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第7話 その先

 死体が、あまりにも多かった。


「…………」


 歳久は馬上から、黙ってそれを眺めていた。


 川岸に一人、その先に二人、さらに向こうには、折り重なるようにして何人もの兵が倒れている。

 川の浅瀬にも死体があった。流れに引っかかり、うつ伏せになっている者。

 岸へ這い上がろうとしたのか、泥を掴んだまま動かなくなっている者。


 刀傷もなく、矢傷もない。鉄砲で撃たれた痕もない。逃げる途中で渡ろうとした川に呑まれ、溺れ死んだ者たちだ。


 川は、それでも流れていた。昨日までと同じように。


「酷いものですな」


 隣から声がした。

 歳久は振り向かない。


「ああ」


 それだけを答えた。


 天正六(1578)年、十一月。


 日向国、耳川。

 島津と大友の戦いは、島津の大勝に終わった。


 山田有信と島津家久らが守る高城を攻めていた大友の大軍は、救援に駆けつけた島津軍と激突した。

 敗れた大友勢は潰走。

 追撃を受けながら耳川へと殺到し、多くの兵がその流れに呑まれた。耳川の戦いである。


 歳久は馬を降りた。

 泥を踏み、一人の死体の前で足を止める。


 まだ若かった。仰向けになり、空を見つめている。その目を、歳久はしばらく見ていた。


「殿」


 家臣が呼んだ。


「そろそろ」

「ああ」


 歳久は屈み、若者の瞼を閉じた。


「行こう」


 ◇


「皆、ご苦労であった」


 義久が諸将を労い、軍議は終わった。


 武将たちが次々と陣幕を出ていく。

 やがて残ったのは、四人だけになった。


 義久、義弘、歳久、家久。


「勝ったというのに、随分と難しい顔をしておるな、又六郎」


 義久から問いかけられた。


「手柄を俺と又七郎ほど立てられなんだのがそれほど悔しいか」


 義弘がわははと笑った。


「何か気になることでもおありなのですか、兄上」


 家久が首を傾げた。


「又六郎、大友に勝ったのだ。これで日向は我らのもの。これ以上のことはあるまい」


 義久がふっと表情を和らげる。

 義弘も頷いた。家久は兄たちの顔を順番に見ている。

 歳久はしばらく黙っていた。

 そして、言った。


「勝ちすぎました」

「……何?」


 義久の表情から笑みが消えた。

 義弘も眉を寄せる。


「何と申した」

「勝ちすぎた、と申しました」

「又六郎、お主!」


 義弘が立ち上がりかけたのを、義久が手で制した。


「又六郎、勝つことに何の問題がある」

「勝つことに問題はございません。ですが、勝ちすぎた」

「どういう意味だ」

「我らに、この勝ちを全て食えるだけの腹がありません」

「何?」


 義弘が座りなおした。


「このまま豊後へ攻め込み、大友を滅ぼせますか」

「それは無理だ」


 義久は即座に答えた。


 勝ったとはいえ、遠征の末の激戦だった。

 兵を国へ帰し、休ませねばならない。

 新たに得た日向の地を鎮める必要もある。


 何より、大友は大国である。


 大勝したからといって、そのまま呑み込めるほど小さな相手ではない。


「ですが、腹を空かせた熊はおります。それも、すぐ近くに」


 義久の目が見開かれた。


「肥前か……」

「はい」


 肥前の熊——龍造寺隆信。表向きは大友に従っているが、大友が弱ればどうなるか。


 陣幕の中が静かになった。

 義弘も腕を組み、考え込んでいる。

 その沈黙を破ったのは、家久だった。


「では、次は熊退治ですな」


 三人が家久を見る。

 家久はにこりと笑った。


「鍋でも用意いたしましょう」

「…………」


 兄三人が顔を見合わせた。


「お主は……」


 義久が額を押さえる。


「腹が減ったぞ」


 義弘が呟いた。

 歳久も思わず口元を緩めた。


「では、酒でも飲みながら、その時をゆるりと待つか」


 そう言うと、義久と義弘が同時に答えた。


「飲むな」


 歳久は肩をすくめ、家久の笑い声が陣幕の中に響いた。


 ◇


 それから、六年。

 熊は、歳久が思っていた以上に肥え太った。


 天正十二(1584)年、三月。


 肥後国、佐敷城。


「…………」


 歳久は一人、地図を前に座っていた。

