勇気
ユリカがフィッティングルームや試着鏡の前で自分の服を選んでいる間、恭介はフロアの隅にあるソファに腰を下ろし、手持無沙汰にスマホの画面を眺めていた。
「……恭介さん」
不意に頭上から声を掛けられた。
「ん?」
顔を上げると、そこに立っていたのはカナだった。
連れの男の姿はなく、一人だった。
少し伸びた髪、どこか思い詰めたような目元。さっきすれ違った時の面影のまま、必死に息を整えている。
「おう……」
突然の接近に恭介は一瞬言葉を詰まらせた。
「……彼女は?」
静かだが、どこか切羽詰まった声でカナが尋ねてくる。
恭介は余計な言葉を使わず、そっと顎でユリカのいるショップの方向を指し示した。
ユリカが服をあてがって鏡を見ている背中が、遠目に見える。
残された時間はわずかだと察したのか、カナはユリカの視線が届かない隙を突き、恭介へ素早く要件を切り出した。
「……電話してもいい?」
まっすぐに見つめてくるカナの瞳。拒絶を恐れるような、けれど強い執着の混ざった眼差しに、恭介は一瞬躊躇したものの、短く答えた。
「……ん? うん」
その言葉を聞いた瞬間、カナの表情がわずかに和らいだ。
「うん。じゃあ」
それだけ言い残すと、カナは振り返り、ユリカが戻ってくる前に足早にその場を離れていった。
恭介がその背中を見送っていると、ショップからユリカが穏やかな笑顔で歩み寄ってきた。
「恭介くん、お待たせ。待った?」
「いや……大丈夫」
スマホをポケットにしまいながら、恭介はいつもの落ち着いた声で返した。ポケットの中で静かに収まっているスマホが、どこかズシリと重く感じられた。
ーー
「ねぇ、ちょっと洋服見てきてもいい?」
「うん、いいよ」
後ろをついてきていた彼氏にそう告げると、カナは引き留められる前にさっと背を向けた。
頭の中は恭介のことでいっぱいだった。話したい。どうしても、恭介さんと話がしたい。
胸の奥が痛いくらいに締め付けられ、居ても立ってもいられなかった。他のショップで商品を見るふりをしながら、周囲に悟られないようフロアを必死でウロウロと歩き回る。
(どこ……? どこにいるの……?)
焦りと緊張で手心が冷たくなっていく。そしてついに、フロアの隅のソファにぽつんと座り、スマホを眺めている恭介の姿を見つけた。
隣に、あの女の人はいない。
(今しかない……!)
心臓が破裂しそうなほど激しく鳴り響く。もし途中であの彼女が現れたら、その瞬間に引き返そう。お願い、彼女が来ませんように……神様に祈るような思いで、足早に恭介の元へと近づいていく。
目の前までたどり着き、ぎゅっと拳を握りしめて勇気を出した。
「……恭介さん」
声をかけると、恭介が「ん?」と顔を上げた。懐かしいその瞳が、まっすぐに自分をとらえる。
彼女に戻ってこられたら終わりだ。それに、自分の彼氏に見つかるわけにもいかない。時間がない。要件だけを、すぐに伝えないと……!
「……電話してもいい?」
喉の奥がカラカラに乾いていた。もしここで冷たく拒否されたら、その場で涙が溢れ出してしまうかもしれない。息を止めるようにして、恭介の口元を見つめた。
「……ん? うん」
その一言を聞いた瞬間、全身の緊張がふっと抜け、激しい安歩感が胸を満たした。拒絶されなかった。繋がっていられる。
「うん。じゃあ」
ボロが出ないうちに、カナは素早く背を向けた。ユリカに見つかる前に、そして待たせている彼氏のもとへと、弾かれたように足早に戻っていった。
胸の奥で、消えかけていた熱い感情が、静かに、けれど激しく渦を巻き始めていた。
昼間の出来事が頭から離れないまま、夜を迎えていた。
部屋の明かりを落とし、ベッドの上でスマートフォンを握りしめる。画面に表示された「恭介さん」の文字。心臓が痛いほど打ちつけている。もし出なかったら?断られたら?
息を呑み、意を決して発信ボタンを押した。
ぷるるる、ぷるるる……と無機質なコール音が鳴り響く。数回鳴ったところで、カチャリと繋がった。
「はい」
「……あ、恭介さん。カナだけど」
『うん』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、少し賑やかな店の喧噪と、グラスが触れ合う音だった。
「外にいるの?」
『うん、アンカーで飲んでる』
アンカー。二人で昔よく行った、あの行きつけのバーだ。懐かしい名前を聞いた瞬間、カナの胸がキュッと熱くなった。
「1人? 行ってもいい?」
断られる恐怖を押し殺し、思い切って尋ねる。
恭介は少しの間を置いたあと、いつもと変わらない静かなトーンで答えた。
『うん』
「じゃあ、後で」
通話を切ると同時に、カナは跳ね起きるようにベッドから飛び出した。
胸の高鳴りが止まらない。急いで洗面所へ向かい、鏡の前に立つ。パフを取り、リップを塗り直す。いつもより少しだけ念入りに、気合を入れてメイクを仕上げていく。
クローゼットを開け、並んだ服を次々と手にとった。
別に、今夜どうこうしようというわけじゃない。そんなつもりじゃない。ただ……恭介さんに「綺麗になったな」と思われたい。今の彼女に負けたくない。私を見てほしい。
恭介が好きだった、少し大人っぽくて上品なワンピースを選び、素早く身にまとった。鏡に映る自分を何度もチェックして、深く息を吐く。
バッグを固く握りしめると、カナは夜の街へと駆け出した。恭介が待っている、あの場所へ向かって。




