口火
静寂に包まれた部屋。
「カナ……ちょっと待ってくれよ……俺には彼女がいるんだ……」
カナの肩を強く掴み、必死に身体を引き剥がそうとした。困惑と焦りの色が、その瞳に色濃く浮かんでいる。
「うん……知ってる……」
涙で滲む視界の中、カナは力なく頷いた。頭ではわかっている。
恭介にはユリカという存在がいることを。
それでも、一度触れてしまった温もりと激しい衝動が、理性を完全に麻痺させていた。
「だから……カナとは一緒にはいられないんだ……」
恭介の口から突きつけられた、明確な拒絶の言葉。
「どうしてよ……っ、どうして……!?」
カナは首をぶんぶんと振りながら、叫ぶように問い返した。
嫌いじゃないって言ったのに。
私をまだ思ってくれているのに。
どうして「彼女がいるから」という理由だけで、私を突き放すの?
「嫌いじゃないならいいじゃん……! なんで……なんでダメなのっ!?」
もう何が正しくて何が間違っているのか、自分でもまったくわからない。
支離滅裂な感情が頭の中をぐちゃぐちゃに掻き乱し、カナはただ恭介の腕の中で、崩壊していく理性と戦いながら叫び続けていた。
恭介の脳裏に、すっかり忘れ去ろうとしていた過去の記憶が、鮮明なフラッシュバックとなって蘇った。
(そうだ……昔と、全く同じなんだ……)
あの頃、俺には妻がいて、カナにも夫がいた。二人は互いに家庭を持ちながら、激しい泥沼の不倫関係に落ちていったのだった。
そして今——自分には彼女がいて、カナには彼氏がいる。立場や形は多少違えど、背徳の罠に自分から飛び込み、理性を失って縋りついてくるカナの姿は、あの日々そのものだった。
恭介は深く溜息をつくと、感情を押し殺した低い声で、カナの肩を掴んだまま静かに語り始めた。
「……昔と同じじゃないか」
「え……?」
涙で濡れた目を丸くするカナに、恭介は現実を一つひとつ突きつけるように言葉を重ねる。
「前はさ……不倫でお互いパートナーがいただろ? 俺には妻がいて、カナにも旦那がいた。今、それとまったく同じ感じになってないか?」
「うん……」
カナは小さく頷き、涙を拭いながらも、どこか夢見がちな瞳で恭介を見つめ返した。
「……でも、幸せになったじゃない……? あの時だって、色んなことを乗り越えて……私たち、ちゃんと一緒になれたじゃない……」
過去の禁断の恋すらも、美化された思い出として縋ろうとするカナ。
だが、恭介は冷ややかな声で、その甘い幻想を容赦なく打ち砕いた。
「幸せには……なってないだろ」
「……え……?」
「今、こうしてまた同じように苦しんで、お互い別のパートナーを傷つけるような真似をしてる。それが『幸せになった』って言えるのかよ」
恭介の言葉が、冷たい氷水のようにカナの頭上に振りかけられた。
「うるさいっ! 黙ってよっ!」
正論を突きつけられたカナの頭の中で、何かが完全に弾け飛んだ。これ以上、冷たい言葉で現実を突きつけられるのは耐えられなかった。
理性も、道徳も、罪悪感も、すべてが吹き飛ぶ。
カナは狂おしいほどの情念に突き動かされ、恭介の服に手をかけ、強引に脱がせ始めた。
「ダメだって……やめろよ……っ!」
「うるさい! うるさいっ!」
叫びながら、カナは恭介の抵抗を振り払うように衣類を剥ぎ取っていく。
そして、自らの服も躊躇なく脱ぎ捨てた。
剥き出しの感情と肌が、冷えた部屋の空気の中で激しくぶつかり合う。カナは恭介の首筋や胸元に貪るようにしがみつき、その存在のすべてを求めるように身体を押し付けた。執着と愛憎が混ざり合った圧倒的な熱量に、恭介は息を呑み、圧迫感に身を硬くする。
(俺は……また繰り返すのか)
恭介の脳裏に過ちの記憶が過る。だが、目の前で涙を流しながら自分を激しく求めてくるカナの温もりと肌の感触に、押さえ込んでいた感情の堤防が決壊した。
——今でも、カナのことが好きだ。
抗えない事実を認めた恭介は、深く息を吐くと、腹を括ったように鋭い目を向けた。力強くカナの腰を引き寄せ、逃がさないようにその身体を固く抱きしめる。
恭介の腕の中で、カナはその覚悟ごと恭介のすべてを受け入れ、激しい嵐のような夜へと溶け込んでいった。
ーー
激しい嵐が過ぎ去ったあとの部屋は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ソファの上で、カナは恭介の体にそっとぴったりとしがみつき、心地よい体温を感じながらまったりとした時間を過ごしていた。乱れていた息もすっかり落ち着き、恭介の胸の鼓動がダイレクトに肌へ伝わってくる。
「恭介さん、愛してる……」
カナの唇から、甘く、切ない呟きが漏れ出た。
恭介は優しくカナの背中に手を回し、髪を撫でながら静かに応える。
「うん……」
「恭介さんは……?」
カナは恭介の胸元に顔をうずめたまま、確かな言葉を求めて問いかけた。
「うん……俺もだよ」
「……愛してるって、言ってよ……」
お願いするように、すがるように囁くカナ。恭介は少しだけ抱きしめる腕に力を込めると、その頭頂部にそっと唇を寄せ、耳元で低く呟いた。
「うん、愛してる……」
その言葉を聞いた瞬間、カナの心を満たしていた不安と痛みが、すーっと溶けていくようだった。
カナは満足そうに小さく微笑むと、恭介の暖かい胸元で静かに目を瞑った。抱えきれないほどの愛おしさと安らぎに包まれながら、二人は深い静寂の中に身を委ねていた。
どれくらいそのままの体勢でいただろう。
静寂が支配する部屋の中で、時計の針が進む音だけが静かに響いていた。
やがてカナはゆっくりと体を起こすと、ソファの傍らに散らばっていた下着を拾い上げ、静かに身に着け始めた。先ほどまでの激しい情念が嘘のように、その手つきはどこか冷ややかで寂しげだった。
「そろそろ帰るね…」
「あぁ」
恭介の短く低い返事を聞きながら、カナは服を着て、乱れた髪を整え、丁寧に身支度を進めていく。
玄関へ向かう手前で、カナはふと立ち止まり、恭介の方を振り返った。
「ねぇ、次はいつ会うの?」
「え…うん…」
不意の問いに、恭介は視線を泳がせ、言葉を濁した。
そんな恭介の揺らぎを見透かしたように、カナは小さく微笑みを浮かべながら静かに言った。
「私の部屋においで。ここにはもう、私の居場所はないから…」
かつて自分たちの愛の巣だったこの部屋には、もう別の女性の気配が染み付いている。それに耐えられないカナの切実な願いだった。
恭介は少しの間を置いてから、覚悟を決めたように小さく頷いた。
「うん…」
「明日ね。連絡するから」
「わかった…」
二人の間に交わされた約束。戻れない一線を越えてしまった二人は、新たな背徳の闇へと、静かに踏み出していった。




