86話 大事なことを忘れていました!
ふたつの入り口には、それぞれ殿と姫と書かれたのれんが掛けられている。そのことに驚愕したミズキは石のように固まってしまう。
気軽に大浴場に行ってみたいなどと思っていたミズキだったが、今となってはなぜ気がつかなかったのかと、以前の自分を問い詰めたい心情だった。
そうして目の前にある、殿と書かれた藍色ののれんと、姫と書かれた朱色ののれんが、まるで袂を分かつようにしてその存在を主張している。
朱色ののれんの向こうには、世の殿方が追いかけてやまない楽園が広がるのだろう。
しかし、ここで入ってしまっていいのだろうか。下着を穿くだけならば周囲への迷惑はなかった。
だが、しかし、これは覗きに値する犯罪行為ではないのか。自分の中にある何かが必死に訴えかけている。踏み留まるべきだと。本当にいいのかと。
ミズキだって健全な男の子だったこともあり、そういったものへの興味が無いと言えば嘘になってしまう。ゆえに、ミズキは葛藤し続けていた。
「じゃあ早速中に入ろっか」
「ま、待ってください……!」
入りかけたところで、呼び止められたファティマは振り向き首を傾げた。
「どうしたの?」
「ま、まだ覚悟が……」
「人の多いところが怖いのかな?」
「あの、そうじゃなくて……ですね」
煮え切らない態度のミズキに、ファティマはよくわからないといった表情をしていた。
しかし、ミズキはそれどころではなく、その心の中はまたもや揺れ動いていた。
その思いは流れる水の如く定まらない。次第に流れは激流となり、耐えるばかりで考えがまるでまとまらない。
終いには自然の中に流れ落ちる大瀑布の情景が浮かんでしまう。
そして水の流れる音の中、人々の団らんが聞こえてきた。そうして霧が立ち込める中に薄っすらと見える、様々な双丘の景色は現実のものとは思えない。
混乱する頭では、最早ここがどこであるのかさえわからなくなってきていた。
ふと暖かい風が吹けば、緊張に固まる体を解してくれるような気がしたが、ミズキはいよいよ自分が何を考えているのか、わからなくなってしまう。
一度頭を整理するために目を閉じ深呼吸をする。
つまり。
「覗くべきか。覗かざるべきか
「ミズキは見晴らしのいい露天風呂がいいんだよね?」
ファティマの言葉にミズキは同意する。いや、そうではない。問題はもっと根本的なところにある。すなわち、女湯という聖域に。
「入るべきか。入らざるべきか……」
「入ればいい」
クーがこともなげに言う。しかし、事は単純でもあり複雑でもある。
自身の尊厳をここで捨ててしまっていいのだろうか。女の子の体にされてしまったが、心は男の子のままだとミズキは信じて疑わない。
それでも、せっかく大浴場へと連れてきてもらったこともあり、覚悟しなければならない。ミズキがゆっくりと目を開けると。
「へ?」
ミズキは状況が理解できなかった。なぜ、すでに浴場内へと入っているのか。
右にいるファティマと左に居るクーが、固まるミズキをよそに体を洗っていた。
ミズキがぎこちない動きで右を見れば、なだらかな双丘が目に入る。
「ぎゃあああああ!?」
慌てて反対側を向けば絶壁が目に入った。
「ぎゃあああああ!」
「どうしたのミズキ?」
心配したファティマがミズキを覗き込めば、当然、強調した部分が目の前へと迫る。
「刺激が! 刺激が強すぎますぅぅぅ!」
「あ、目に泡が入っちゃったの? ちょっと待ってね」
ファティマが桶に汲んだお湯を、頭からミズキへと掛けていく。ミズキが頭を振り水気を飛ばす。
「なんで!?」
「なんでって何のこと?」
よくわからずファティマは首を傾げる。
「なんですでに中に居るんですか!?」
「それは――」
「動かなかった。そのまま連れてきた」
ファティマが言いかけたところを、クーが割り込み説明する。どうやらミズキが迷い固まっている最中に、大浴場へと連れてこられたようだった。
「まだ入るかどうか迷ってたのにッ……!」
「入ればいい」
ミズキが叫んでいる横では、クーが手早く洗った髪を、お湯で洗い流しているところだった。
「まぁよくはわからないけど、もう入っちゃったし諦めよう?」
ファティマも自身の体を洗っていたが、その後ろに居る一九九一が、背中と羽を洗うのを手伝っていた。
「自慢の大浴場ですからきっと気にいってくださるはずですよ!」
一九九一に眩しい笑顔を向けられてしまい、諦めるしかないのかと思ったとき。背中ににゅるっとした感触がした。
「へ?」




