた。
「ここ玄関だよ。ダメだよ。入って」
促されるままリビングへ移動し、ソファに深く身体を沈める。息をつく恭介の様子を見て、カナが静かに尋ねた。
「何か飲む?」
「うん」
カナは肌けたパジャマのボタンをかけ直そうともせず、すぐにキッチンへ向かい、飲み物を用意した。胸元は開いたままで、綺麗な谷間が露わになっている。恭介の視線がそこに吸い寄せられても、彼女は隠そうともせず、グラスをテーブルに置いた。
「ねぇ、どうしたの?」
どこか殺気立った恭介の異変を、カナの鋭い直感が逃さなかった。
「何かあったの?」
恭介は静かに、けれど明確に言葉を吐き出した。
「彼女と別れてきた」
その一言と恭介の鋭い目つきで、カナは「ただの円満な別れ」ではなかったことを察した。追求するような言葉は投げかけず、ただ恭介の心に寄り添うように微笑む。
「そっか…大変だったね」
カナの声には、待ち望んでいた展開への安堵と、恭介を完全に手に入れたという密やかな喜びが滲んでいた。パジャマの隙間から覗く胸元と、全てを受け入れるような視線。恭介は、目の前に広がる甘い泥沼へ、さらに深く沈んでいくのを感じていた。
「今日はゆっくり寝よう?」
カナは恭介の荒んだ様子を察し、それ以上何も追及することなく、優しくそう言った。
恭介の乱れた服をひとつひとつ丁寧に脱がせ、用意した着替えに袖を通させていく。まるで傷ついた子供を介抱するかのように、甲斐甲斐しく手際よく整えてくれた。
手を引かれるままベッドへ向かい、横たわる。
カナは恭介の体に寄り添い、背中に腕をまわしてしっかりと抱きしめた。伝わってくるのは、強烈な執着と、確かな生の温もり。
ユリカとの間にあった偽りの「凪」は壊れた。けれど、荒波の果てにたどり着いたこの場所で、カナの体温に包まれながら、恭介の意識はゆっくりと深い闇へと落ちていった。
目を覚ますと、隣の温もりが消えていた。
ベッドを抜け出し、キッチンからかすかな音をさせていたカナが、恭介が身を起こしたことに気づいて歩み寄ってくる。
「元気になった?」
「うん」
「よしよし」
カナは恭介の頭を優しく撫で、その体を愛おしそうに包み込んだ。
「私が甘えさせてあげるから。今からはずっと一緒だよ」
耳元で囁かれるその言葉には、恭介を逃がさないという強い束縛と、深い執着が込められていた。
けれど今の恭介にとって、その重みこそが自分を繋ぎ止めてくれる唯一の確かなものだった。
カナは抱きしめる力を少し強め、満足そうに微笑みながら静かに呟いた。
「私も、ちゃんと別れてきたから」
その言葉に、恭介はそっと目を開けた。
「……そっか」
「うん。これで、もう私たち2人だけだね」
カナには一切の迷いも未練もなく、ただ恭介だけを自分の世界に迎え入れた達成感と喜びに満ちていた。恭介もまた、胸の奥に残っていた最後のつっかえが消え去っていくのを感じた。
互いに過去をすべて削ぎ落とし、退路を断って辿り着いた、二人だけの場所。
嵐のような情念も、重すぎる執着も、これからは二人で生きていくための揺るぎない絆へと変わっていく。
恭介はカナの背中に手を回し、その体をしっかりと抱き返し返した。
二人が選んだ新しい未来への道が、ここから静かに動き出していく。




