交差
「あなたは帰る場所を知らない」
——あの泥沼の別れから、不器用なまま進み出した二人のその後の物語です。
大きなすれ違いの果てに、彼らが何を見つけ、どこへ帰るのか。
よろしければ、再びお付き合いいただけますと幸いです。
※前作未読でもお読みいただけますが、前作の結末を踏まえた内容になっております。
前作最終話はこちら:https://ncode.syosetu.com/n9032mn/108
恭介の隣には、もうカナの姿はなかった。
代わりに部屋の扉を叩くようになったのは、ユリカだった。
ユリカは恭介よりも少し年上で、どこか落ち着いた雰囲気を纏ったスマートな女性だ。自分の軸をしっかり持っていて、立ち振る舞いにも洗練された大人らしさがある。
「恭介くん、ちゃんとしないとダメでしょ?」
週末の夜、テーブルの上に脱ぎっぱなしにされた服を見つけると、ユリカは呆れたように小さく笑いながら、優しく、心地よい声でそう嗜めた。その声にはどこか包み込むような温もりがあり、激務や人間関係に疲弊していた恭介の心を穏やかに解きほぐしていった。
週末になると、ユリカは自然な足取りで恭介の部屋に泊まりにやってくる。
二人で過ごす休日の朝、静かな部屋に漂うコーヒーの香り。
カナと過ごしていた頃のような激しい感情の波や、どこか追い詰められるような切迫感はそこにはない。
大人の落ち着いた距離感と、心地よい優しさに満ちた空間。
恭介はユリカとの穏やかな時間を重ねながら、確かな「新しい日常」を築いていた。
週末、恭介の部屋のテーブルには、ユリカの穏やかな笑顔がいつもあった。
恭介が仕事の愚痴や他愛のない出来事を話していると、ユリカは顎に手を添え、優しく目を細めて「うん、うん」と終始ニコニコしながら耳を傾けてくれる。カナのように感情をぶつけてきたり、自分の話で上書きしてきたりすることもない。恭介の言葉をただそのまま包み込むような、圧倒的な包容力があった。
「あれ?もうないわ…」
恭介が調子に乗って三缶目のビールに手を伸ばそうとした時、すっと綺麗な手が伸びてきて、冷えたグラスを軽やかに取り上げられた。
「はい、おしまい。お酒飲み過ぎだから、もうダメよ?」
少しだけ首をかしげて、悪戯っぽく笑うユリカ。
文句を言わせない絶妙なタイミングで、グラスの代わりに差し出されたのは、冷えた香ばしい麦茶だった。
「ほら、これ飲んで」
恭介は苦笑いしながら麦茶を一口飲んだ。口の中に広がるすっきりとした風味が、酒で火照った体をじんわりと冷ましていく。
自分の健康を思いやり、スマートに自分をコントロールしてくれる存在。
甘えさせてくれると同時に、手綱を優しく握ってくれるユリカとの時間は、恭介にとって何物にも代えがたい落ち着きと安らぎをもたらしていた。
ーー
恭介の隣には、すっかりユリカの姿が定着している。
休日の午後、二人で訪れた賑やかなデパート。高い天井と洗練されたショップが並ぶフロアで、ユリカは恭介の腕にそっと自分の腕を絡めて歩いていた。
どこか甘さを含んだ心地よい声で、ユリカが笑顔で語りかけてくる。
恭介の顔を見上げながら何かを説明し、楽しそうに微笑むユリカ。
その距離感も、漂うほのかな香水も、今の恭介にとっては心を落ち着かせてくれる日常そのものだった。
人混みの向こう側から歩いてくる女性の姿が、恭介の視界に飛び込んできた。
瞬間、時が止まったような錯覚を覚えた。ドクンと、胸の奥で心臓が大きく跳ね上がる。
少し髪が伸びている。だが、見間違えるはずもない。カナだった。
カナもまた、恭介に気づいていた。バチッと視線が正面からぶつかり合う。
ユリカは恭介の動揺に気づく様子もなく、「あ、あっちのディスプレイも素敵ね」と腕に手を添えたまま楽しそうに話しかけている。
だが、恭介の意識は完全に目の前の存在へと奪われていた。
カナの強い視線が、恭介の腕にぴったりと抱きついているユリカへと向けられる。
そして恭介もまた、カナのすぐ斜め後ろを歩く男の存在に目を留めた。
(……こいつが、カナの今の彼氏か)
シュッとした身なりの男。だが、カナの表情には何の笑顔もなかった。昔のように無邪気に笑ったり、甘えたりする様子は一切なく、どこか冷めたような、固い雰囲気を纏っている。
(仲良くやってるのか……?)
