執念
静かなジャズの旋律だけが、二人の間に流れる重い空気をなでていく。
恭介は時計を見ることもなく、ただ残りの酒を静かに飲み干すと、グラスをカトンとテーブルに置いた。
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
「う、うん……」
恭介が伝える言葉に、カナは反射的に返事をしてしまった。けれど、その直後、胸の奥で激しい焦燥感が渦を巻く。
(え……待ってよ! 待って! まだまだまだ話したい……!)
席を立とうとする恭介の動作が、カナにはまるで永遠の別れに向かっているかのように見えた。せっかく燃え上がった胸の炎が、このまま引き裂かれて消されてしまうような恐怖がカナを襲っていた。
「通りまで送るよ」
恭介が財布をポケットにしまいながら、静かに言った。
「え……うん……ありがとう」
二人は店を出て、夜の冷たい空気が流れる路地を歩き始めた。
並んで歩く二人。けれど、会話はない。
靴底がアスファルトを鳴らす音だけが、無言のまま二人についてくる。
(このまま大通りに出てタクシーに乗ったら、もう終わっちゃう……)
大通りの明るい街灯が見えてくる。車が通り過ぎる音が徐々に大きくなっていく。
あと、十数メートル。
もっと話したい。もっと一緒にいたい。恭介さんの隣に、まだいたい。
カナの胸の奥で、感情が限界まで膨らんでいく。
息が詰まりそうになりながら、拳を強く握りしめ、勇気を振り絞った。
「……もう少し、一緒にいたい……」
蚊の泣くような小さな声。だが、タイミング悪く横を大型トラックが走り去り、その声は甲高い車の騒音にあっけなく掻き消されてしまった。
「ん? なに?」
恭介が歩みを緩めず、横顔のまま問いかけてくる。
(……どうしよう)
もう一度言うのには、さっき以上の勇気がいる。心臓が痛いくらいに跳ね上がっている。
「ううん、なんでもない」と言って、笑ってタクシーに乗るべきなんじゃないか。
そのほうが物分かりのいい女でいられるんじゃないか。
葛藤が頭を駆け巡る。でも——ここで諦めたら、もう二度と会えないかもしれない。
「……もう少し……一緒にいたい……」
振り絞るようにして、もう一度、はっきりと呟いた。
その瞬間、恭介の足がピタリと止まった。
夜の街灯の下、恭介がゆっくりと振り返り、カナを見つめる。カナもまた、逃げ出したいほどの緊張に耐えながら、恭介の瞳をまっすぐに見返した。
二人の視線が、静かな夜の中で交差する。
恭介はしばらくカナの顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、静かに言った。
「どうするんだよ? アンカーに戻るのか?」
恭介が静かに尋ねてくる。大通りの街灯に照らされたその顔を見上げながら、カナは胸の奥でずっと温めていた思いを、逃げずに言葉にした。
「……恭介さんちに行ってもいい……?」
「え……?」
恭介が一瞬、拍子抜けしたように目を丸くした。だが、すぐに諦めたように小さく溜息をつくと、視線を横に逸らした。
「……まぁ、いいけど」
二人は通りかかったタクシーを止め、後部座席に乗り込んだ。
走行する車内には、重く、どこか甘い沈黙が流れていた。
窓の外を流れていく街灯の光が、二人の横顔を交互に照らす。
カナは隣に座る恭介の袖口に、触れそうで触れられない距離まで手を近づけ、息を潜めていた。
やがてタクシーが停まり、二人は車を降りた。
見慣れたマンションの前に立つ。かつて何度も二人で歩いたアプローチ、見上げた外観。何も変わっていない景色に、胸がキュッと締め付けられる。
エレベーターを降り、通路の奥へ。
