着火
カチャリと重いドアを開けると、カクテルシェイカーを振る心地よい音と香草の香りがカナを出迎えた。
薄暗い店内のカウンター席。そこに、グラスを傾ける恭介の背中があった。
カナは息を整え、ゆっくりと恭介へ近づいていく。
昔から二人を知っているマスターが、カナの姿を見るなり察したように優しく微笑み、気をきかせて声をかけてくれた。
「テーブルにしますか?」
「うん、そうするわ」
恭介がグラスを持って立ち上がり、奥のテーブル席へと移動する。カナも「お久しぶりです」とマスターに笑顔で軽く会釈を返し、恭介の正面の席へと腰を下ろした。
お互いに飲み物を注文し、テーブルの上に運ばれてくる。
「……ごめんね、急に」
カナが上目遣いで申し訳なさそうに切り出す。
「いや、いいよ」
恭介は淡々と答え、グラスを傾けた。
一瞬、店内を満たすジャズの音色だけが響き、二人の間に静かな沈黙が流れる。グラスの結露した水滴が、コースターにぽたりと落ちた。
「……どうした? 何かあったのか?」
恭介からの問いかけに、カナは少し照れくさそうに、けれど切なさを隠しきれない目で恭介を見つめた。
「ううん、話がしたかっただけ……」
「そうか」
短く返す恭介の顔を見つめながら、カナは胸の奥でずっとつっかえていた問いをそっと口に出した。
「……一緒にいたの、彼女?」
「うん」
「……綺麗な人だね」
「うん…」
躊躇なく「うん」と答える恭介。その迷いのなさに、カナの胸の奥がキュッと強く締め付けられた。
(否定しないの……? 前みたいに「カナのほうが可愛いよ」って、もう言ってくれないんだ……)
目の前にいる恭介との間に、目に見えない分厚い壁ができてしまったような切なさが、カナの心をじわじわと侵食していった。
「髪、伸びたな」
グラスの氷を揺らしながら、恭介がぽつりと呟いた。
「うん…変かな?」
カナはすかさず恭介の顔を見つめ返し、不安そうに尋ねる。ほんの少しでも「似合ってる」とか「可愛い」という言葉を期待してしまう自分がいた。
「いや」
そっけない恭介の返答。それ以上の言葉は何も続かない。
(褒めてもくれない…もう私には興味がないんだ…)
目の前にいるのに、まるで遠い場所にいるかのような距離感。胸の奥が冷たくなっていくのを感じながら、カナは喉の奥にずっとつっかえていた言葉を、絞り出すように口にした。
「……ねぇ、どうして私と別れたの…?」
言った瞬間、カナの心臓がきゅっと強く締め付けられた。
恭介は静かにグラスをテーブルに置くと、少し目を伏せて淡々と答えた。
「近くにいてやれなかったからかな」
どこか他人事のような、静かな理由。その言葉を聞いた瞬間、カナの胸の中で抑え込んでいた感情が波立った。
「そうなんだ…でも、それで嫌になるかどうかは、私が決めることじゃないの…?」
自分を置き去りにして納得しようとする恭介への焦燥感と悲しみが混ざり合い、声がかすかに震える。
だが、恭介から返ってきたのは、想像もしなかった冷ややかな一言だった。
「……嫌になったから、他に男を作ったんだろ…?」
「……!」
カナは息を呑み、弾かれたように言葉を失った。
言い返すこともできず、ただギュッと唇を噛み締めながら、ゆっくりと下を向くしかなかった。
二人の間に、痛々しいほどの沈黙が落ちていった。
恭介は静かに、けれど逃げ場を塞ぐような声で言った。
「俺がいない間に男を作ったのは、カナのほうだろ」
「……ごめんなさい」
責め立てるような口調ではないからこそ、余計にその言葉がカナの胸に重く突き刺さる。カナは震える声を漏らし、絞り出すように謝ることしかできなかった。
「……作る前に、俺と別れるべきじゃなかったのか……?」
氷の溶ける小さな音がグラスから響く。恭介の言葉に、カナはパニックになりながら必死で首を横に振った。
「違う……その時は彼氏じゃなかったから……恭介さんと別れてから、付き合ったから……」