自問自答する間もなく、二人の距離は急速に縮まっていく。
ザワザワとした買い物の喧噪が、遠くのノイズのように消えていく。言葉なんて一言も交わさない。けれど、すれ違う一瞬、お互いの視線が痛いくらいに、熱く激しく交差した。
過去の熱量と、言葉にできなかった思いのすべてが、その一秒に凝縮されているかのようだった。
肩が触れそうなほどの至近距離を、そのまま通り過ぎていく。
二人分の足音が離れていく中、恭介は胸のざわつきを抑えきれず、歩きながら思わずちらっと後ろを振り返った。
——同じ瞬間に、カナもまた、足を緩めて後ろを振り返っていた。
人混みの間から、再び重なる視線。
互いの隣には、それぞれ別のパートナーがいる。
二人は言葉もないまま、静かに、けれど深く視線を交わしたあと、再びそれぞれの現実へと背を向けて歩き出した。
ーー
何をするにも、どこか身が入らない日々が続いていた。
今日は、彼氏に買い物に付き合ってもらっていた。
広いデパートのフロアを、カナが先を歩き、彼は少し後ろを静かについてくる。
昔の恭介のように、隣で手をつないだり冗談を言って笑い合ったりするような空気感は、ここにはない。
「ちょっと寄りたいとこがあるんだけどいい?」
「うん、いいよ」
後ろから返ってきたのは、波立たない静かな声だった。どこか物足りなさを感じながらも、カナは通路の角を曲がった。
——その時だった。
人混みの向こう側、ほんの数メートル先に見えたその姿に、カナの足がピタリと止まりそうになった。
(……恭介さん……!)
遠くからでも見間違えるはずもない。ずっと忘れられなかった、あの愛おしい背格好と雰囲気。
一瞬で胸がドクンと大きく跳ね上がった。
けれど、次の瞬間、カナの視線は固まった。
恭介のすぐ隣に、一人の女性が立っていた。
大人っぽく洗練された服を着こなした、綺麗な女性。
しかも、当たり前のように恭介の腕に自分の腕を絡めている。
(……誰? 新しい彼女なの……?)
頭の中が真っ白になった。
恭介の隣は、ずっと自分の場所だったはずなのに。
私がいない間に、私以外の女性が恭介さんの隣で楽しそうに笑っている。
その現実が、強烈な衝撃となって胸を激しく締め付けた。息がうまく吸えなくなる。
(嫌だ……見たくない……)
そう思いながらも、足は止められなかった。距離がどんどん縮まっていく。
緊張で手が冷たくなり、心臓が破裂しそうなほど早打ちする。
恭介が近づいてくる。
その顔が見えた瞬間、カナは溢れ出しそうな感情を抑えきれず、すれ違いざまに強く、激しい視線を恭介へと送ってしまった。
(どうして……? どうして他の女の人といるの……? 私のこと、もう忘れちゃったの……?)
頭の中はパニックで、気が動転していた。
隣にいる今の彼氏のことなんて、完全に意識の外へと吹き飛んでいた。
すれ違い、二人の距離が離れていく。
冷たい風が吹き抜けたような感覚の中、どうしても確かめたくて、カナは耐えきれずに後ろを振り向いた。
——恭介も、振り返っていた。
人混みの隙間を縫って、再び重なり合う視線。
恭介の瞳の中に揺れる複雑な色を見て、カナの胸の奥で、消えたはずの熱い塊が再び激しく疼き始めていた。




