第5話 負けの後
どれほど刻が経ったのか、分からなくなった。
「はぁ……はぁ……」
歳久は荒い息を吐き、左の足を引き摺った。すでに馬からは下りていた。馬は矢を受けて横たわっている。動くごとにガチャリと音を立てる甲冑には幾筋もの刀傷が走っていた。
そして、右手に握った太刀がずしりと重い。一太刀、一太刀と、振るうたびに重くなり、今ではもう最初の倍ほどの重さがあるように思えた。
太腿に突き立った矢は、邪魔にならぬよう途中で折った。だが、鏃はまだ肉の中に残っている。下手に抜けば血が噴き出す。
歳久の周りに幾人も倒れていた。矢で射られ、槍に刺され、太刀で斬られていた。皆、歳久と共に戦った者たちだった。
「若様!」
家臣の声が聞こえた。
だが、遠い。
すぐ近くから聞こえているはずなのに、ひどく遠く感じる。
歳久は霞む目を必死に瞬かせた。目の前に、黒光りする甲冑があった。
甲冑の男が太刀を振り上げる。
歳久も太刀を握り直し、力を込める。
それでも、太刀はわずかに震えるばかりだった。
——父上と兄上は無事だろうか。
そうならば良い。
自分にも、それだけの価値はあったというものだ。
頭上に振り上げられた太刀を眺め、歳久はそう思っていた。
その時だった。
――ヒュッ。
短い風切り音が鳴り、眼前にいた男が呻いた。その脇腹から、矢羽が生えている。
男は苦悶の表情を浮かべ、倒れ込んだ。
「又六郎ぉっ!」
聞き覚えのある声が山間に轟いた。
歳久が顔を上げる。
敵兵の横腹へ、新たな一隊が突っ込んだ。
「又五郎様だ!」
「又五郎様がお越しになったぞ!」
家臣たちの声が上がる。
「……叔父上」
歳久の口から、掠れた声が漏れた。
島津尚久。父・貴久の弟であり、数え二十五歳の若武者だった。
別働の隊を率いていた尚久が、歳久のもとへ駆けつけたのである。
「押し返せ!」
尚久が叫んだ。
弓を背へ回し、五尺はあろうかという腰の大太刀を抜き放つ。
「又六郎を死なせるな!」
島津兵が鬨の声を上げる。
そして、それまで歳久たちを押し包んでいた敵勢へ、横合いから雪崩れ込んだ。
刀槍のぶつかる音。怒号や雄叫び。そして悲鳴。
それらが耳に届いて、歳久の身体から、ふっと力が抜けた。
膝が折れる。
地面へ倒れ込む寸前、誰かの腕が歳久の身体を抱き止めた。
「又六郎! 生きておるか!」
「叔父上……」
歳久は薄く目を開けた。
「あいにくと、まだ」
「口の減らぬ奴だ!」
尚久は怒鳴った。
だが、その顔には安堵が浮かんでいた。
「叔父上……父上は……兄上たちは……」
「無事だ! 無事に逃げおおせた。お主のお陰だ!」
「それは……重畳」
そう言って、歳久の意識は闇へ落ちた。
◇
当主の貴久を救うために幾人も死に、手痛い敗戦を喫した島津だったが、その勢いまで失われたわけではなかった。
むしろ何も無かったかのように、貴久は再び兵を動かした。
島津と敵対していた蒲生氏、祁答院氏は相次いで城を失い、島津は着実に勢力を広げていった。
城を一つ落とせば、また次の城へ。
敵を退ければ、また新たな敵を討つ。
そんな戦の日々の中で、歳久もまた、いつまでも兄たちの後ろを歩く弟ではなくなっていた。
兵を率い、城を攻め、やがて一城を預かる身となった。
だが、周りを何より困惑させたのは、その戦いぶりだった。
「又六郎」
ある日のことである。
義久は呆れたように弟を見ていた。
「はい」
「少しは自分を大事にしたらどうだ」
「大事にしておりますが」
「どこがだ!」
義久が声を荒らげた。
