浮気
スマートフォンの画面に、カナからのメッセージが届いた。
『何か食べたいものある?』
『なんでもいいよ』
『何時に来るの?』
『20時ぐらいに』
『わかった。住所送っとくから』
指定された住所を頼りに辿り着いたのは、築浅の控えめなマンションだった。恭介がインターホンを押すと、すぐに鍵の開く音がしてドアが開く。
「いらっしゃい。上がって、座ってて」
部屋は整然と片付いた1DKだった。ローテーブルと小ぶりのソファ、そして奥にはベッドが配置されている。生活感はありつつも無駄なものがなく、どこかカナらしい整い方をしていた。
恭介がソファに腰を下ろすと、冷えた缶ビールが差し出される。
「ありがと」
プシュッと軽い音を立てて缶を開け、口をつける。ローテーブルには、手際よく作られたおかずが手際よく並べられていった。出汁の効いた煮物や香ばしい炒め物。かつて何度も口にした、懐かしい味覚を思わせるラインナップだった。
箸を伸ばし、一口口に運ぶ。
「相変わらず美味いな」
「よかった」
カナは嬉しそうに目を細め、自分のグラスに手を伸ばした。料理をつつきながら、自然と会話が生まれる。最初は他愛もない世間話だったが、やがて話は二人が離れていた数年間の空白へと及んでいった。
「会ってない間、何してたの?」
カナがグラスを傾けながら、ふと尋ねてくる。恭介はビール缶を握る手に少しだけ力を込め、視線を落としながら答えた。
「まあ……普通に仕事して…その中で、彼女と出会って——」
「待って」
静かだが、はっきりとした声が恭介の言葉を遮った。見上げると、カナが冷ややかな、けれどどこか切実な瞳でこちらを見つめていた。
「他の女の人の話はやめて」
恭介は息を呑み、口を閉ざした。カナの胸の奥で渦巻く強い独占欲と嫉妬心が、一瞬で部屋の空気を張り詰めさせる。彼女の存在を頭では分かっていても、恭介の口から直接その名やエピソードを聞くことだけは、今のカナには到底耐えられないことだった。
「……ごめん」
恭介が短く謝ると、カナは「ううん」と小さく首を振り、再び箸を動かし始めた。それ以上、お互いの現在のパートナーについての話題が上ることはなかった。
夕食を終え、食器を片付けた後、二人は再びソファに並んで腰掛けた。少し落ち着いた雰囲気のなかで、残りの酒を飲み直そうとしたその時だった。
「恭介さん……」
隣に座っていたカナが、耐えかねたように恭介の体に強く抱きついてきた。
グラスを置く暇すらないまま、恭介はカナの強い力に受け止められる。
首元に押し付けられた頭、背中に回された細い腕。
離れていた数年間の寂しさ、言葉にできない焦躁感、そしてこれから先の関係に対する不安のすべてを、恭介の温もりで埋め尽くそうとするかのように、カナは一心不乱にすがりついていた。
「ん……?」
「このまま……」
恭介は手に持っていた缶をそっとテーブルに置くと、カナの背中に手を回し、ゆっくりとその体を抱き返した。
恭介の胸元に顔をうずめていたカナが、そっと身を起こした。少し上目遣いに恭介を見つめるその瞳には、甘い余韻の裏側に隠された、切実で強い不安が滲んでいる。
「ねぇ……彼女とはどうするの……?」
「うん……」
恭介の曖昧な返事に、カナの表情がすっと曇った。恭介の肩を掴む手に力が込められる。
「うん、じゃなくて。私と一緒にいるんでしょ? いてくれるんでしょ……?」
不確かで不安定な現状に耐えきれないかのように、カナは恭介の顔を覗き込み、言葉を重ねた。
「ねぇ、いるんでしょ……? 私といるんでしょ?……ねぇ……っ」
何度も、何度も確認しようとするカナ。かつての失敗や、今の二人が置かれている状況の危うさを誰よりも理解しているからこそ、一度得た温もりを二度と失いたくないという強い執着が、そのまま激しい焦燥感となって言葉に溢れ出していた。
「はっきりしてよっ!」
しびれを切らしたカナの声が、静かな部屋に鋭く響く。恭介の瞳をまっすぐに見つめ返すカナの顔には、逃げ道をすべて塞ぐような必死さが浮かんでいた。
「カナはどうするんだよ……」
詰問に耐えかねたように、恭介が低い声で問い返した。自分ばかりに決断を迫るカナに対して、彼女自身の覚悟を確かめようとする問いだった。
「私はちゃんとする……好きな人と、いたい…」
カナは迷いのない強い眼差しで恭介を見つめ返し、きっぱりと言い放った。
カナは恭介の頬にそっと手を添えた。
「だから……恭介さんも逃げないで。ちゃんと彼女と別れてよ…私と一緒にいるなら別れてよ…」
かつての失敗と泥沼を繰り返したくないからこその、切実で退路を断つような言葉。カナの強い覚悟が込められた言葉に、恭介の胸は激しく打たれていた。
「うん……帰るわ…」
その背中に、カナがすかさずしがみついてくる。
「帰らないでよ……いてよ……」
「いや、帰らないと」
現実を引き戻す恭介の言葉に、カナは子供のように首を振った。
「嫌だ……」
「わがまま言うなよ。また来るから」
恭介はなだめるようにカナの手を優しく包み込んだ。だが、カナはその言葉を逃さず、縋りつくような勢いで問い詰める。
「いつ? いつ来るの……? 明日?」
「う、うん……」
急かすようなカナの熱量に圧倒され、恭介は思わず頷いてしまった。
「うん、わかった。待ってるね」
ようやく安心したように、カナはゆっくりと手を離した。
身支度を整え、カナの部屋を後にした恭介は、冷たい夜風を浴びながら自分の家へと向かった。
鍵を開けて足を踏み入れた自宅は、静まり返っていた。カナの部屋に残してきた熱気や匂いとは対照的な、見慣れた生活感。恭介は暗闇の中で深く溜息をつき、逃げ場のない現実と、これから果たすべき大きな覚悟の重さを噛み締めていた。
恭介の胸の中に押し寄せるのは、手続きとしての別れの難しさではなく、心と感情が生み出す泥沼の重圧だった。
相手にどんな言葉をぶつければ終わるのか、頭では分かっている。冷たく「別れよう」と一言告げるだけなら、理屈の上では簡単なことだ。
だが、問題はそこではない。
これまで自分を信じ、共に時間を重ねてきたユリカの情や涙、向けられるであろうショックや裏切られた者の痛みに、自分がどう耐えるのか。そして、一度は裏切り傷つけ合ったカナへの強い執着と、本当に今度こそ全てを捨てて彼女の手を取れるのかという己の覚悟。
言葉はいくらでも飾れる。けれど、引きちぎられるような感情の痛みに自分自身がどう決着をつけるのか——そこにこそ、逃げ場のない本当の苦しみが潜んでいた。