恭介の部屋の前に辿り着くと、そこにはあまりにも懐かしい扉があった。二人で笑いながら帰ってきた日も、ケンカをして気まずいまま入った日も、いつでも二人を迎え入れてくれたドア。
恭介がポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回す。
カチャリ、と静かな金属音が夜の廊下に響き、ドアが開かれた。
部屋に足を踏み入れた瞬間、カナは小さく息を呑んだ。
「……お邪魔します」
靴を脱ぎ、ゆっくりと玄関を抜けてリビングへ入る。部屋を満たす独特の匂い、落ち着いた照明のトーン、そして部屋の真ん中に鎮座する大きなソファ。
すべてが、あの頃のままだった。自分がこの部屋を去った日と、何一つ変わっていない。
「酒でいいか?」
キッチンへ向かいながら、恭介が背中で尋ねてくる。
「うん……」
カナは吸い寄せられるようにソファへ近寄り、そっと腰を下ろした。柔らかいクッションの沈み込みさえも、身体が覚えている。
しばらくして、グラスの中でカランと氷が涼しげな音を立てた。恭介が、ウィスキーと炭酸を割ったグラスをふたつ手に持ってリビングに戻ってくる。
「はい」
「ありがとう……」
目の前にグラスが置かれる。だが、グラスを掲げて「乾杯」をするような雰囲気はなかった。恭介はカナと少し距離を置いた位置に腰掛け、静かにグラスに口をつけた。
カナも手元のグラスをそっと両手で包み込む。氷の冷たさが掌に伝わってきた。
「……あまり変わってないね」
ぽつりと溢れたカナの言葉に、恭介はグラスを傾けたまま、短く答えた。
「……そうだな」
過去と現在が静かに交錯する部屋の中で、二人の間に再び、濃密で甘い沈黙が流れ始めた。
グラスの中の氷が溶けてカランと小さく鳴った音さえ、今の二人には不気味なほど大きく響いた。
「ねぇ、どうして私と別れたの…?」
アンカーでも口にした問い。どうしても納得できず、どうしても恭介の口から本当の気持ちを聞きたくて、カナはすがるような目で見つめた。
「……さっきも言っただろ」
恭介はうんざりしたように息を吐き、グラスをテーブルに置いた。
「私のことが嫌いになったの…?」
声が震える。
目の前にいる恭介に届いてほしい一心で、カナは喉の奥を締め付けられながら問いかけた。
恭介はゆっくりと顔を上げると、冷ややかな瞳でカナをまっすぐに見据えた。
「今更なんだよ。そういう話するために来たのか?」
その低い声には、明らかな拒絶と苛立ちが混ざっていた。部屋の空気が一瞬で凍りついていく。
「もう別れて、お互い新しい恋人がいるだろ」
恭介は声を荒げることもなく、淡々と、けれど淡白に現実を言い渡した。
「……うん」
「……私のこと、嫌いになったの…?」
どうしても、その答えを聞きたかった。
もし恭介の口から「嫌いになった」とハッキリ告げられたなら、この諦めきれない未練も、胸を締め付ける痛みも、すべて終わりにできるはずだった。冷たく突っぱねて、引導を渡してほしかった。
だけどその一方で、胸の奥底には惨めで身勝手な希望がしがみついていた。
——お願い、嘘でもいいから「嫌いになってない」と言って。私を忘れないで。まだ私に特別な感情を残していてほしい——。
諦めたい気持ちと、愛されていたい執着。
矛盾する二つの感情が胸の中で激しくぶつかり合い、カナの心臓を痛いほど脈打たせる。
息を詰まらせて返答を待つカナに、恭介は少しだけ目を伏せ、グラスの氷をカランと揺らすと、静かに言った。
「……そんなことないよ」
その一言が落ちた瞬間、カナの思考が真っ白に染まった。
動揺が全身を駆け巡る。
(そんなことない……って……じゃあ、どうして……?)