「敵陣が崩れたと見るや、真っ先に飛び込んだそうではないか! この前も肩を斬られたであろう!」
「浅手です」
「その前は腕に矢を受けた!」
「掠っただけです」
「北村では死にかけたではないか!」
「もうずいぶん昔の話です」
「十年も経っておらぬわ!」
義久が額を押さえた。
「又六郎。お主は昔から考える男であったろう。ならばもう少し考えてだな……」
「又三郎兄上」
歳久が真顔で遮った。
「戦場では考えることなどありませぬ」
「……何?」
「もはや考え終えておりますゆえ」
義久が黙った。
そこへ、隣で聞いていた義弘が吹き出した。
「何がおかしい」
「いや」
義弘は肩を揺らしている。
「こやつも結局、島津の男だったということですな。俺と同じだ」
「笑い事ではない!」
「又四郎兄上」
「何だ?」
今度は義弘が歳久を見る。
歳久は涼しい顔で言った。
「同じではありませぬ」
「ほう?」
「私はきちんと考えて《《から》》突っ込んでおります」
義弘の笑みが消えた。
「……それではまるで、俺が考えなしに突っ込んでいるような言い方ではないか」
「違うのですか?」
「又六郎」
義弘がゆっくりと立ち上がった。
「表へ出ろ」
「嫌です」
「即答するな!」
「稽古なら、ちょうどよい相手が来ましたよ」
「何?」
廊下の向こうから、ドタドタと騒々しい足音が近づいてくる。
「兄上!」
勢いよく姿を現したのは、一人の若者だった。
「おお、又七郎ではないか」
島津又七郎家久。
歳久とは十歳離れた異母弟である。
幼かった末弟も、今では甲冑を身につけて戦場を駆ける年頃になっていた。
「また首を取りました!」
「おお、さすがじゃ!」
義久が嬉しそうに家久を褒める。
「又七郎!」
「はい、又四郎兄上!」
「ちょうどよい。表へ出ろ!」
「えっ?」
「稽古をつけてやる!」
「本当ですか!」
家久の顔がぱっと輝いた。
二人のやり取りを見ていた義久がやれやれと歳久の方へと振り返った。
「そうだ、又六郎。お主、酒の方もほどほどに……」
そこで義久は気づいた。
「……おらぬ」
いつの間にか歳久の姿が消えていた。
義久はしばらく無言でその場所を見つめ――。
「まったく……」
深い、深いため息をついた。
◇
永禄九年。
義久は父・貴久より家督を譲られ、島津家第十六代当主となった。
その後も島津は周辺勢力との戦いを続ける。
義久が家中を束ね、義弘が戦場を駆け、歳久がその一翼を担った。
そして十歳年下の家久もまた、兄たちに追いつくように武功を重ねていった。
やがて兄弟には、それぞれの戦場が与えられるようになる。
義弘は日向へ。
歳久は大隅へ。
元亀三年九月。
歳久は大隅国の伊地知重興攻めの大将を務め、伊地知重矩が守る小浜城へ兵を進めた。重矩は城に籠もって抵抗したが、歳久の猛攻に耐えきれず、小浜城は落城した。
その少し前の同年五月。
日向では義弘が、わずか三百ほどの兵を率いて伊東勢およそ三千と激突した。
後に「木崎原の戦い」と呼ばれる戦である。
「又四郎兄上らしい」
その報せを聞いた歳久は、そう言って苦笑した。
十倍の敵を前にしてなお戦い、そして勝つ。
あの兄ならばやりかねない。
いや。
あの兄だからこそ、やったのだろう。
——やはり、とても真似できぬ。
◇
島津は、戦うたびに大きくなっていった。
義久、義弘、歳久、家久。
それぞれ性格も違う。
戦い方も違う。
だが四兄弟は、同じ丸に十の字の旗の下で戦った。いつしか四人は、それぞれに島津を背負うようになっていた。




