解けない氷
翌日、警視庁の取調室。
強化ガラスで仕切られた部屋の空気は、結城が放つ威圧感によって氷点下まで冷え切っているようでした。
対峙するのは、被害者の愛人と噂されていた女性。彼女は完璧なまでの悲劇のヒロインを演じ、非の打ち所がないアリバイを理路整然と述べていました。
「……ですから、その時間は自宅で映画を見ていたと、何度も申し上げているはずです。信じていただけないのは心外だわ」
女性はハンカチで目元を拭います。結城は手元の資料に目を落としたまま、抑揚のない声で返しました。
「信じる、信じないなどという概念は警察にはない。あるのは、あなたの供述を裏付ける客観的な証拠だけだ」
結城の攻めは苛烈でした。スマートフォンの位置情報、近隣の防犯カメラ、微細な矛盾点。彼は論理の鎖で、じわじわと彼女の自由を奪っていきます。しかし、女性もさるもの。エリート警官の追及を、あらかじめ用意していたかのような回答でかわし続けます。
その様子を、部屋の隅でじっと見つめていた湊が、ふと口を開きました。
「……ねえ、その指輪。素敵だね」
唐突な言葉に、室内が静まり返りました。女性の指には、大粒のダイヤが輝くリングがはめられています。
「これは……彼からいただいたものです。私たちの愛の証よ」
「ううん。違うよ」
湊が静かに立ち上がり、彼女の元へ歩み寄りました。結城が制止しようとしましたが、湊の瞳に宿る異様な静謐さに、思わず手が止まります。
「君は、その指輪を一度も撫でていない。本当に大切に思っているなら、不安なとき、人は無意識にその『証』に触れるものだ。……でも、君はさっきから何度も、指輪がついている左手を、右手の袖で隠そうとしている」
女性の顔から、血の気が引いていくのが分かりました。
「君が本当に隠したいのは……その指輪じゃなくて、その下にある『痕』じゃないかな」
「……っ!」
女性が激しく動揺した瞬間、結城はその隙を見逃しませんでした。
「失礼」
強引に彼女の手首を掴み、袖を捲り上げる。そこには、まだ新しい、誰かに強く掴まれたような「痣」がありました。そして、もみ合った時の切傷もありました。
「これは……被害者の指の形と一致するな。抵抗した際についたものか?切傷も、現場のナイフと照合させよう!」
「違っ、これは……!」
そこからの結城は、獲物を追い詰める豹のようでした。湊が暴いた「感情の綻び」に、結城が「論理の楔」を打ち込む。
二人の呼吸が、まるで長年連れ添ったバディのように重なり、ついに女性は崩れ落ちるように自白を始めました。
捜査一課の廊下。
「……見事なものだったな、結城管理官。あの落とし方は、君らしくもないが」
同僚たちの冷やかしを無視し、結城は早足で出口へ向かいました。後ろを、湊が小走りで追いかけてきます。
「待ってよ、結城さん! ……怒ってる?」
「怒っていない。……ただ、計算が狂ったと言っているんだ」
駐車場にたどり着き、結城は車のドアを乱暴に開けました。
「お前のやり方は、危なすぎる。相手の懐に飛び込み、自分まで返り血を浴びるような真似だ」
「でも、結城さんが助けてくれたじゃないか。僕が道を作って、君がトドメを刺す。……これ、案外いいコンビかもよ?」
湊が冗談めかして笑った、その時。
湊の表情が急激に強張り、その場に膝をつきました。
「……あ、……が……っ」
「湊!?」
結城が咄嗟にその体を受け止めます。湊の視界がぐにゃりと歪み、脳裏に「記憶にないはずの映像」が奔流となって流れ込んできました。
燃えるような夕焼け。血に染まった制服。そして、誰かが自分の名前を呼ぶ、ひどく悲しい声。
「……ゆう……き……さん……」
湊の指が、結城の硬いジャケットを掴みます。
「おい、しっかりしろ! 湊!」
結城の声に、初めて「焦り」の色が混じりました。
冷徹であるべきはずの彼の手が、湊を抱きかかえる腕が、昨夜よりもずっと激しく震えていました。
結城は、無意識に祈っていました。
こいつを道具として利用しているだけだ。記憶が戻れば、捨てればいい。
……それなのに、なぜ、この手を離したくないと思ってしまうのか。
雨が降り始めました。あの日の夜と同じ、冷たい雨でした。