嫌いになったわけじゃない。その一言が、カナの心の中でくすぶっていた歪な希望に、一気に火をつけた。
諦めるための理由を求めていたはずなのに、恭介が残したその甘い毒のような優しさに、カナの理性がゆっくりと崩れ去っていく。
嫌いじゃないなら、どうして私たちは今、こうして別々の人を隣に置いているのか。
どうしてあのとき私を繋ぎ止めてくれなかったのか。
抑え込んでいた葛藤と衝動が堰を切って溢れ出し、カナの視界が涙で激しく滲み始めていた。
「私は……ずっと恭介さんのことが好きだった。今でも、好きだと思う……」
口にしてしまった。
恭介には新しい彼女がいることも、自分にも彼氏がいることも、全部わかっていたはずなのに。一度言葉にして飛び出した想いは、もう二度と元には戻せなかった。
恭介は何も言わない。ただ静かに、落ちていく氷の音を聞くように黙り込んでいる。その無言の圧力が、カナの胸をさらに締め付けた。
「……私は、別れたくなかった……っ。恭介さんが、帰ってくると思ってた……」
震える声で縋りつくカナに、恭介は静かに、けれど逃げ場のない正論を落とした。
「……カナが、他の男を好きになったんだろ」
「違うっ……! 好きになんかなってない……っ!」
即座に否定した声が、静かな部屋に虚しく響き渡る。
恭介を忘れるためだけにすがりついた今の彼氏のことなんて、一度だって心から好きだと思ったことなんてなかった。恭介の代わりなんて、誰にも務まらなかったのだ。
ぽろぽろと、涙が溢れ出て止まらない。
カナは溢れ出る涙を拭おうともせず、ただ静かに、恭介の前で涙を流し続けていた。
「私はずっと、そばにいたかったのに……!」
溢れ出す感情を止められず、カナは子供のように胸を上下させ、しゃくりあげた。
「うぅ……っ、うっ……」
我慢していたはずの小さな泣き声が、 静かなリビングに漏れ出してしまう。
そんなカナをあやすでもなく、恭介は冷めた目で見下ろしながら、容赦なく現実を突きつけた。
「……他の男に優しくされて、その男の方に行ったのはカナだろ……?」
「違うよっ……! うぅ……うぅ……っ! どうしてそんなひどいこと言うのよ……!」
責め立てるような恭介の言葉に、カナの胸は張り裂けそうだった。
寂しさを埋めたくて逃げ込んだだけの関係を、そんな風に割り切られるのが耐えられなかった。
「……事実だろ」
淡々と、冷酷に言い捨てる恭介。
「全然違うよっ!! 私は……私は恭介さんが好きなのっ!!」
「うぅぅぅぅぅ……っ、うぅぅぅ……!」
もう感情の歯止めが効かなかった。カナの泣き声は次第に大きくなり、部屋中に響き渡る。
恭介の冷たい瞳の前に、カナはただ自分の無力さと未練を曝け出し、ぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆うことしかできなかった。
「ひどい……ひどいよ……っ、うぅぅぅ……うぅぅぅ……」
しゃくりあげるカナの声を、恭介は遮ろうともせず、ただ静かに聞き続けていた。
責め立てることも、抱き寄せることもせず、ただ感情の嵐が過ぎ去るのを待つような無言の重み。その静寂の中で、カナは手背で何度も涙を拭い、荒い息を少しずつ整えていった。
長い沈黙のあと、鼻をすする音だけが響く部屋で、カナは途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「……付き合うつもりなんて、なかったの……」
ただ寂しさを埋めたかっただけ。恭介を忘れるための逃げ道にしたかっただけ。それなのに、いつの間にか引き返せないところまで来てしまっていた。
恭介は静かにグラスをテーブルに置くと、穏やかだが、どこか遠い目をしてカナを見つめた。
「……そっか。カナの気持ちはわかったよ」
「……忘れられるわけないじゃない……」
こんなに近くにいて、同じ部屋で、懐かしい匂いに包まれていて。恭介のことなんて、一日だって忘れられたことなんてなかった。
恭介は短く息を吐くと、眉間を少しだけ寄せて小さく呟いた。
「……うん、ごめんな」
その声に含まれた静かな優しさと諦念が、カナの胸を再び締め付ける。
