安らぎ
明日はユリカが部屋にやってくる日だった。
カナと交わした約束と覚悟、そして目の前にあるユリカとの穏やかな生活。恭介の頭の中は、複雑な葛藤と悩みで渦巻いていた。
そして、ユリカがやってきた。
ドアが開くと同時に、いつもの明るい声が部屋に響く。
「恭介くん、ご飯食べたの?」
「あぁ、食べた」
「なんだー、食べたならちゃんと連絡しないとね」
「そうだな」
どこまでも優しく、甲斐甲斐しく自分を気遣ってくれるユリカ。そのまっすぐな優しさに触れるたび、恭介の胸には罪悪感が重くのしかかる。
夕食後、二人はソファに並んで腰掛け、テレビを見ながらまったりとした時間を過ごしていた。取り留めのない会話と、穏やかな空気。カナの部屋で感じた激しい情念とは対照的な、日常の温もりがそこにはあった。
しばらくして缶ビールをあけようとした恭介の手を、ユリカが優しく制した。
「はい、お酒はもうお終い」
「なんでだよ…」
「ん? なに?お終いです」
可愛らしく、けれど断固とした口調で言い切るユリカ。続いて恭介がテーブルの上のタバコに手を伸ばすと、それも見逃さなかった。
「タバコももうお終いにするよ?」
「なんでだよ?」
「体に悪いでしょ?」
「悪くないだろ」
「ふーん、そうなんだ?じゃあ、私も吸おっと」
ユリカは恭介の箱から慣れない手つきで一本取り出すと、小さく口に咥えて見せた。
「やめろよ」
「えー? 自分は吸ってるのに? どうして?」
「体に悪いだろ」
言い切った瞬間、恭介は「あ」という顔をした。自分の矛盾を突かれたことに気づき、ユリカは嬉しそうに「ふふふ」と笑う。恭介も思わず頭をかきながら、「あはは」と苦笑いを漏らした。
ユリカの持つ大きな母性は、いつだって恭介の弱さも我がままも優しく包み込んでくれた。
恭介の扱い方を誰よりも理解しているのがユリカだった。
「恭介くん、私寝るけど……」
「うん」
「あまり遅くまで起きてたらダメよ?」
「俺も寝るよ」
恭介は電気を消すと、ユリカと一緒に布団に入った。
暗闇の中、ユリカはそっと寄り添い、恭介の頬に柔らかくキスをした。
カナがすべてを貪りつくそうとする激しい「動」だとするなら、ユリカはどこまでも穏やかで深い「静」だった。
自分から激しく求めることには恥じらいを感じてしまうが、恭介から来ればそのすべてを優しく受け入れ、それ以上のことを返す。そして、この「頬へのキス」こそが、ユリカが抱く慎ましい甘えであり、彼女が抱擁を求めている二人だけの秘密の合図だった。
恭介が手を伸ばし、ユリカのパジャマのボタンをゆっくりと外していく。暗がりの中でもわかるほど、ユリカは頬を赤らめ、恥ずかしがりながら照れた顔を浮かべていた。
カナの部屋で燃え上がった激しい情念と、目の前にあるユリカの無償の愛。その対極にある二つの温もりの間で、恭介の胸は破滅的なまでの罪悪感と愛おしさに締め付けられていた。
リビングから、スマホがブブッと震える音が静かな部屋に響いた。
「スマホ鳴ってるよ?」
「うん」
「見てきたら?」
「うん」
恭介は布団を抜け出し、リビングへ向かった。ローテーブルの上のスマホを手に取ると、画面にはカナからのLINEが届いていた。
『来るって言ったよね?』
『どうしたの?』
画面に表示された文字に、恭介は素早く指を動かす。
『ごめん。いけなくなった』
『どうして?』
『忙しいんだ』
『昨日来るって言ったじゃん?』
『うん、だから、ごめん』
『来るって言ったのに嘘つかないでよ』
『ほんとにごめん』
『許さない。明日絶対来て』
『うん』
一方的に畳みかけてくるカナの強い執着と束縛に、恭介の胸の中にふっと苛立ちが芽生えた。昨日誓った覚悟も、彼女のこの身勝手なプレッシャーを前にすると、急速に重荷へと変わっていく。
恭介は小さく息を吐くと、スマホをソファの上に投げ捨て、ユリカの待つ寝室のベッドへと戻った。
「大丈夫だったの?」
暗闇の中、ユリカが心配そうに覗き込んでくる。
「うん。……さっきの続きな」
恭介はユリカの身を抱き寄せ、その首筋に顔をうずめた。
「あは……くすぐったいよ……もう……」
照れたように笑うユリカの体を、恭介は包み込む。先ほどのイラつきを掻き消すように、そして目の前にある穏やかな温もりに逃避するように、静かに二人の夜が再開された。
ユリカが与えてくれる包容力と穏やかな日常は、恭介にとってあまりにも心地よく、安らげる居場所そのものでした。
カナと一緒にいるときに吹き荒れる激しい情念や激しい感情の嵐とは違い、ユリカの隣にはいつも穏やかで透き通った「凪」の時間が流れている。余計な疑心暗鬼もなければ、お互いを追い詰めるような争いも起きない。
「別れる」と口で言うのは簡単でも、自分を無条件で受け入れ、優しく包み込んでくれるこの場所を自らの手で壊すことが、どれほど愚かで恐ろしいことか。
カナとの間に感じているのが「破滅的な熱量」だとするなら、ユリカとの関係は「かけがえのない安らぎ」。
カナの待つ部屋へ向かう約束の「明日」が刻一刻と近づくなかで、恭介の心は、二つの対極にある存在の間でぐらぐらと揺れ動いていた。