恭介に嫌われたくない、浮気だと思われたくない一心で溢れ出た言葉。
だが、それを受け止める恭介の瞳は、驚くほど冷ややかで平坦だった。
「まぁ、もうどっちでもいいよ」
恭介は深く息を吐くと、興味を失ったかのように短く吐き捨て、グラスに手をつ伸ばした。
「どっちでもいい」というその一言が、どんな怒りの言葉よりも冷たく、カナの心を深くえぐっていった。
「……俺も、そばにいてやれなくて悪いと思ってる」
恭介は淡々と、けれどどこか寂しげに呟いた。
離れている寂しさに耐えかねて、勝手に他の男に優しさを求めてしまった自分の弱さと身勝手さ。
それなのに、恭介は自分にも落ち度があったと、そう言っているのだ。
責められるよりも、怒られるよりも、その静かな優しさが痛かった。
自分がいかに自分勝手だったかを思い知らされ、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、カナは声を詰まらせて謝るしかなかった。
「……ごめん……」
二人の間に横たわる溝の深さを、カナはただ突きつけられていた。
「……彼女と、長いの…?」
カナはグラスのフチを指先でなぞりながら、おそるおそる尋ねた。
「いや、そうでもない」
「……一緒に住んでるの?」
息を止めるようにして、恭介の口元を見つめる。
「ううん」
恭介が短く首を振った瞬間、カナは胸の奥で小さな吐息を漏らした。
(まだ……あの部屋で一緒に生活していないんだ……)
恭介の生活のすべてが、あの女の人で満たされているわけではない。その事実に、どこかほっとした自分がいた。
すると今度は、恭介のほうから静かに問いかけが飛んできた。
「……彼氏と、仲良くやってるのか?」
不意を突かれ、カナは視線を泳がせた。
恭介以外の男との関係なんて、本当は一言も口にしたくなかった。けれど、嘘をつくこともできず、小さく呟いた。
「……微妙、かな……」
二人の間に流れる重い空気。
恭介はグラスに残ったお酒を一口煽ると、冷淡とも取れるフラットな声で言った。
「……仲良くしろよ」
「……え?」
カナは思わず恭介の顔を見つめ返した。胸の奥が冷たく凍りついていく。
(え……? どうして……? どうしてそういうこと言うの……?)
「仲良くしろよ」なんて、突き放すような言葉。自分のことなんて、もう本当にどうでもよくなってしまったかのようなその物言いに、カナの心は激しく揺さぶられていた。
「……カナは可愛いんだから、大事にしてもらえるよ」
グラスに視線を落としたまま、恭介は何でもないことのようにぽつりと呟いた。
「……え!?」
カナの目が見開く。思わず小さな悲鳴のような声が漏れ出た。
(なに……!? うそでしょ……!?)
「仲良くしろよ」と突き放された直後の、あまりにも不意打ちすぎる言葉。
恭介にとってはただの気休めや、過去の情の残り香に過ぎないのかもしれない。けれど、カナにとっては違った。
私を、可愛いと思ってくれている。
今でも、私をそう思ってくれている——。
冷え切っていた胸の奥に、一瞬で熱い衝動が突き抜けた。
「……はは、やめてよ……」
カナは顔が熱くなるのを隠すように、伏し目がちに力なく笑ってみせた。
手元のグラスを握りしめる指先にギュッと力がこもる。
恭介の冷たい態度と、時折見せる無自覚な優しさ。
その残酷な揺さぶりによって、消えかけていたはずの想いが、二度と消せないほどの巨大な炎となってカナの心に燃え盛っていた。
「飲みに出て、彼氏は何も言わないのか?」
恭介が氷の溶けたグラスを弄りながら、淡々と尋ねてくる。
「……うん」
カナは視線を落とし、小さく答えた。
(……お願いだから、彼氏のことは言わないでよ……!)
恭介の口から「彼氏」という言葉が出るたびに、現実へと引き戻され、胸が痛む。今のカナの頭の中には、恭介の存在しか存在していなかった。