「……謝らないでよ……っ」
謝られるたびに、二人の間の距離を見せつけられている気がした。優しくされるほどに、もうあの頃には戻れないのだと突きつけられているようで、カナは溢れそうになる涙を再び必死に堪えていた。
「じゃあ、その彼氏はどうするんだよ……」
恭介が眉をひそめ、呆れたような、けれどどこか重苦しい声で問いかけてくる。
「……わからない……」
カナは膝の上の服の裾をぎゅっと握りしめ、力なく首を振った。
「わからないってなんだよ……」
「だって……どうしていいのか、本当にわからないんだもん……」
恭介への未練と、今の彼氏への罪悪感。そして何より、恭介との関係をどうしたいのかさえ整理がつかない混乱。頭の中がグチャグチャで、答えなんて出てくるはずもなかった。
恭介は深く溜息をつくと、冷ややかな、けれど核心を突く視線をカナに向けた。
「……好きでもないやつと、このまま付き合っていくのか……?」
「ううん……」
カナは小さく首を横に振った。好きでもない人と一緒に居続けることの虚しさは、カナ自身が一番よく分かっていた。
「恭介さんと一緒にいたい……」
カナはついに、抑え込んでいた本心を口にした。もう我慢なんてできなかった。どんなに惨くても、どんなに情けなくても、これがカナの偽らざるすべてだった。
「それは……」
恭介が何かを言いかけて、言葉を飲み込む。その躊躇いが、カナの胸を痛く締め付けた。
「嫌だ……一緒にいたい……っ」
カナの目から、再び溢れ出た涙が頬を伝う。
「恭介さんと、ずっと一緒にいたい……うぅ……うぅ……っ」
「一緒にいたい……うぅぅぅ……うぅぅぅ……!」
もう理性のタガは完全に外れていた。カナはたまらなくなって恭介の体に飛びつき、必死でしがみついた。
恭介の首元に顔を埋めると、懐かしい体温と匂いが一気に鼻腔をくすぐる。カナはその温もりにすがるように、大きな声で泣き叫んだ。
「うぅぅぅぅ……っ、嫌だ……嫌だ……っ、うぅぅぅ……!」
恭介の服を握りしめる指先は白くなり、拒絶される恐怖に激しく震えていた。
これ以上、自分を突き放さないでほしい。この温もりをどこにも行かせたくない。
幼子のように泣きじゃくるカナを抱えたまま、恭介は静まり返った部屋の中で、ただじっとカナの震えを受け止めていた。
「カナ……泣くなよ……」
首元に顔を埋めたままのカナに、恭介が困惑と戸惑いの混ざった声で語りかける。その手が一瞬迷うように宙を泳ぎ、やがてそっとカナの背中に回された。
「いやだ……離れたくない……! うぅぅ……うぅぅ……!」
恭介の服を破らんばかりの力で握りしめ、カナはさらに強くしがみつく。一度触れてしまった温もりを手放すなんて、今のカナには絶対にできなかった。離れたら最後、二度とこの場所には戻ってこられない気がしたのだ。
「落ち着けよ……」
背中をぽんぽんと優しく叩く恭介の体温が、カナの肌にダイレクトに伝わってくる。その優しさが、かえってカナの感情を煽り立てる。
「いやだよ……いやだよ……っ、うぅ……うぅ……!」
恭介の首筋に涙と鼻水を押し付けながら、カナは首をぶんぶんと横に振った。
「落ち着きたくない……! 嫌だ……お願いだから、私を置いていかないで……!」
しゃくりあげる声が部屋いっぱいに響き渡る。
恭介の腕の中で、カナはまるで迷子の子どものように、ただひたすらに自分の執着と情念をぶつけ続けていた。
カナは恭介の首元から顔を上げ、涙で濡れた瞳でまっすぐに恭介を見つめた。
「ねぇ……いやだ……一緒にいたい……一緒にいたいよ……」
懇願するような言葉が唇から漏れ出た次の瞬間、カナは恭介の返事を待つことなく、その唇に自身の唇を重ねた。
抑えきれなくなった衝動のままに、激しく恭介の唇を貪る。
感情をすべて叩きつけるように強く押しつけ、すがりつくようにその口内へ舌を滑り込ませていく。
激しい情熱と執着、そして失うことへの恐怖が混ざり合った吻。
恭介の身体が一瞬固まり、静寂に包まれていた部屋に、二人分の乱れた息遣いと濡れたシチュエーションの音だけが虚しく響き渡っていた。




