鏡の中の空白
翌朝、結城は昨夜のオムライスの余韻を振り払うかのように、いつも以上に鋭利な空気を纏っていました。
彼が湊を連れ出したのは、都心の高級マンションで起きた「密室殺人」の現場でした。
被害者は、IT企業の若き役員。
死因は服毒によるものと見られ、現場の状況からは自殺の可能性も浮上していました。しかし、結城は部屋の隅々までを冷徹な眼差しで精査し、一切の妥協を許しません。
「状況から見て自殺として処理を進める」
先行していた捜査官たちの言葉に、結城は短く鼻で笑いました。
「証拠を揃えるのが面倒なだけだろう。この部屋には『不自然な静寂』が多すぎる」
結城は傍らに立たせていた湊を、顎で促しました。
「……おい、湊。何が見える。君のその『無駄な直感』を試してやる」
湊は、豪華な調度品に囲まれたリビングを、まるで迷子のような心細い足取りで歩き回りました。そして、洗面台の大きな鏡の前で立ち止まります。
「ねえ、結城さん。この人、死ぬ直前にこの鏡を見たはずだよ」
「鏡? ナルシストな被害者が身だしなみを整えるのは不思議じゃない」
「違うんだ。……鏡の中の自分を見て、笑おうとして、結局泣いちゃったんだ。ここ、一滴だけ水滴の跡がある。……でも、水道から飛んだものじゃない。高さ的に、目から落ちたものだ」
結城は眉をひそめ、鑑識に命じてその跡を調べさせました。
結果は、成分から見て「涙」で間違いありませんでした。
「自殺を覚悟した者が涙を流すこともある」
「ううん。この人は、誰かを待ってたんだ。ほら、キッチンを見て。グラスが二つ、綺麗に磨いて並べてある。片方には、ほんの少しだけ口紅の成分が残ってるみたいだ」
結城の顔色が変わりました。
「……待て。被害者は独身で、昨夜は一人で帰宅したと目撃証言がある」
「でも、グラスは二つある。……結城さん、この部屋は『完璧に片付けられすぎている』んだ。誰かの存在を消すために」
結城は即座に、被害者の周辺人物、特に交際関係を洗うよう部下に怒鳴り散らしました。湊の指摘により、捜査は「自殺」から「他殺」へと一気に舵を切ったのです。
しかし、現場からの帰り道。パトカーの助手席で、結城は湊に向かって冷たく言い放ちました。
「お前のやったことは捜査の攪乱に近い。あんな曖昧な『涙』だの『感情』だのを根拠に動くなど、本来の警察官ならあり得ん」
「でも、事実は他殺に向かってるじゃないか」
「結果が良ければすべて良し、というわけではない。……お前は危うすぎる」
結城はハンドルを握る手に力を込めました。
湊の直感は、結城が長年かけて築き上げてきた「論理という壁」を、いとも簡単にすり抜けてくる。それが、結城には恐怖ですらありました。
「……ねえ、結城さん。どうしてそんなに怒るの?」
「怒っているのではない。不愉快なだけだ。……お前を見ていると、自分の足元が揺らぐような気がする」
「……それは、結城さんが自分の心を信じていないからだよ」
湊が静かに、、でも核心を突くように呟きました。
結城は急ブレーキを踏み、車を路肩に止めました。車内に張り詰めた沈黙。
結城は湊の胸ぐらを掴み、その顔を至近距離まで引き寄せました。
「黙れと言ったはずだ。……記憶のないお前に、私の何がわかる」
「わからないよ。……でも、結城さんの手、震えてる」
指摘され、結城は弾かれたように手を離しました。
確かに、自分の指先は微かに震えていました。それは怒りなのか、それとも、湊の「正体不明の光」に当てられたことへの拒絶反応なのか。
「……帰るぞ。明日は被害者の愛人の聴取だ。お前も来い。……そこで、お前のその『嘘を見抜く目』が本物かどうか、最終試験をしてやる」
結城はアクセルを強く踏み込みました。
夜の街灯が、二人の横顔を交互に照らしては、闇へと追いやっていきます。
結城の「冷徹」と、湊の「温情」。
二つの異なる正義が、火花を散らしながら、一歩ずつ禁断の真相へと近づいていきました。