 九州の地図ではない。

 日ノ本の地図だった。


 天正十(1582)年六月。


 本能寺において、織田信長が死んだ。

 歳久はその報せを聞いた日のことを、今でも覚えている。酒を飲んでいた。だが、酔いは瞬時に冷め、落とした盃から溢れた酒が木床に広がった。


 あれほどの力を持つ男が。

 武田を滅ぼし、畿内を制し、毛利を追い詰め、天下へ手を伸ばしていた男が。


 たった一夜で消えた。

 討ったのは、明智光秀。

 だが、その明智も長くは続かなかった。


 羽柴秀吉。


 備中から凄まじい速さで軍を返し、山崎で明智を討った。


 それから二年。

 天下は再び割れるかと思われた。だが、そうはならなかった。


 羽柴は信長の旧臣たちを次々と従え、織田の後を継ぐように勢力を広げている。


 もっとも――。


「まだ、決まってはおらぬ」


 歳久が呟いた。


 徳川家康。


 東には、あの男がいる。

 羽柴と徳川は、今まさに争っている。

 この争いが長引けば。

 

「…………」


 まずは九州を一つにする。

 その上で、毛利を抑えることができれば。


 歳久の指が、地図の上を動いた。


 九州から長門、周防、安芸……。


 ――《《届く》》やもしれぬ。


 歳久は指を、ゆっくりとさらに東へ進めようとして、止めた。


 歳久は自分の考えに、ふっと笑った。

 やはり、あまりにも遠い。


 そもそも九州すら、まだ一つになってはいない。


 歳久は立ち上がった。

 城から海を望む。

 八代海。その先には、天草の島々が浮かんでいる。


 そして、そのさらに向こう。


 島原。


 今、そこで戦が起きている。

 相手は――龍造寺隆信。


 六年前、耳川で大友が敗れて以降、歳久が予想した通り、肥前の熊は大友の領国を食い荒らした。

 その勢いは、もはや九州の半ばを呑み込まんばかりである。


 そして今、その牙は島原へ向けられていた。


 島原の有馬晴信。龍造寺に圧迫された有馬は、島津に助けを求めた。


 島津は援軍を送った。

 ただし、送り込むことのできた兵はわずか三千ほど。一方の龍造寺軍は、二万五千とも三万とも聞く。


「…………」


 歳久は海の向こうを見た。


 島津の援軍を率いるのは四兄弟の末弟、島津家久。


 ——又七郎ならば、そう容易くは負けまい。


 龍造寺を引きつけ、こちらがさらなる兵を集めるまで持ち堪える。


 それでよい。


「申し上げます!」


 慌ただしい足音と、声が響いた。


 歳久が振り返る。

 廊下を駆けてきた伝令が、その場に膝をついた。


 肩で息をしている。


「島原より、急報にございます!」

「申せ」

「はっ!」


 伝令が顔を上げた。


「我が島津と有馬の連合軍、沖田畷の地において――」


 一度、大きく息を吸った。


「龍造寺勢を破りましてございます!」

「…………」


 歳久の眉が動いた。


「破った?」

「はっ! 敵勢、潰走!」


 伝令の声が弾む。


「龍造寺隆信、討ち死に!」

「…………何?」

「さらに成松信勝、百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤ら、重臣もことごとく討ち取ったよし!」


 歳久は動かなかった。

 伝令は興奮したまま続ける。


「我ら島津・有馬勢、およそ五千! 敵は二万五千以上! されど又七郎様の采配にて、見事――」

「待て」


 伝令が口を閉じた。

 歳久はゆっくり振り返った。


「……隆信は、本当に死んだのか」

「はっ。首を討ち取ったとの報せにございます」

「…………」


 歳久は黙った。

 負けぬとは思っていた。

 さぞかし隆信(熊)も手を焼くだろうと。


 まさか。


「熊を……」


 歳久の口元がわずかに動く。


「本当に退治しおったか」


 歳久は地図へ歩み寄った。

 歳久が見ていたのは、九州ではなかった。


 指が置かれたのは、遥か東。

 指先にある地名を、じっと見つめていた。


 これで九州を一つにできる。

 ならば、その次は。


「…………」


 遠いと思っていた場所が。

 ほんの少しだけ――。

 近くなった。

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