第8話 天下人
近くなったと思った。そう思ったが——
小牧・長久手で徳川家康に敗れた羽柴秀吉は、戦場の外で巻き返した。
織田信雄を取り込み、名分を失った徳川と和睦する。
さらに朝廷より関白に任じられ、四国へ兵を送り、長宗我部を降した。
秀吉は、負けても失わなかったのだ。それどころか、織田信長が十数年をかけて築き上げたものを、恐るべき速さで自らのものとしていった。
その間にも、島津は戦い続けていた。
だが――。
九州は、まだ一つになっていない。
そして今。
その秀吉から、一通の書状が島津のもとへ届いていた。
◇
「大友攻めをやめよだと!」
家臣の一人が声を荒らげた。
「九州統一は目の前ですぞ! 今さら兵を退けと申すか!」
「大友が泣きついたのであろう」
「それで我らが従わねばならぬ道理がどこにある!」
広間に怒声が飛び交う。
歳久は黙って、その様子を眺めていた。
一段上がった上座には義久。
その傍らには義弘と家久。
歳久は少し離れた場所に座っている。
重臣たちの多くは、秀吉の命に従うことへ否定的だった。
無理もない。
耳川で大友を破った。
沖田畷では龍造寺隆信を討った。
筑後、肥後へと勢力を伸ばし、今や九州の大半が島津に靡こうとしている。
あと少しなのだ。あと少しで、九州の至るところに丸に十の字の旗が翻る。
「そもそも羽柴など――」
一人の老臣が吐き捨てた。
「元は名もなき百姓の子であったというではないか。名門の生まれでもなければ、武家でもない。そのような者に、なぜ島津が頭を下げねばならぬ」
何人もの家臣が頷く。
しかし――。
「それは違う」
歳久が言った。
広間が、波の引くように静まり返った。
全員の視線が歳久へ集まる。
「生まれが卑しいからこそ、侮ってはならぬ」
「しかし――」
「もし、まことに百姓の出であるならば」
歳久は遮った。
「なおさら恐ろしい」
誰も口を挟まない。
「何も持たぬところから、一代でここまで昇った男だぞ」
歳久は静かに言った。
「只者であるはずがなかろう」
広間が静まり返る。
「織田信長が死んで、まだ四年ほどだ。その間に明智を討ち、柴田を破り、毛利を従え、徳川と和し、長宗我部を降し、ついには関白にまでなった」
歳久は上座の兄を見る。
「又三郎兄上」
「ああ」
「戦は避けるべきです」
義弘の眉が動いた。
「又六郎。そこまで恐れるか」
「恐れます」
歳久は即答した。
広間がわずかにざわめく。歳久は構わず続けた。
「儂は十一年前、京や堺を見ました。人も、物も、銭も――薩摩とはまるで違った」
あの日の京が、脳裏に浮かぶ。
人で埋め尽くされた通り。
荷を運ぶ商人。
行き交う牛車。
聞いたこともない品々。
そして、絶えず動き続ける銭。
「信長は、それらを使って天下へ手を伸ばした」
一度、言葉を切った。
「今、それを秀吉が手にしております」
「だからとて」
別の家臣が口を開いた。
「ここは九州にございます。畿内ではありませぬ」
「そうだ」
義弘も頷いた。
「奴らは遠い地から来るのだ。山も川もある。兵糧も運ばねばならぬ。ここは我らの地ぞ。迎え撃てばどうということはない」
「左様!」
「九州での戦ならば我らに利がございます!」
家久も、家臣たちも頷いた。
歳久は何も言わなかった。
ただ、目を細める。
――薩摩は遠いな。
十一年前、京の町を歩きながら、歳久は家久にそう言った。
あの時は、あまりにも遠いと思った。
沖田畷の勝報を聞いた時、ほんの少しだけ近づいたように思えた。
だが今は、あの時よりも、さらに遠くなったように思える。
ふと左手を見た。微かに震えていた。これは、恐怖なのだろうか。
「又六郎」
義久が呼んだ。
歳久はハッとして、顔を上げた。
「お主の言いたいことは分かった」
「兄上……」
「だが、ここまで来た」
義久は目の前の書状へ視線を落とした。
その手が、硬く握られる。
「島津のために戦い、死んだ者がいる。城を明け渡し、我らに従った者もいる。今になって大友を残し、兵を退けば――」
義久は一度、言葉を切った。
「従った者たちは、どう思う」
「…………」
歳久は答えなかった。
答えられなかった。
それもまた、分かっていた。
勝ち続けるということは、前へ進み続けるということでもある。
そして、一度膨れ上がったものは、容易には止まれない。
耳川の後、龍造寺を見てそう思った。
腹を空かせた熊は、大友が落としたものを食らい続け、やがて自らでは止まれぬほどに肥え太った。
では今の島津は――。
「…………」
歳久は、その考えを口にはしなかった。
義久が書状から視線を外さず、静かに言った。
「大友を攻める」
声は小さいが、迷いはなかった。
歳久は目を閉じた。
やがて目を開き、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
天正十四年九月九日。
秀吉は朝廷より豊臣姓を賜った。
——豊臣秀吉。
九州では黒田孝高を軍監とした毛利勢が海を渡り、筑前へと入った。
仙石秀久を軍監とした四国勢は大友救援のために豊後へと入る。
島津は豊後攻略へと兵を動かした。
義弘に三万。
家久に一万。
そして同年十二月。
豊後国、戸次川。
島津家久率いる軍勢は、大友救援のため豊後へ進出した豊臣方の先遣隊と激突した。
島津の勝利だった。
仙石秀久は敗走。
十河存保、討ち死に。そして土佐の長宗我部元親の嫡男・信親もまた、その地で命を落とした。
「勝ったぞ!」
「豊臣勢を破った!」
「関白の軍とて恐るるに足らず!」
勝報に、島津の将兵は沸き立った。
あれほど天下に名を轟かせた秀吉の軍勢。
それを四兄弟の末弟が破った。
九州ならば、この地で戦うならば島津は負けぬ。
そんな空気が、家中を覆っていった。
歳久だけは笑わなかった。
◇
翌、天正十五年三月。
秀吉の弟・豊臣秀長が、ついに九州へ入った。
率いる兵は、十万余。
さらに秀吉自らも大坂を発ち、山陽道を西へ進んでいる。こちらも、十万余。
毛利、宇喜多、小早川、吉川、黒田。
かつて島津が九州で戦ってきたものとは、何もかもが違った。二十万を超えるともいう軍勢が、島津を踏み潰そうとしている。
歳久は豊後国の城で、一人、地図を見つめていた。
「…………」
指で道をなぞる。
どこで迎え撃つ?
豊後か。だが豊後は戸次川の後も完全には平定できてはいない。
日向か肥後か。
それとも、もっと引き摺り込み、兵站を狙うか。
考えろ。戦う前に考え終わらねばならぬ。
どこで、どうやって戦えば――。
「…………?」
不意に、指先の感覚が消えた。
歳久は自分の手を見る。
動かそうとしたが、動かない。
「……なんだ」
呟いた声が、自分のものではないように聞こえた。
次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
「っ……」
身体が傾く。
地図へ手をつこうとした。
だが、手が出ない。
どさり、と歳久の身体が地図の上へ倒れ込んだ。
「殿!」
誰かが叫んだ。
「殿! いかがなされました!」
足音が近づいてくる。
「殿!」
視界が揺れる。体を揺すられているのだろうか。
だが何も感じなかった。
「殿!」
その声もやがて――。
消えた。




